2012-11-30

義弟マフムードの死


義弟のマフムードが死んだ。

スカイプで別の友人と話していたときだった。久しぶりにトルコにいる義理の姪の主人からメッセージが入った。友人とたわいない話を続けながら,メッセージを開いたとたん、目に飛び込んで来たのは、

マフムードが殉教しました。哀悼の念をあなたに。

という、わずか一行の簡単なメッセージだった。
のどの奥から、熱い自分でも抑えられない呻きがわき上がった。苦いものがこみ上げてくるような気がした。

しかし、なにかしら、予想していたことでもあったのだ。彼がトルコからシリアに再び入り、アレッポ郊外で結構大きな部隊を率いていることを甥っ子のハムドゥーから聞いたとき、彼は長くはないと思った。その胸騒ぎが、的中した。

何が彼を戦線に駆り立てたのか。彼は離反者である。死刑宣告は前から出ており、シリアに入ったら、即刻死刑だぜ、と笑い飛ばしていた。アレッポに入る以前、彼は政治亡命を考えているとも言っていた。家族のことを考えてのことであろう。だから彼のアレッポ入りを聞いたときは、彼の行動にはそれなりの意味があると思った。

彼の死をどういう風に受け止めていいのか、わからない。平和な私たちのアジェンダが一つずつ崩れている。それだけは確かである。
そして、アジェンダの乱れはわたしだけのものではない。シリア全てがこの不確定さの中にあることに、いまさらながら気づいた私は、なんと鈍感であることか。

ハムドゥーともいつぞや話した時、彼は自暴自棄になっていたことがあった。しかし、その後死ぬのは後回しにしたよ、とアレッポ郊外で被害者の救援活動をし始めた。もちろん、彼のやっていることに命の保証はない。

同じく、今日パリに避難しているSさんの夫、Nさんは、こんな中で、アレッポに戻って行ったらしい。どうして?何かどうしようもない理由でもあったの?と 聞いたが、Sさんの答えは、「何もないのよ。だけど、彼はアレッポが恋しくなったの」というものだった。

今シリアでは、誰もがあらがうことのできない求心力によって、人が戦いの場に吸い込まれて行くようだ。

2012-11-19

笑みの消えた顔


今月のはじめにヨルダンのシリア避難者キャンプ(ザアタリ・キャンプ)を訪れる機会を得た。キャンプの周囲は、緑もなにもない、きわめて乾いた土地である。すぐわきにザアタリの集落があるにはあるが、僻地には変わりない。

キャンプの中に入ると、まず目に入ったのが、新しくシリア国境を超えてきた避難者たちに必要最低限の必需物資を配る光景であった。60才くらいの女性が配給されたと思われるマットレスに腰掛け、その娘とおそらく息子の嫁、そして孫と思われる数人の子供たちが彼女を取り巻いている。

話を訊くと、ダラアから逃れてきて、今日の朝早くキャンプに着いたという。足下をみると、女性たちは全てサンダルばきである。シリアでよく見かける、質の悪いプラスチックのサンダルだ。ダラアから歩いて国境をわたってきたというが、数十キロをこの履物で、道無き道を歩いてきたのだ。しかも、5人ほどの子供連れである。一番小さい子供は小学1年生だという。

また、少し離れて女性が数人いた。このグループはホムスからの人たちだった。とりあえずダマスカスまで出て、その後国境越えを決行したようである。その中におびえたような顔をした、無言の女性がいたので、彼女は?と訊くと、他の人たちが、彼女はアレッポからだという。思わず同郷人にあったような気がして、アレッポのどこ?と尋ねるとシャアール(アレッポ北東部、激戦区のひとつ)だと言ったきり、やはり怯えたように遠くに目をやった。

アレッポのことが訊きたかった。だけど、訊いてどうなるのか。町が、そして周囲の村がめちゃくちゃだということは、友人たちとのチャットで訊いている。それを、ことさら、この彼女に訊くことに何の意味があるのか。少なくとも、彼女の呆然としたような表情は、何を訊かずとも、全てを物語っている。

