2012-02-25

平和記念公園に思う


21エジプトからの招客を広島にエスコートする。

シリア入国ビザのことを娘に頼んで、羽田から飛行機に乗る。娘も予定していたオーストラリア行きを直前にキャンセルして、私と一緒にシリアに行くことになった。

広島でも雪が舞っていた。昼食を済ませ、平和記念資料館を見学し、被爆者の方の話を聞く。14歳のときに被爆したKさんは、淡々と経験を話してくれた。エジプト人のK氏は、いかにして苦しみに打ち勝ったかという質問をした。「悲しむヒマがなかったですからね。父は被爆の2年後に亡くなり、母も寝たきりで、3人の弟を文字通り『食べさせ』ないといけんかったですから。」K氏はさらに、世界へのメッセージは?と尋ねた。Kさんは「戦争はとにかくやめてください。」と静かに答えた。

講話室を出たときK氏は、つぶやいた。「復讐という言葉はないんだ。」惨状を資料館で見たあとでの、Kさんの静かな、しかしなにものより強いメッセージは、K氏のなかでは、まだ整理できていないようだった。戦後、平和への願いをこめて、この場所は「平和記念公園」と名づけられた。「原爆公園」ではなく。この命名をK氏はどう思っただろうか?

その後、K氏のかねてからの希望で、原爆犠牲者に献花を行った。花を献花台に挿し、平和の火と見ていると、シリアでの現在の「内戦」を否が応でも思い浮かべてしまう。「平和」と言うならば、シリアは私のいた22年間は、極めて平和だった。私が最初にシリアに行ったときは、まだモノがそれほど豊富ではなかったが、その後、徐々に、生活が「豊か」になっていくような気がした。中流でも車が買えるようになり、携帯が普及し、町ではレストランで食事を楽しむ層も増えた。人々の服装も垢抜けしてきた。

あの「平和」はしかし、見せ掛けだったのか。最終的に自由な表現には制限があった。車に乗って、携帯で話して、少ししゃれた服を着ることができるようになっても、欠けているモノがある。この「平和」を超えて、さらに求めるものがある。

平和を願う気持ちと、自由を願う気持ち。この二つが相反する事象になって進行している。

2012-02-24

アラブの春?


129日夕方、私はエジプトからの招客のエスコートを請負っており、成田に出迎えに向かった。

成田への電車の車窓が、薄昏から徐々に暗くなるのを見つめながら、この一週間のスケジュールよりも、いわゆる「アラブの春」という言葉をぼんやり反芻していた。これより先に訳する機会のあったビデオテープの中で、インタビューに答えたチュニジア女性が、「春」と言う表現ははあまりにも楽観的だわ、犠牲者のことを考えたら、こんな命名は私は受け入れられない、と言っていた。

成田に着き、ネームカードをもち、到着ゲートで招客を待つ。新生エジプトは、衝撃的な元大統領ムバラクの退陣を経験した後、今身もだえしながら歩き始めている。シリア情勢と、アラブ全体の動きを重ね合わせながら、出てくる人をチェックする。

恰幅のいい、しかしアラブのどこの町にもいるような中年の男性が出てきた。K氏である。簡単に挨拶を交わすと、彼は私がシリアに長年いたことをなにかの資料で見たのか、「私の妻もシリア人ですよ。今のシリアの状況を妻と一緒にいつも案じています。」と、言ってくれた。これをきっかけに、都内のホテルに着くまで、エジプトの現在の情況や、シリア情勢に関して、どちらが語るでもなく語った。

家に戻り、明日からの予定を確認しつつ、フェースブックを開けたら、夫の甥っ子からのメッセージで、電話をしてほしい、と彼の電話番号が書かれていた。なぜかなと思いつつ、明日は早い、電話はせずにベッドに入り、少しうとうとしかけたときに携帯がなった。妙な番号が目に入った。こんな夜中に、と思いながら出ると、件の甥っ子であった。

「何でもないんだけど、おじさんが具合が悪くて入院した。」という。胸騒ぎがして、携帯を持つ手が震えた。「何でもないって、入院ってどういうこと?」「今どこにいるの?病院にいるなら、話しをさせて」とだんだん高くなる自分の声に動揺しながら、立て続けに叫んでしまった。彼は口ごもって、「おじさんは誰とも話せないんだ。集中治療室にいる。」と言う。いいほうに解釈しようとした。「中に入らせてもらってよ、日本の奥さんが話したいって言ってる、ってお医者に頼んでよ。」と無理を言った。彼は、短く「おじさんは昏睡状態なんだ。」と言った。

「アラブの春」と言う標語が、このとき私の中でも、残酷な響きを持って聞こえた。

シリア、第二の祖国

シリアとかかわり出して23年、うち22年間はかの地で過ごした。安全な国であった。しかしシリアはその代償を払ってもいたのだ。

2週間前に、シリア人の夫を亡くした。

昨年、事情があり日本に戻っていた私が、シリアに帰りたいというたびに、アレッポに在住する主人は、今は危ないから日本にもうしばらくいたほうがいい、と答えていた。

なすすべもなく徐々に悪化するシリア情勢を、日本で不安を持って見守っていたが129日、突然の夫の危篤の報に、全ての躊躇は拭い去られた。飛行機を予約し、友人にその旨を告げると、「ほんとに危険を冒す気なのか」というメールが来た。医師であるこの友人は、「危篤」の意味を知っている。にもかかわらず、「危険」と言う言葉を使った。重い言葉であった。

昨年の315日に始まった民衆の反政府運動が日を追う毎に泥沼化しているのはニュースで報道されているが、市民生活の中で、塵のように、気付かぬうちに積もる不安は、当初はそれほど目に見えなかった。スカイプ通話を通して23日おきに夫と話していても、最初は変革への期待のほうを強く感じた。他の友人との会話でもそうであった。

特にアレッポは、騒乱が激化する他の地方都市とは違い、表向きにはおおきな動きがあるわけではない様に見えた。だから、私もつい、「今少しだけ行ったらダメかしら」などと言ったりしていたのである。夏ごろまでは、それでも、日本人の友人がシリアに入国していたし、それもあって、「今は来ないほうがいい」というのは夫のオーバーリアクションなのではないのかしら、などと思ってもいたのである。

11月にはいり、欧米のシリアに対する制裁が本格化したころから、事態は闇に向かい始めた。それは電話での夫の声の調子からもわかる。大晦日の夜、普通の年ならば、レストランなどに繰り出して、カウントダウンをする人も多いアレッポでも、今年は、ほとんどが家で過ごしたようである。それは、増え続ける犠牲者への追悼の表現でもある。

年が明ける。停電の影響で、スカイプ通話も停電の合間を縫って行う。「ネット環境」は昔から悪かった。停電も、もっと長時間の停電を普通に経験した。しかし、このような不安の「おまけ」はなかった。

そして危篤の報。こんな気持ちでシリア行きの飛行機に乗ることになろうとは。