2014-11-23

雨上がりの空



ハッブーバの村に、冬の訪れを告げる雨が降ったらしい。

午後に2時間ほど激しく降ったあと、やけに美しい夕暮れがやって来た、とTが写真を送ってきてくれた。





以前にも書いたが、この村はイスラーム国制圧下にある。普通学校は閉鎖されたまま。その代わりにイスラームの宗教学校を開くと通知があったらしいが、数ヶ月が経った今も、それは実現されていない。



かつては市のたつ町だった近くのハフサが空爆に曝されるようになってから、比較的安全なハッブーバがそれに取って代わっていたようだが、今はイスラーム国が全ての流通を取り締まり、勝手な商売は出来なくなっている。



そして数週間前には、村で初めて、村の若者の一人が斬首刑にかけられた。政権側の軍部隊にパンを届けた為だという。



村の広場で、公開で行なわれたこの処刑のあと、村全体が激しい悲しみに包まれた。村の長老たちまでもが泣き入ったという。



もし政権側、反政権側という言い方が今でも可能ならば、この村は後者である。そしてこの若者は政権側に「塩を送った」という「罪」を犯した。



しかし、この処刑に対する村人の嫌悪感は、「政権側、反政権側」というあまりにも単純な図式とは、ほど遠いところにあり、その後どんよりとした黒い雲のように村を覆っている。



我々「イブラ・ワ・ハイト」の活動に参加して、刺繍を作り、日本に送りたいと言っていた女性たちも、それ以来、激しい恐怖に襲われている。 

Tも「やっぱり、今は無理だわ」と言う。



我々の間にある、刺繍糸は我々を繫いでくれる、という共通の認識は変わらないが、今はそれさえも、心の中にしまっておくしかない。



Tの送ってきた写真には、「外には、近所の子供のはしゃぐ声も聞こえる。レモンをそえたお茶を入れてみた。こんな風に終える一日は、悪くないわ」というメッセージが添えられていた。



この雨上がりの写真は、何かを超越した色あいの空を映している。でも私には、それがあまりにも儚げに見えて仕方がない。








2014-11-18

答えのない問い



ついにハムドーがシリアを出た。ヨーロッパに出て、そこで難民申請をするらしい。



1週間程前にトルコにやっとの思いで出て来た。メルシンに行き、そこで悪名高い密航業者の内の一人に会ったという。「彼はイタリア行きの船に乗るのに、一人頭6500ドル(70万円程度)を要求してきた。」とハムドーは言う。私もこのくらいか、あるいはそれより高いくらいが相場だと聞いていた。



6500ドルは、法外に高い。しかも、彼らのところに来るようなシリア人は、シリアで生活が出来なくなり、やむなく外国に逃げようとしている人たちなのだ。しかし、なんとか新天地を見出したいシリア人の多くが、全財産をかき集めて、このような船に乗る。



しかし、こういった密航業者はヨーロッパ行きの船にシリア人を「乗せる」手配をしてはいるが、無事に目的地に着くかどうかは、彼らの知った事ではない。



定員の10倍もの人々を乗せた船が転覆したりするニュースが時折報じられる。命の保障はどこにもない。しかし、他に選択の余地のない人々が、運を天に任せて、この悪魔の船の船賃を払う。



「勿論べらぼうに高いし、中にはイタリア行きとか言っておきながら、シリアのタルトゥースに連れ戻すような罠にかけられる場合もあるらしい。しかも、奴ら差配人の風体は、いかにも胡散臭かった。心底やばいって感じた。だから、あの船はやめた。」とハムドーは、言った。



ハムドーはちゃんとパスポートも持っている。ただ、ヨーロッパに正式に入るためのビザをとる様々な要件に欠ける。最終的にアルジェリアまで空路で行き、そこから陸路モロッコに抜け、そしてスペインに渡るルートをとる事にしたようだ。しかし、モロッコからスペインは、やはり海路だ。危険は、やはり最後まで付いて回る。しかし、もうそれしかない、と彼はハラをくくっているようだ。



父母と妹たちを、アレッポ近郊のカファル・ハムラ村に残してまで、ハムドーがここでどうしてもシリアを出ようと思ったのには、訳がある。



彼は反政府集団のメンバーの多いビレーラームーン村の出身だが、この村の出身者が近頃ことあるごとに、無差別に政府側の治安関係機関に拘束されているという。拘束されたら、ほとんどが帰ってこない。



また、彼は修士論文でアレッポ近郊にあるローマ時代の水路に関してとりあげたが、その水路の位置情報を治安情報部がほしがっていると、博物館の職員に言われたという。



「なんでも、こういった古代の水路に武装集団が潜んでいるってことだ。治安関係機関は水路を突き止めて、吹き飛ばしたいらしい。」



「僕は僕の論文がそんな事に使われたくないけど、もし無視したら絶対捕まる。捕まったら、絶対帰って来れない。近頃は、前にも増して、聞き込みも讒言の類いも多くなっているが、聞き込み無視をしたら、そいつはテロリストの一派だということになるらしい。テロリストというのは便利な呼び名だよ。この言葉さえ唱えたら誰も何も言えない。」
 



「家を出る時、お袋が、もう帰って来ないのか、と聞いた。何と答えていいのか、わからなかった」



事の経緯を淡々と話していたハムドーの声が、受話器の向こうで、かすれた。




2014-10-25

刺繍の映しだすもの



「針と糸さえあれば、何か出来るだろう」、「手仕事をしていれば、悲しい状況を、一瞬でも忘れる事が出来るだろう」・・・私たち「イブラ・ワ・ハイト」の活動は、極めて素朴なところから始まった。



最初に参加しようと言ってくれたシリア人女性たちのうち、トルコに避難している人たちは、毛糸編みくらいならばやった事があるといった人たちで、最初に送られて来た刺繍には、コメントが山ほどつけられた。



しかし、あれから1年と少しが経ち、彼女等の刺繍技術は素晴らしく向上した。このレベルに達したのであれば次のステップに踏み込んでみようと、7月には恐る恐る、オーガンジーへの刺繍を頼んだ。出来上がってきたのは、裏表の見分けがつかないくらい丁寧に刺した、可憐な作品だった。



技術的な上達もさることながら、伝統柄に彼女らの個性を盛り込んだり、自分なりの創作を楽しんでいるのが、布に刺し込まれた糸の輝きから読み取れる。彼女らのオリジナルモチーフである「花の咲いた枝にとまる小鳥」は、今にも歌を歌い出しそうだ。