彼女も、きっとかなりの間をここで過ごすことになるのだろう。そして、数ヶ月キャンプ生活をしている他の人たちのように、キャンプ内の不自由さ、望郷の念、亡くなった肉親や友人への思いを、ようやく語りだすようになるのかもしれない。しかし、彼女は、今はそれすらできない。

写真や、ビデオでみたアレッポの荒れ果てた様子が、彼女の背後に見えたような気がした。

あの暖かい笑顔を失ったシリア人に会うことがこんなにつらいことだったとは。

2012-11-01

奇妙な会話


なんと奇妙な会話だっただろうか。

昨日、教え子のAが、スカイプの音声通話をかけてきた。彼は、この困難な中で修士論文を書き上げ、論文の提出と口頭試問の日取りなどを決めるために、約一ヶ月前にイドリブからアレッポに出てきた。大学には、町の状況のよい日に行き、残っている職員たちと必要な手続きを続けているようだが、担当の教官は「来るはずだ」としかわからない状態である。

夫も異例の外部からの指導教官として名を連ねていたが、彼亡き後は、別の教官に代わってしまった。しかし、これらの教官たちも、この状況では大学に行くことすらままならない。ある程度の手続きが済んだ段階で、Aはイドリブに帰ろうとしたが、アレッポでの衝突や砲撃・空爆は激しくなる一方で、道が封鎖され、帰るに帰れない。

彼がアレッポに出てくるときは彼の叔母の家に泊まるのが普通である。しかし、「家主」である叔母一家は、トルコに避難してしまった。従って、Aは一人、空き家になった叔母の家で暮らしている。

話し始めて、10分くらい経っただろうか?彼が、急に口をつぐんだ。何?と聞こうと思ったその瞬間、バリバリバリという音が聞こえた。

銃撃だ!

スカイプを通じて、銃撃の音がはっきりと聞こえてくる。彼は、「あ、始まった」と言った。私は、言葉を失い、どこで?と聞くのが精一杯だった。

「うちの前の通りみたいですね」「この近くに軍関係の建物があるから、もうしょっちゅうです。」と言ったとたん、ドーンというものすごく大きな音がした。

彼は少し沈黙した。今のは!今のはなに?!と言うと、あれはどうも大砲のようだという。そして、バリバリ、ドーンという音が数分間続いた。

会話どころではない。しかし、彼は話をしたいのか、パンの供給が少しずつ乏しくなってきていることや、毎日ほぼ20時間以上の停電のこと、燃料がないことから、来る冬への不安などを淡々と話し続ける。その間も、砲撃音は大きくなったり、小さくなったりしながら続いている。

なんとも奇妙な状況ではないか。

私は、お茶を飲みながら、気違いじみた砲撃の音を聞き、アレッポの窮状の話しを聞いている。砲撃音は、あたかも私の家の横で行われているように迫ってくる。それは、映画の効果音ではない。そして、つい去年までエブラ文書について私たちと議論していたAが、その砲撃からまさしく戸一枚隔てた家に一人ぽつねんと座り、私と会話をしているのだ。なのに、私はその破壊的な状況から距離的には、あまりにも遠い所にいる。

砲撃音は続き、Aも話しを続ける。この砲撃はいつまで続くのだろうなどと、ふと愚かなことを問いかけると、Aは、まあ夜半までですね、でもまた明日もあるに違いないですよ。エンドレスだ、とどうでもよいことのように言う。鋭い砲撃音が、神経の奥底にまで響く。砲撃は通話の間中聞こえた。

じゃ、またね、と通話を切ったその後も、彼は砲撃の中に一人、居続けるのだ。「でも、どこかで勉強続けられませんかね」と聞く彼と、文字通り、隣り合わせに起こっている戦闘。なんと、残酷なコントラストなのだろう。