2015-02-18

メンビジ周辺



しばらくブログが書けなかった。



ブログが書けずにいる間、シリアは再び、メディアで盛んに取り上げられることになった。

「イスラム国」をめぐる様々な報道、日本人の人質方々のかの地での不条理な死。特に後藤さんは個人的にもお会いし、お話したこともあり、彼の「殺害」という事実は胸にずしんと重い。

こんな中で、最近投稿された「イスラム国」に「拘束」されているJohn Cantlieアレッポ周辺のレポート映像は、私の想い出と重なり、極めて奇異な感情を呼び起こした。

このレポート映像の主な舞台はメンビジの町とその周辺で、ユーフラテス川流域で発掘をしていた頃からのなじみの地域である。その頃からメンビジはこの地方の中心の町ではあったが、1990年代はまだ鄙びた田舎町で、人口も20万人いくかいかないか、だったように記憶している。ちなみに2010年頃には人口は60万人近くに増えていたはずだ。

メンビジの周囲には半農半牧畜の村々が散らばっている。メンビジのスークは、それらの村々から持ち込まれた野菜や乳製品、肉類であふれていた。スークは売り手、買い手共に活気に満ちている。赤白の格子のジュムダーナ(被り物)の男性たちの中で、女性の羽織る黒地に金糸の縫い取りのある上着がキラキラ光る。

1990年代は、シリアでは先のタブカ・ダムに続き、ティシュリーン・ダムが建設予定で、それに先だって水没地域の緊急発掘のために日本を含む各国から発掘隊がこの地域に来ており、彼等も普通はこの町で買い出しをしていた。

私は夫の「指揮」するシリア隊に参加し、トルコ国境のジェラブルスに近いテル・アバルの村で発掘をしており、1989年から5年間は、毎年春から夏にかけて集中的にこの地域を行き来した。

発掘の合間に、各国隊の現場を訪ね、時にピクニックと称して、今回の映像にも映っているナジュム城にも頻繁に訪れた。お城の番人のアブ・ジャーセムは、いつもお城のふもとにある彼の家に招いてくれた。

外は灼熱なのに、中はひんやりとした日干し煉瓦の質素な家。そこでふるまわれる焼きたてのホブズ・サージュ(ペラペラのパン)、手作りのヨーグルト、菜園からもぎ立ての野菜、黄色も鮮やかな卵焼き、そしてなによりもアブ・ジャーセムとそのおかみさんの暖かい笑顔。

私たちが座っていると、他にも、どこからか数人の男性がやって来ていて、夫は得意の弁舌で、今掘っている遺跡の話や、外国隊の噂話などをする。

映像を見ながらそんな想い出が一瞬呼び起こされたが、その同じ場所に今映しだされているのは、武装した男の姿である。それは私の知っているあの地域の風景のなかにある人々とは、全く異質のものである。

銃を持ち、黒い巻物を頭に巻いた男たちは、この地域の、そしてこの町の風景の中で、極めて奇妙なものに感じられる。間違った舞台に配置されている役者のような、そんな違和感を感じる。

ダム湖は、ユーフラテス川の流域に営まれていた歴史の足跡を飲み込んだ後も、あくまでも青く、美しい水をたたえ、その存在が永遠のものであるかのような錯覚を起こさせる。しかし、ダムは水を堰止めるが、川の流れを全て堰止めること事は出来ない。

今、人々を重苦しく堰止めているものも、いつかはその下に流れている力によって、流れ出す日が来るはずだ。それを期待するにはあまりにも過酷な日々がシリアに流れているが、それでも、その日を願わずにはいられない。

そんな事を思いながら、今年も夫の命日を迎えた。