自国外での厳しい避難生活を送る彼女らの手で作られたものが、逆に私たちを幸せな気分にしてくれる。



一方、シリア国内のダマスカス近郊でも「イブラ・ワ・ハイト」に参加している女性たちがいる。昨年8月下旬、化学兵器攻撃の前後の爆撃で、メンバーの女性が2人亡くなったことは、以前このブログでも報告したことがある。



しかしそれ以降も、国外難民以上に厳しい環境にありながら、不定期にではあるが作品を送り続けて来てくれている。”No news is good news” というのは、彼女らにはあてはまらない。刺繍というメッセージだけが、彼女らが無事な証拠である。



彼女たちからの初めての作品は、昨年7月に届いた。シリア伝統刺繍にある、古代神話起源かと思われる女神のモチーフを「発注」したところ、原画よりも可愛らしい顔の「女神様」になってやって来た。原画のようなアルカイック・スマイルではなく、現代のシリア女性のもつ、ほっとする、優しい笑顔で「女神様」は微笑んでいた。この笑顔の「女神様」は、今年の初頭に届いた便にも入っていた。中には、おどけた笑顔の「女神様」もいた。



ところが、今年春以降にやって来た「女神様」からは、その笑顔が消えていた。微笑もうと無理をしているような、そんな表情に見えた。私の思い過ごしか?しかし、グループメンバーも皆、同じ感想を抱いた。



「その時の気持ちが、糸使いの隅々に出るものなんですよ」ある展示会に作品を出した時、日本の服飾製作関係の方も言っておられたという。



昨日、ダマスカスチームのコーディネーターをしているSにその事を伝えると、「わかる?そうなんだ。国外だと、少なくとも爆弾が降ってくる事はない。だけど、ダマスカス近郊にいる彼女等の生活は、命に関わる危険と常に隣合わせ。爆弾だろうが何だろうが、降って来ない日はない。だから、凍り付いたような『女神様』の表情は、そんなところで過ごしている彼女らの表情を表してるんだ。」



「イスラム国」騒動の異様な高まりの中、シリアを取り巻く世界は、この「女神様」を微笑ます術などは眼中になく、いびつな急進化を続けるのみである。



シリアで、花咲く梢に小鳥が歌う日はまだ遠く、「女神様」は血の涙を流す。



そして厳しい冬が、四たび近づいている。



「イブラ・ワ・ハイト 」  https://www.facebook.com/Iburawahaito

2014-09-21

アレッポ−ラッカ街道の想い出



10年ほど前の9月の朝、いきなり夫が、エル=コウムへ行こうと言い出した。シリア沙漠中央部のエル=コウムには、銅石、新石器、旧石器の諸遺跡がある。

夫のいきなりの「遺跡に行こう」コールには慣れていたので、じゃあ、行くかという事になった。



エル=コウムへのルートは、アレッポから、ラッカの手前のマンスーラの町に行き、そこから南に下る。交通手段としては、アレッポのガラージュ・シャルキー(東部方面行きバス乗り場)でラッカ行きのセルビスに乗り、マンスーラで降り、そこからピックアップをつかまえて南下する。しかし、このピックアップは「普通はロータリーあたりにたむろしている」はずの代物に過ぎず、行程はそれなりに運を天に任せるものだった。



マンスーラ行きのぼろセルビスは、国道をひた走る。セルビスは椅子の数から言えば補助席も含め12人乗りだが、運転席の後ろ側の出っ張りにも3人を座らせるため、なんと運転手を含め15人が乗る。この時は私と主人の他に当時高校生だった娘も一緒だったが、すし詰めなのに、皆で外国人の私たちに「良い席」を譲ってくれた。他の乗客の多くが、ガラビーヤを着てクーフィーヤを巻いた男性で、その中の一人の妻と思しき女性も、赤ちゃんを抱いて乗っていた。女性の手は、日焼けしてごつごつしていたが、赤ちゃんにおしゃぶりを含ませる所作には、優しさがにじんでいた。



女性は、頭に東部地域に特有のスカーフを、独自なスタイルで巻いているが、ヘンナで赤茶色になった髪の毛が少しはみ出て、バスの窓から吹き込んで来る熱風に揺れている。男性も女性も、口元などに伝統の入れ墨をしている人が多い。女性は、上等なものではないが、よそ行きの風の長い上着を着ている。この上着は黒が基調で、縫い込まれたキラキラと光る金糸が、彼女のよそ行き感を示している。



窓の外を飛ぶように流れて行く景色は、乾いた麦わら色と、真夏よりは若干あせた空色の二色で塗られている。街道沿いでは、セルビスをつかまえようと、物憂げに手を上げる人を時折見かける。セルビスのカセットプレーヤーからは、こもったような音でアラブの歌謡曲が流れていた。車はマンスーラに近づいていた。



私はぼんやりと窓の外を眺めるでもなく眺めていた。その時、「ドン」という鈍い音と共に、乗客全員が前につんのめった。セルビスのフロント・ガラスが砕け散り、車は急停車した。何が起こったかは一瞬には判断がつかなかったが、皆「当たった」「バイクが当たった、なんてこった」と口々に言いながら、ぞろぞろと車からおり始めた。私たちも彼らについて車の外に出た。



出た途端、車のすぐ脇に、一人の青年が倒れているのが目に入った。そして、後方を見ると、5−6メートル先にもう一人の青年とバイクが吹っ飛んでいた。二人乗りバイクがセルビスに衝突したのだ、ということが分かった。死んでる?倒れた青年は生気がなく、黒っぽいガラビーヤが襤褸布のようになっていた。あまりにびっくりして何をしてよいやら分からないでいると、驚いた事に、2人の青年たちはほぼ同時にムックリと起き上がり、よろよろ歩き始めた。乗客の男性や、集まってきていた周辺の村人らしき人が、彼らを抱え、通りすがりのピックアップをとめて、一番近くの病院に行くようにと運転手に頼んだ。青年たちは、ピックアップに横たえられ、ピックアップは乾いた土ぼこりを舞い上げながら去って行った。



僅か数分間の出来事であったが、私にも娘にも非常に衝撃的な数分間だった。自分たちには何も被害はなかったが、倒れた青年を見た時、生死の境目にある何かを彼の体に感じ、同時に足がすくんだ。ぶつかった時の「ドン」という鈍い感触も、単なるモノのぶつかった感触とは全く違うものだった。



