2013-08-25

化学兵器



821日にダマスカスで化学兵器が使用されたらしい。


ネット上には、おびただしい数の犠牲者、特に子供たちの犠牲者の写真やビデオが一斉にアップされた。



あるビデオは、なんとか目を開けようとする2歳くらいの男の子に、父親と思われる人が必死で呼びかける様子を写し出していた。しかし、この男の子は、その呼びかけもむなしく間もなくぐったりとなり、息を引き取った。

https://www.youtube.com/watch?v=Kl3TZ1VKFS4&feature=player_embedded
 

犠牲者の正確な数はわからないが、1300人とも1600人とも伝えられる。早朝の数時間で、これだけの人々がサリンガスと思われる化学兵器によって亡くなった。



ダマスカスには、私たちの支援活動「イブラ・ワ・ハイト(針と糸)」に賛同して刺繍を製作してくれている女性たちがいる。彼女らは、すべてが男手を失った家庭の女性で、細腕で子供たちを育てようとしている。



気丈な彼女たちは、最初にイブラ・ワ・ハイトの活動への参加を決めたときも、「支援活動を通して売ってもらう製品だからと言って、変なものは作れない。誰にも笑われないような素敵な刺繍を作るわ。」と頼もしいメッセージを送ってくれていた。



実際、最初の便で私たちの手元に届いた作品は、その気概を十分に感じさせるものだった。そこで今回私たちは、彼女らに大物の壁掛けに挑んでもらう事にした。8月初頭に、そのうちの一つが出来たと、写真が送られて来た。期待に反しない、素晴らしい出来だった。



彼女らの今回の製品は、小型のものも含め、予定では20日前後に揃い、ダマスカスからの第二便として送り出されるはずだった。



そこに今回の事件が起こったのだ。ニュースを聞いた時は、脚が震えた。シリア国外から仲介をやってくれている友人Sに、彼女らの工房は、現場とどのくらい離れているのか、と聞いた。彼は、「ひょっとしたら、かなり近いかもしれない」と言う。



今日(23日)入っていたSからのメッセージは、未だに「通信機能のみならず全ての動きが麻痺しているよう」で、「何も情報がない」と伝えて来ている。



今はただ、彼女らの、そして彼女らの子供たちの無事を伝えるニュースを待つしかない。






















2013-08-09

イード・アル=フィトル(ラマダン明けの祭り)


再び、ヨーロッパに逃れたMSの話。



MSは無事ヨーロッパのとある国に着いた。今は政治亡命の申請をしているという。各国からの亡命志望者や、難民申請をする人たちを収容する施設にいるらしい。ネットがようやく使えるようになり、人恋しいようで、このところよくスカイプ通話を仕掛けて来てくれる。



離反以前、シリア国軍では大佐だった。革命勃発以来反政府の拠点の一つとなっているマアッラト・ヌアマーンの出身。マアッラト・ヌアマーンの土地柄は質実剛健というところか。シリアで、夫の親族が集まった時などに見かけはしたが、親しく話したことはなかった。夫は「遺跡の話なんかすると、他のヤツより結構興味を持って聞いてくれるんだ」と喜んでいた。しかし、私としては、彼に対してちょっと「強面な人物」という印象をもっていた。



革命以来、FBで繫がることになり、トルコの、離反士官たちが住むキャンプから、時折自由シリア軍関係の情報を伝えてくれた。そして、その都度、軍人らしく、極めて率直な意見をよく述べてくれた。



ある時、キャンプの内部の様子をビデオで見せてくれたことがある。テント生活を初めてから数ヶ月が経っていたが、テントは極めて殺風景あった。彼らの隣人に子供が生まれたと、隣人のテント内も見せてくれたが、赤ちゃんをくるんでいた毛布は、軍人のそれのような粗末なものであったことを今でも思い出す。



彼の妻G、つまり私の義理の姪は、常に彼と一緒だった。トルコのキャンプでも、彼が再びシリアに入り自由シリア軍として銃を再びとったときも、彼と行動を共にしていた。最初MSは、妻は残してシリア入りするよ、と言っていたが、Gは最終的に彼のもとにやって来たらしい。



彼らの間に子供は出来なかったのだが、それが故にかえって強い絆で結ばれているようだった。



しかし、今回、彼は妻を残してこざるを得なかった。密出入国という手段をとらざるを得なかった逃避行。それに伴う危険を、彼女に負わせるには行かなかった。落ち着いたら、呼び寄せるのだと言う。



「妻のGが恋しくてしょうがないよ。」



昨日の通話で、彼が、ぽつんとつぶやいた。



「革命はまだ終わっていない。甘い事を言うべきではない。だけど、今は妻に会いたい。」



強面だと思っていた彼が、シリアでの最前線に加わっていた彼が、「奴隷船」のような乗り物でヨーロッパに渡ることを躊躇しなかった彼が、今、そうつぶやく。



そして、ヨーロッパの片隅で、一人ぼっちのイード・アル=フィトル(ラマダン明けの祭り)を過ごしている。