その後、私たちは、通りがかった別のセルビスに乗込み、既にこの事故の色々な情報を得ていた乗客の話を聞きながら、先ずはマンスーラまで行き着いた。そこで「幸運にも」ピックアップをつかまえて、エル=コウムまで行く事ができた。遺跡群は素晴らしく、発掘隊の丁寧な説明も受け、突然の遺跡行きは「成功裡」に終ったが、この旅は、私の中で、セルビスの横でぼろのように倒れていた青年の姿とずっと重なっていた。



この地域は、今、いわゆる「イスラーム国」の制圧下。あのキラキラの金糸を施した上着も、今では禁止されているはずだ。ヘンナの色の髪の毛や、入れ墨などにふと目をやるような瞬間も公衆の面前ではありえないに違いない。

そして、この地域での戦闘のニュースは、私の中で、セルビスの横で倒れていたあの青年の姿を再び呼び起こす。あの事故は、何の変哲もないある日に突然起こった災難であった。しかし、今はあの「ドン」という鈍い衝撃以上のものが日常茶飯事となり、生死の境目は、死の方へ大きく傾いている。


2014-09-01

アルーダ山の葬斂



再び、ユーフラテス川流域、ハッブーバ村周辺の話。



シリアで初めて行った遺跡は、ユーフラテス川流域のジャバル・アルーダ(アルーダ山)だったことは、以前にも書いたかも知れない。あの日、私はアルーダ山の山頂にあるアルーダ聖人の小さな祠から、中腹にある5000年前の神殿の跡を見下ろしていた。写真と図面でしか見た事のなかった神殿。時が停まったようだった。



そのさらに向こうにはユーフラテス川をせき止めたダム湖が静かに夕暮れを映していた。対岸の白っぽい石灰岩の岸壁が、夕焼けで、オレンジ色に染まっていた。風が轟々と吹いていた。



その時、私は日本を離れてまだ10日ほどしか経っていなかった。一緒に居た主人と、友人Mの話し声が聞こえて来なければ、どの空間にいるのかを見失いそうだったことを今でも覚えている。2人の話し声は、風の音に遮られながら途切れ途切れに宙を舞っていた。



その後、発掘などを通して、この地方に出かける事が多くなり、メンビジ、メスケネ、ハフサなどの町、ハッブーバの村、そしてそのほかの、点々と散らばるあけっぴろげな集落は、次第に私の日常の風景の一部になって行った。日乾し煉瓦作りの農家、乾いた褐色の土地を背景にしてもはっきり目立つ原色の服を着て農作業をしている女性たち。数百頭の羊を連れた羊飼いは、のんびりとロバに乗って羊を追う。



ここでは人々は、とびきり人なつこく、また客人を大きな笑顔で歓待する。子供たちも最初ははにかんでいるが、親にたしなめられながらも、子供なりのホスピタリティーを示すためにまとわりつく。



これらすべての町や村に、そして人々に、沢山の想い出がある。



しかし現在、この地域全てが「イスラム国」の制圧下に入っている。



夫の大親友であったM(故人)の村、ハッブーバの村落から少しはずれた所に、アレッポへユーフラテス川の水を送り出す「水供給ステーション」がある。そこにはMの弟MDが勤めていた。家はハッブーバ村のMの家のすぐわきにあり、他の親戚とともに、大家族での生活を営んでいた。



数日前、このMの9歳になる息子が銃弾を受けて、亡くなった。「イスラム国」のメンバーが、ある「喫煙者」を発砲しながら追跡していたが、その際に巻き添えを食ったというのだ。



彼を撃った「イスラム国」のメンバーは、ハッブーバから南東に30kmばかり行ったメスケネ町出身の17歳の若者だという。家族は彼を責めたが、彼は「あの喫煙者が悪いのだ」と押し切った。それ以上は誰も何も言い立てる事はできない。



この若者は、ハッブーバ地域の主要部族ではない部族出身である。「平時」ならば、各部族の長老などが出てきて事件の調停を行なうべきところであろうが、今はそのような動きも控えられているようだ。



最近、世界の目は「イスラム国」の動きに釘付けになっている。過激で、不条理な事件がメディアをにぎわせている。そして、ハッブーバのような寒村でさえも、その一部が行なわれている。



しかし、より人々を疲弊させているのは、それと併行して激化している政府軍の空爆である。空爆は、最近、この地域の主要な町、メンビジ、メスケネ、そして「大きな村」とも言うべきハフサにまで、以前より頻繁に行なわれている。



ハッブーバに住むMの娘、Tは言う、「いわゆる「テロリスト掃討」のためにね。だけど、犠牲者のほとんどは普通の人たち。確かに「イスラム国」はいるけど。最終的に、死ぬのは私たち。どっちに転んでもね。」



アルーダ山頂のアルーダ聖人の祠の周囲は墓地である。葬斂があると、遠くからでもよく見える。



今、あの山を上る葬列を、村人はどんな想いをもって見るのであろうか。


              ジャバル・アルーダ(北から)
          山頂に点のように見えるのがアルーダ聖人の祠
             2009年11月初旬、筆者撮影 

2014-07-23

ハムドーの独り言



シリアのこの状況は数年続く。



そんな予想は、昨年あたりからあった。



しかし、今年になって、そして今になって、その予想はより現実味を帯びてきている。



この中で、何かをしても、結局、何もなりはしない。



革命家を気取った奴らは、とっくの昔に国外に逃げやがった。



僕の人生はどうなるのだ。戦闘と、流れる血と、涙と、欠乏の中で過ぎて行くのか?



そう考える。



そう考えると、もうたまらないのだ。



いつでも出るぞと、なけなしのお金を使って、ヤミの出国やその他、いろいろを画策する。



でも、やはりシリアの中で人は生きている。それを僕は知っている。



出られないひと。出ても帰って来た人。出たり、入ったりを繰り返す人。出てしまい、とりあえず一息はつくものの、深い望郷の念にとらわれている人。



いずれの場合にも、気持ちの起点はシリア。



今日ここにいても、明日ここにいられるのか、明日もここにいたいと思い続けられるのか、僕にはわからない。



だけど今、僕は「とりあえず」出来る事をする。



遺跡に行って、遺跡を見回って、写真を撮って、記録する。これが僕のシリアでの最後のトライアルのような気がする。



「地域司法委員会」には僕が遺跡を監視する事について、話をつけた。



今のところ、僕の言い分を受け入れてくれている。ある意味、素朴な奴らだ。



遺跡に何かあったら、僕に連絡するようにと、近くに住んでいる人の中に、連絡係のような者も「とりあえず」見つけた。



そこには、破壊があり、不法発掘があり、偽造があり、噓偽りがあることは百も承知だ。



美しかったサン・シモン遺跡は、建物の石がバラバラにされているという噂も聞く。噂だから、本当のところはわからない。あそこは別の「地方司法委員会」の管轄だ。状況のいい時に、彼らと話をつけて行ってみるか。



僕たちは、現在を売った、将来も売っぱらった。



そして、過去さえ切り売りしている。



それでも、まだシリアの空はこんなに美しい。




















アレッポ北西部、ムシャッバク遺跡

2014年7月22
ハムドー・ハッジバクリー撮影








2014-06-29

ハッブーバの村


ハッブーバ・カビーラの村は、ユーフラテス川岸にあった。1970年代、この村からセンセーショナルな古代植民都市の跡が発見され、古代史を大きく塗り替えたことは、以前にこのブログでも少し触れたことがある。その後、ユーフラテス川をせき止めたタブカ・ダムによりこの村はダム湖の底に沈み、村人たちは付近の土地を代替地としてあてがわれ、そこに移り住むことになった。



ドイツ隊の行なったハッブーバ・カビーラの発掘の際、作業員として働いたムハンマド・ミフターハ氏は、その後ドイツ隊にかわいがられて発掘技術、考古学を独学で学び、以来2010年に56歳で急逝するまで、各国隊の現場で活躍した。



彼と初めて会ったのは、私がシリアに行って1週間経つか経たないかの6月中旬頃であった。その日、頭に赤いクーフィーヤを巻き、口元に伝統の入れ墨を入れた彼は、アレッポ博物館の学芸員室でゆっくりとお茶を飲んでいた。彼は私と当時アレッポ博物館の学芸員であった夫をハッブーバの村に招いてくれた。ハッブーバは私の研究対象の時代でもあり、ぜひとも行きたい場所であったので、二つ返事でその招待を受けた。



その1週間後、彼の住んでいる新しいハッブーバの村を訪れた。殺風景な村で、村人は皆、水没前の、ユーフラテス川にほど近い、緑の豊かなもとのハッブーバの村をなつかしんでいた。



ハッブーバ周辺はアレッポ県の中でも鄙の地であるが、70年代以来、各国隊の発掘がこの地域で盛んに行なわれたことから、村人には作業員として働いたものも多く、外国人に対してオープンな雰囲気があった。特にミフターハ家にはムハンマド氏の仕事の関係で、常にヨーロッパ人の客人が絶えなかった。



彼の奥さんは当時、6人目の子供の出産をひかえており、「日本語の名前を考えて」と冗談で言われたが、私は「水無月」にちなんで、女の子なら「ミナ」はどうかな、などと結構真面目に答えたものだった。その後、女の子が生まれTと名付けられた。彼の子供たちはみんな利発だったが、Tはその中でもさらに落ち着いた雰囲気を持つ女の子であった。



時は流れ、Tは父の影響を受け、アレッポ大学の考古学科に入った。父についてアレッポ城内の発掘や、シリア北東部の遺跡の発掘などにも参加し始めた。考古学だけでなく、父のムハンマド氏は仕事の中でドイツ語を習得していたが、娘のTも独学で英語を流暢に話すようになっていた。



「女の子でも全く構わない、ヤヨイ、また色々世話してやってくれ」自分の後継ぎを得て内心まんざらではないのが、ムハンマド氏の言葉の端々に見てとれ、私も嬉しかった。



そんな矢先、2010年秋、ムハンマド氏が、アレッポ城内遺跡での作業中に心不全を起こし、急死した。あまりにも唐突な死だった。その後、シリアでの紛争勃発後、Tは困難を乗り越えなんとか大学を卒業したと聞いたが、通信は途絶えがちになっていた。



先頃、非常に久しぶりにTとネット上でやり取りする事ができた。



彼女によると、ハッブーバの村は今、過激派のイスラーム国(ISIS)に制圧されているという。ラッカをはじめ、ユーフラテス川地域にISISが展開しているとは聞いていたが、鄙の地であるハッブーバにまでその支配が及んでいたとは・・。



Tは、いかに生活が彼らによって歪められているかの一部を説明してくれた。彼女らいわゆる大学生、大卒生グループは、紛争の進展の中で停止していた村の小学校をボランティアで再開していた。FBでその近況などがアップされる度に、僻地であるが故に、アレッポ等の都市部よりも逆に活動がうまく動くかも知れないと期待していた。



しかし、約半年前に村にやって来たISISは、学校を強制的に閉鎖した。なぜだと聞いても、これは「ハラーム」であるとの一点張りであったらしい。



村の女性たちは黒いアバーヤ(ガウン様の上着)とニカーブの着用を強要される。「隣の家に行くにも、女性のISISメンバーがいて、監視しているの」。生活の隅々までがんじがらめになっているが「まだ他の地域の惨状にくらべたらマシだわ。それにネット環境もめちゃくちゃだけど、でもこんな風に結構使える事もあるし・・。」



そして彼女はネットが使える時は必ず我々の「イブラ・ワ・ハイト」のFBページを見ていると言ってくれた。そして「私たちに何かできることはないかしら?」と聞いて来た。私は、はた、と思った。我々の刺繍はもともとユーフラテス川流域のまさしくこの地域の伝統刺繍である。彼女の村の家々でも見かけたことがある。



話すうちに、彼女も我々の刺繍が自分の地域のものであるという事を知っており、最初は村の家に残っているものを写真に撮って送ろうか?などと言っていたが、「そうだ、N姉さん、刺繍が上手なの。ああいう古いのはやった事がないけど、知り合いのおばさんとかに聞けばやり方がわかるし、私たちがやってみてもいいかしら?」と言い始めた。



勿論、それに越した事はない。私たちの活動では、民間の伝統を保っていくという側面が非常に重要な要素である。しかし彼女らが活動するには危険が伴うのではないだろうか?しかも、もし製品が出来たとしても、それを送れるのだろうか?



「不定期だけど、出来ると思う。親戚のおじさんがたまにトルコに出る事があって、その時に託けることが出来ると思う。知り合いの女の人たちは今、この状況の重苦しさの中で鬱屈しているの。勿論収入の問題もあるけど、みんな精神的にまいっている。」



彼女の村のケースは、今我々と恊働して刺繍をやってくれている他の女性グループとは、また違った困難が伴う。しかし、Tは「やってみたいの。やらせてみて。」と望みを私達に託している。



あの穏やかな、オープンな村に、力で自らの「考え」を押し付けようとする集団。



そのなかで、Tは、しなやかにそれに立ち向かおうとしている。

2014-05-25

投票



久しぶりにハムドーと話すことができた。



彼によると、遺跡監視活動を承認してもらうため、いろいろ画策しているものの、周囲の理解が得にくいようで、非常に苦戦しているらしい。精神的にも疲労し切っているのが、書き送って来るメッセージの端々に現れる。事は遺跡の話に留まらない。たる爆弾の投下の激化なども、彼の精神の疲弊に一段と拍車をかけている様である。



彼の発する一言、一言が、鈍い刃物で体中をえぐられるような痛みを伴っている。



「誰も理解してくれない。革命家を気取っていた連中は国外に出てしまった。そして国外から僕のことを冷ややかにみているだけなんだ。」「今、回りに残っているのは哀れなお袋と、妹たちだけだ」



「2日前に、うちの近くにたる爆弾が落ちた。知ってるだろ、日本に住んでいる遠い親戚のA。あいつの家族が今回は巻き込まれた。彼の一家全部、一瞬に死んでしまった。遺体を探しに行ったよ。そして瓦礫の中から引きずりだした。みんな、ぼろぼろになっていた。」



「でも、わかる?こんな状況で、僕はあと数日したら、バッシャール・アサドに投票しに行かなきゃならない。なぜって?それより他に選択肢はないんだ。棄権?そんなことは出来っこない。だって僕はこんな状況でも、まだ考古総局から給料をもらっている。僕の家族の生活は僕にかかっている。



僕が投票に行かなかったら、全てがめちゃくちゃにされる。給料どころか、お袋の命が、妹達の命が、妹の夫たちの命さえがどうなるかわからない。」そして、「僕が投票しないと『祖国』が気を悪くするからね」と吐き出すように言った。



『祖国』? 思わず、聞き返す私に、ハムドーは答えた。



「『祖国』っていうのは、殺戮の決定権をもっていて、僕らに食い扶持を少しだけ与えてくれるって代物だ。「アメと鞭」ってやつさ。もし事が僕自身だけに関わるものだったら、大声でNOOOOOO!って言える。だけど、家族を守るためにはそんな自分の考えなんかに関わっていられない。」



「僕はその為に自分の自尊心なんかは捨てなければいけないんだ。なんてことはない。僕の自尊心や誇りなんかもうどうでもいい。そんなものは簡単に犠牲にしてやる。それで家族が少なくと生きては行ける」



「知ってる?たる爆弾で死んだ者の中にはよく知っている近所の子供達も居た。僕の親友の子供たちだ。瓦礫の中からバラバラなった遺体の部分、部分をこの手で集めた。爆撃の前日には、「おじさん、元気?」って、僕に挨拶してた子供たちだ。それが次の日には、ぼろ布のようになっていた。そして僕がそのぼろになった体を集めたんだ」



「それでもって、その同じ手で、投票に言ってバッシャール・アサドの名前を書くんだ。神に呪われろ、バッシャールと言ったその口で、我々はあなたが大好きです、バッシャール、と言って、彼に血を捧げるんだ。それが唯一残された、生きて行く道なんだ。」





「ごめん、なんだか必要以上にカッカ来てしまったかも知れない。」と彼は、少し気を取り直したが、そのあとすぐに何かの連絡が入ったようだ。「今、何かが起こったようだ。何かはわからないけど、行かないと」と書き残し、オンラインから消えた。



たる爆弾という安価で強力な殺傷力をもつ爆弾を後ろ盾に、茶番劇は続く。






2014-04-22

4度目の春




シリアの文化財への侵害は、慢性化しているようだ。アレッポのスークの炎上や、大モスクのミナレットの破壊は文化財の喪失以上の意味をもち、そこをわが町として暮らしてきたものの心をえぐった。しかし、その後も、多くの遺跡や史跡が攻撃に曝され続け、また埋蔵文化財の盗掘も後を断たない。



シリア考古総局やイギリスのDurham大学はある程度定期的にその状況を伝える報告書を出しているが、侵害を防止する術をもたない。これらの機関は現地のネットワークを通じて情報を得ていると思われるが、全てを網羅出来る訳ではない。



この状況を憂慮して、国内外のシリア人有志が昨年よりAPSAThe Association for the Protection of Syrian Archaeology シリア考古学保護協会)というグループを立ち上げた。シリア国内に残り、最も現場に近い場所で活動をしている有志たちと組んで、出来るだけ公正で、客観的な被害状況を記録しようと動いている。



状況の正確な記録をとるのは、現在のシリアの治安状況を鑑みると、それだけで極めて危険な作業であるが、彼らは使命感をもち誠実に活動を行なっている。このグループはフランス人考古学研究者の支援も受け、フランスで団体登録を行なっており、組織としても正式に活動を行なっている。



そのメンバーの一人Sと2月にトルコで会い、私もこのグループのメンバーとして名前を連ねることにした。Sはフランス在住だが、若干の活動資金がフランスからおりたということで、国内メンバーに若干の記録用機材を渡す予定だと言っていた。彼らの撮った写真の一部は、FBページに継続してアップされている。



とはいえ、人命さえがあまりにも軽んぜられている現在のシリアでは、文化財の侵害は見て見ぬ振りをされている感さえある。



そんなおり、結局シリア出国を果たせずに、現地に残っているハムドーから久々にメッセージが来た。相変わらずアレッポ郊外の極めて危険な地域を動き回っている。メッセージは、文化財侵害に対して、彼が出来ると感じる所を書いてきていた。



ハムドーはフットワークが結構軽く、どんなに状況の悪い時でも、そこら中を見て回る。その際、文化財の侵害の現場にしょっちゅう遭遇するらしい。彼は未だにアレッポ考古局に籍を置くが、職員としては開店休業状態である。しかし、考古学を学んだ者としてその度に、彼なりに侵害に対して、その非を咎める。



「問題は、『解放区』では僕には『正式な権限』がないので、結局は実効的なことは出来ないんだ」



このような混沌の中で、『正式な権限』もなにもないのではないのか、と聞くと「いや、若し『権限』があれば、ある程度の侵害に対して『力』が行使できる。少なくとも、ある程度の歯止めをかけることが出来るはずだ」という。



シリア北部、特に彼がよく把握しているアレッポやイドリブ地域は、現在ほとんどが反体制側の「解放区」になっている。反体制側は、一昨年頃から一種の自治政府的な形でこの地域を「おさえて」おり、学校やその他のサービスの一部を動かしている。



文化財関係でもいわゆる「文化財課」という部署があり、その中に教え子の一人がいたが、状況の悪化のため最終的に彼はトルコに逃れ出てしまった。他にも、もと工学部建築科の学生が担当者として数人いると聞いているが、人数的にも、また予算的にも出来ることは、極めて限られている。こんな中で、多くが村落部にある遺跡の監視などは人材的にも不可能ではないのか?



しかしハムドーは言う。「僕の周辺にも『有志』はいる。しかも、僕たちは常に動いているから、人づての情報じゃないものを持っている。ないのは『正式な権限』なんだ。確かにこんな状況だけど、遠巻きにするような文化財への対応しか出来ない、ということはない。僕らみたいな者をどうして使わないんだ?僕らは遺跡をとりまく生の状況を把握しながら行動できる。」



ハムドーに限らず、上記のAPSAのメンバーも同様である。彼ら自身を、そして彼らの「意志」を武器に、文化財を取り巻くこれ以上の無法状況を打開できないものか。



文化財に限らない。他の分野でも、現地にはなんとか秩序を取り戻そうと考える若者がいる。

シリアで「革命」が標榜されて3年が過ぎた。しかし皮肉にも今になって、未だに現地に残るこういった若者の意志により、真の「革命」が始まったように感じる。そして、それこそが古い体制が恐れていたものでもあるのだ。




2014-03-28

アーモンドの花



シリアの春は、花でいっぱいだ。



まだ少し肌寒い2月の末から3月にかけて、水仙の花束を街頭で売るのを見かけるようになる。可憐な水仙の売り子には、無精髭をはやしたような男性も多いが、それでも、みなニコニコ顔で、「いいにおいですよ」などと花束を差し出してくれる。春を一番に受け取る瞬間だ。



次にシリアに春が来たのを感じるのは、アーモンドの花が咲き始める頃だろうか?サクラにどこか似ているが、私たちがよく見かけたのは、もう少し白っぽく、もう少し涼しげな風情をもつ種類だった。アレッポ地方特有の赤い土と、葉の緑、花のうす桃色。まだ少しだけ冷たい風が、梢に流れる。アーモンドの木のそばには、いつもしんとした、新しい春の空気があった。



アーモンドに少し遅れて咲くのがムシュムシュ(杏)の花。ムシュムシュはもっと桃色が濃く、アーモンドよりも甘く賑やかな雰囲気を与えてくれる。花のつきかたも密で、かたまって咲いていたから、そんな印象を受けたのかもしれない。



普段はオリーブの木ばかりと思っていた場所にも、春になるとこれらの木が花をつけて存在感を示し、下草の中にも色とりどりの花があふれる。花の絨毯とはこのこと。オリーブの葉も、負けじと春の陽に輝く。



この季節、人々は、郊外へと繰り出す。バーベキュー用の道具や材料、タッブーレ(*1)用のパセリのみじん切りであふれる大きなタライ、お茶を湧かすためのバッブール(*2)をもって。ナイロン袋にいれた、ガラス製のティーカップをがしゃがしゃいわせながら。



今頃は普通の乗用車に乗る人も増えたが、それでもまだトラジーネ(バイクに荷台を組み合わせた乗り物)は健在で、これに家族をのせて、みんなでわいわい言いながら野に向かう。



ある年、日本から来た友人たちと少し遠出をして、地中海沿岸、ラタキア方面に「お花見」に出かけたことがある。アレッポからラタキアに行くには山を越えなければならない。しかし道中にはお花畑あり、アーモンド並木あり、ムシュムシュ並木あり。春の匂いを満喫しながら海に出る。

春の地中海は、ぬけるように碧い。春の陽は水面で、きらきらと踊っている。内陸部とはまた赴きの違った春。でも春爛漫。私たちが「トルコ富士」と名づけていた山が、北の方に霞んで見えていた。



以前、春は、当たり前のように来た。



しかし、今日、そのラタキアに住む友人から届いたニュースは、今シリアに春はないことをあらためて知らせてくれた。



数日前、海岸部にあるトルコとの国境カサブの町を自由シリア軍が制圧したという報道があり、その後、自由シリア軍はさらに周囲の村落部を奪取している。しかし、その反動か、一方の政権側の民兵たちは、今日現在、ラタキア市街にある商店街の襲撃を始めている。



海岸地方は、シリアでは状況が唯一、他よりは「まし」であったため、他地域からの避難民が流れて来ている。しかしここに来て、市民たちは、これから何が起こることを予測もできず、ただただ、運命を待ち受ける。



「もう、慣れたと思っていた。・・だけど、今度はついにラタキアだ。しかも市街地・・」友人は、それ以上のことを語らずにネットから消えた。カサブに避難していたアレッポの友人は、再び危険なアレッポに戻らざるを得なくなったとも聞いている。



銃声はあの花畑にも鳴り響いているのだろう。アーモンドの木は、今なにを思って佇んでいるだろうか。



1 挽き割り小麦を入れたパセリのサラダ
*2 ポータブルのガスコンロ

2014-03-04

気弱な勇士



娘の友人の友人でホムスに残るアフマドは、今時の日本語で言えば、草食系にあたるのだろうか。彼には直接会ったことはないのだが、メッセージからは気弱なイメージが伝わって来る。一度写真を送ってくれたが、確かに優しげな風情を持つ「男の子」である。



ずっと優等生だったようで、大学では、工学部の通信工学科にいたという。シリアなどの中東では、エンジニアや医者はエリートコースということになっており、かれも順調に行けば、通信技師になってそれなりのエリートコースを歩むはずだった。



しかし、他の多くの学生と同じように、このシリア危機の中で、デモに参加し、大学に居続けることが出来なくなった。結局勉強は中断したままだ。「シリアにこのまま留まっていたら、エンジニアになるという僕の夢は、達成出来ない。何か日本でも、他の国でもいいから、奨学金はないのだろうか?」と何度か聞かれたことがある。



こんな風で、自分の将来にはなにも明るい希望が見出せないが、彼はずっとホムスでも最も状況の悪い地域を対象にして支援活動を行なっている。友人たちと学校に行けないでいる子供たちのための教育プログラムも始めたらしい。



ある時、支援活動中のこんな経緯を話してくれた。



ホムスには何ヶ月にもわたり政府軍に包囲されている地区があるが、そこに彼らは許可を得て、少しばかりの支援物資を搬入することもある。しかし検問を通過するのはその度に至難の業で、時々兵士たちに震え上がるほど脅される。



その日も、支援物資を運び込もうと検問まで行き、交渉が終って中に入ろうとすると、彼は呼び戻された。そして何も言わずに、いきなりビンタを食わされた。そして「髪が長い」「今度切ってこなければ、処刑だ」と脅された。



彼は、その後、急いで髪を切った。しかし、兵士たちの脅しを思い出しては、今度行く時に何をされるかわからない、と怯えていた。「支援に行くのを躊躇してしまう、本当に怖いんだ・・。」と「弱音」を吐いた。



この事件のあと、彼はかなり悩んだようで、「外国になんとかして出ることを考えている。ほぼ決心した」とその後のメッセージには書かれていた。



2日ほど前に、彼と久しぶりに話した。昨今の「国際会議」の成果でホムスに国連からの人道支援は入ったかと聞くと、国連の支援は政府軍制圧地域にのみ、彼の居る「解放区」には支援など来る訳もない、とのことだった。



彼は、全てがジョークだと言って、この閉塞状況を激しく嘆いたが、最期に「でも」と切り出した。



「この前、シリアから出たいって言っていたでしょ?しかも、ほぼ決めたはずだった。」



「だけど、今、子供の教育プログラムやっていて、子供達を見てたら、この子達を残して、国外なんかに出られないって、そう思った。僕たちが出て行ったらこの子たちはどうなるんだろうって。」



「人間って、やっぱり最期まで夢を見る。だからいつかは絶対、と思うけど、今は・・やっぱり出られない。」



彼の思いは痛いほどわかった。この状況での、大きな選択。私は思わず、君ってなんて勇敢なんだろう、と言った。



彼は、私の言葉を打ち消して「え、全然そうじゃないよ、爆撃の音が今でも怖くてしょうがない」と気弱なことを言った。














2014-02-11

あの日から2年




今回のトルコ滞在最後の日、2月8日は夫の命日だった。もうあの日から2年も経った。夫の墓のある村は、昨年の今頃よりもさらに危険な場所となり、今年も墓を訪れる事も出来ないが、偶然にもこの日にシリアとトルコ国境の町、キリスに行く事になった。



私にとって特別な意味を持つ日に、シリアを国境越しに、垣間見る事が出来る。これも、何かの思し召しのような気がした。



キリスには大規模なシリア人難民キャンプがあり、そこには私の旧友家族も住んでいる。



キリス向かう道は、穏やかな日の光に包まれていた。両側に広がる農地は、冬の雨で蘇った緑に包まれ、所々耕されている部分は、シリアで見慣れた赤っぽい土が顔を除かせている。所々にテル(遺丘)も見えて、シリアにいるような錯覚に襲われる。



しかし、ガジアンテップの町を出て30分くらい行ったところで、コンテナーを連ねた小規模なシリア人難民キャンプの一つが現れ、現実に引き戻された。周りののどかな光景の中で、やはりそれは異様なものだった。



しばらく行くと、キリスの町が見え始めた。キリス病院のところで左に折れ、さらに行くとシリアとの国境まで、延々とトラックが連なりながら停まっている。このトラックにはシリア人難民への物資及び国内向けへの物資が入っている、と運転手氏は言う。このトラックの連なりの向こうに「キリス1」というシリア人難民キャンプがある。



程なくキャンプに着いた。友人家族には連絡が行っていたので、キャンプ外で待っていてくれた。懐かしい笑顔、懐かしい「アハラン・ワ・サハラン(ようこそ)」。暖かな抱擁。



我々は許可がないのでキャンプ内には入れないため、入り口すぐ脇にある、お茶の飲める場所で話をした。



彼らがアレッポを逃れてこのキャンプに来たのは1年前。アレッポであてどなくさまよった後だった。「キャンプに来てから2回くらいアレッポの家に戻って、ちょっとした家財道具を持って来たけど、うちのバルコニーは潰れていたわ。まだ全壊はしてなかったけどね」友人の母親は、淡々と語る。



生活のあれや、これやを話しては、「まだ他の人よりはマシな生活ができている。神様に感謝しているわ。」と彼女は言っていたが、「難民証」に話が及んだ時、今まで冗談を交えながら話をしていた彼女の顔が曇った。

「でもね・・、ここに書いてある一言。これを見る度に、胸が押し潰されそうになるの。」と彼女が指差した「難民証」の一部分には、「祖国を失った者」との記述があった。



祖国を失った?シリアは、このキャンプのすぐ横にある国境のゲートの向こうに広がっている。だけど、そこはすでに祖国ではないのか?



この数日、またアレッポでの樽爆弾の投下が激しくなっており、避難の波が再び大きく押し寄せている。ゲート周辺には家財道具を載せられるだけ載せた車や、持てるだけの荷物を持った人々が、右往左往している。



祖国を失う。なんと重く、鈍い痛みをもたらす言葉なのだ。



キリスに行く事になった時、夫の墓に佇むことはできないにしても、国境からシリアを眺め、暫し想い出に耽りたいと思っていた。しかし、目の前にはもっともっと厳しく、悲しい現実がある。



冬の陽が頼りなさそうに傾き始めた。別れを告げなければいけない。友人の母は、こらえ切れずに泣き始めた。今度会う時はアレッポでね、と言う彼女の後ろのキャンプのゲートが、やけに無機的に見えた。






  このキャンプ(キリス1)には現在、約13000人程が「収容」されている。コンテナー型の2部屋をしつらえたキャンプで、「収容」されている人には、一月一人100トルコリラ(約5000円)分のチケット(85リラが物資との交換用、15リラが現金支給用)が支給されるということである。


2014-01-27

ジュネーブの会議


今日、ハムドーは、スイスで行なわれている会議よりも、格段に大事なことを話してくれた。



現在彼はカファル・ハムラというアレッポ西北部の村にいる。昨年のある段階までは、アレッポ市街にでることもかなりあったようだが、最近はどのくらいの頻度で行っているのか、あるいは行く事ができるのか。



ハムドーによれば、この数ヶ月来、この村の南部には政府軍が陣取り、また西側は、自由シリア軍とISISとの間の戦闘が激化しているため、非常な大回りをしなければアレッポ市内には入れないと言う。以前はカファル・ハムラからは車で街道をまっすぐ15分も走ればアレッポ市内に入れたのに、今はアレッポの北東部の外周道路を、車で約3時間かけて、町はずれにたどり着く。しかも、これは樽型爆弾や砲撃なんかがおさまっているときを見はからねばならない。



漸くアレッポ市内に入っても、以前このブログでも紹介したブスターン・カスルという地区の「死の通過点」を渡らない事には先に行けない。「今でもこの場所にはスナイパーがいて、日に2−3人の市民が撃たれて亡くなっているよ」



ブスターン・カスルからさらに町の中心部、例えばジャミリーエまで行こうとすれば―以前はこの距離を歩くことなど考えなかったが、近頃は徒歩で行くらしい―軍の検問が何カ所もある。そして、もし少しでも不審であると判断されると、有無を言わさず拘束される。



運良くジャミリーエに着いても、誰も命の保証など出来ない。政府軍の制圧下にあるこの地区は、アレッポ旧市街からの射程距離内だ。旧市街には自由シリア軍が陣取っているが、彼らは近頃大砲を備え、不定期に弾を撃ち込んで来る。



「前にも言っただろ、ロシアン・ルーレットだって。あれは冗談じゃない。」



「だけど、心配する事はない。僕が動くときは、考えに考え抜いてからだ。だから、無茶はしない。確かに状況は最悪以上だ。それはいつも言っている通りだけど、この3年間で、本当に経験を積んだし、色々学んだ。今まで、自分がこれだけ学んだり、考えたりすることが出来るなんて思わなかった。」



「わかる?ヤヨイ?シリアのこの『試み』は僕をすごく変えたし、すごく学ばせてくれた。どういう風に身を処するか、だけじゃない。政治を理論と実践で学んだし、軍事を理論と実践で学んだし、人道ってヤツも理論と実践で学んだ。」



「なんかすごく年をとった気がする。150歳くらいになったみたいに。そして周りにいる皆が、すごく単純に見えてしまう事すらある。だけど、同時に、ああ、なんていい人たちなんだろうって、今になって思えるんだ。」



「そして・・・毎日、毎日、シリアがもっと好きになっている。」



「時々、僕の村、ビレーラームーン村の自宅にこっそりと帰ってみる事がある。家に入って、ちょっと座って、家の匂いを嗅ぐんだ。」



夫の眠る墓地のすぐそばにハムドーの家はある。私も、ふと、アレッポ最後の日に行った墓地の、赤い粘った土と雨の匂いを思い出した。



「もうすぐ、この戦争は終る。僕はそう確信する。・・・だけど、その後混乱は結構続くだろう。・・いや、でもそれは困難じゃない。人はちゃんとした分別を持ち始めている。これが、たぶん解決を早める事になるはずだ。みんな、状況を良くしたいという意識をもっているから、良くなる為のどんな事にも参加していくさ。みんな、目醒めて来ているんだ。」



意外だった。最悪の事態の只中にいる彼から、こんなに静かな、しかしながら澄み切った将来への確信の言葉を聞こうとは。



人々は苦しんでいる。悲しんでいる。疲れている。しかし、そんな中でさえ、人々は学び、将来への確信をもつ。そして、「祖国シリア」を日々さらに好きになっている。



ジュネーブの会議よりも、なによりも、シリアを変えるのは、シリア人。それを、ハムドーは改めて言葉にしてくれた。




















2014-01-14

ハムドーからのアレッポ近況報告





アレッポの郊外の村に避難している甥っ子のハムドーは、今でもネットさえ使えれば、何がしかの状況を伝えて来てくれる。家のネットはほとんど使えないが、「ネットカフェ」に行けば、停電さえなければなんとか通信が可能だ。勿論、ネットカフェに行くのが、また命がけなのだが。



昨年暮れに、そのネットカフェからチャットを仕掛けて来た。



「今、僕の横にISISのメンバーのヨーロッパ人がいる。ドイツ人らしい。ヤヨイとチャットしているのを見られたらヤバいかも知れない。しかもヤヨイのFBの写真はスカーフがない。ヤバい。」

「イラクとシャームのイスラーム国」)



「今、村にいるISISはほとんどが外国人だ。え?シリア人以外のアラブ人?それは少ない。ヨーロッパ系がすごく多い。ああ、チェチェン人が一番かもしれないけど、それに限らない。ドイツ人とか、フランス人とか、そうそう、ロシア人もいる。この村にこんなに多くのヨーロッパ人が来た事ってなかったよな。妙な話だ。」



「知ってると思うけど、彼らはいわゆる解放区に来ては、それを制圧しようとする。近くにいる自由軍のある旅団の指導者も最近彼らに殺されたみたいだ。でも戦闘以外だと、結構、人助けなんかもするんだ。それはまだいい。だけど問題は・・・」



「彼らは、愚かで、とにかく狂信的なんだ。イスラームの決まりだと言って、いろんな人を拘束する。でも、その理由はほとんど言いがかりでしかない。例えば、さっきスカーフを被っていないヤヨイとチャットしたらヤバいって言っただろ。あれは冗談じゃないんだ。スカーフを被ってもいないような、そんな女性とチャットするのは彼らは罪とみなすんだ。そういうバカみたいな難癖をつける。だから村の人たちは彼らのことを、怒るというよりも、影ではバカにしてる。だけど、武器を持っているから逆らえない。何をされるかわからない。そういう意味ではすごく危険だ」



「言葉?片言のアラビア語を少し覚えていて、村の人ともたまに話してるよ。村の人も少しこんな妙な闖入者たちに慣れたといえば慣れた所もある。」



妙なことになっている。村人たちも、これらのまさしく外国人が、何をしたいのかよくわからない。ただ、彼らはこの村に陣取って、歯向かうものには銃をむける。彼らがいる所には空爆はこない、とハムドーは言う。そして、淡々と彼らの存在の奇妙さを語った。



一週間ほど前には、「村の状況は最悪。とにかく村では死体がそこら中に転がっている。異常な世界だ。危険な所にすんでいる親戚もまだいるから、僕のいるところに連れてこようと思うけど、道中が危なくてそれも出来ない。とにかく、祈っていて、それだけ」というメッセージが残っていた。



新年になっても樽型爆弾の投下は、断続的にアレッポとその周辺に続いている。



「祈っていて」というハムドーの言葉が、全てを物語っているかのようだ。