2012-07-17
帰還
一昨日、捕まって刑務所に入っていた2人の甥っ子が帰ってきたというニュースが来た。
伝えてくれたのは、やはり甥っ子のハムドゥで、よかったね、というと、「それが・・まあ帰ってきたんだけど、めちゃくちゃやせて帰って来たんだ」と言う。
「骨と皮っていうのはあのことだ。あいつらに比べたら、ヤヨイなんかずっと太ってることになるくらい。」なのだと。
そして、「もちろん会いに行ったけど、問題は、あいつら、なんだか腑抜けみたいになってたんだ。ボーっとしてなんだか、頭がヘンになったみたいな感じだった」という。
ショックだったが、それはそうだろう。短期間にそんなにやせて帰ってきたと言うことは、この一ヶ月ちょっとの間に、よほど厳しい環境にあったのだろうから。精神的にもダメージが大きいことも想像がつく。
帰ってきた二人のうちの一人は、高校時代、歴史に興味を持ち始め、夫がよく「講義」をしに彼の家に行っていた。
彼の家、すなわち義理の妹の家はアレッポ郊外の村にある。広い庭やベランダがあり、夏の宵には夫はそこで「戸外レッスン」をした。アレッポの夏は、昼間の暑さは厳しいが、夕方になると、素晴らしく涼しい風が吹く。ましてや、彼女の家は田舎家で、寒いくらいに風が吹くこともある。そういう時は、寒がりの私は、彼女の持ってきてくれる毛布に包まって、夫の「レッスン」を聞いた。
甥っ子たちは、元来非常に元気のいい、素朴な田舎の青年たちだ。力仕事もいとわない、強健な体を持っている。その彼らが、今、怯えたように、やせた体で、あの風の中にいるのを想像するのは、なにか悪夢を見ているようである。
それでも、義理の妹は、慣習的な意味もあり、帰還祝いの昼食会をするようだった。アラブの美徳でもあるのだが、彼女は人を「招待」をするのが好きである。大変なのよ、などといいつつ、呼ばれていくと、いつも食べきれないほどの料理を勧めてくれた。だけど、今回、彼女はどんな気持ちで招待の料理を作っているのだろうか。
おそらく、しばらくしたら、若者たちは体力を取り戻すだろう。精神的にも、落ち着くだろう。しかし、この一ヶ月間に起こったことを、そう簡単に忘れることは出来ないだろう。
彼らだけではない。今、シリアでは、彼らのような例は五万と起こっているに違いない。しかし、それは空恐ろしいことではないか?何かが揺れている。武力抗争の影で、もっと恐ろしいことが起こっている。
ハムドゥはさらに伝えてきた。「また、今日も村の人が2人死んだ。兄弟でね。石切職人だよ。車運転してたら、撃たれたらしい。ヤヨイも知ってる人たちだと思うよ」
「おじさんは、死んで、こんなこと見聞きしなくてよかったのかも知れない。あれで、よかったんだ。僕もほんとに明日がわからなくなった」近頃は、ハムドゥもすぐに弱音を吐く。
他の人に言えないのだから、私が聞くことで少しでも吐き出せるならと、思う。でも、停電が毎日8時間である今、チャットも最後には駆け足になる。
(追記)
ガスボンベはついに3200ポンド(約6000円)になってしまったという。つい2週間前は2200ポンドだと言っていたのに。ちなみに私が去年の4月、最後に買ったときは、手数料を入れて350ポンドだった。
2012-07-07
奈々子の友達Sちゃんの決断
6月の初めだっただろうか、娘の奈々子が「お母さん、Sちゃんがホムスに仕事場を変えるらしいよ」と言った。え、と一瞬耳を疑った。
Sちゃんは、ホムスに両親の実家がある。数年前、奈々子が他の友達と一緒にベイルートに言った際、行き、帰り、その実家で世話になった。現在も、他の親戚も含めてまだホムスに残っているとは聞いたが、わざわざ今、この時期に彼女が行かなくても。
しかし、もう決めてしまったようだった。彼女は私たちが2月にシリアを離れるときに、シリアの現状を知ってほしいと、手紙を託してくれた。あのころから思いつめてはいたことは知っていた。しかしこの決断・・・・。ホムスの一部は壊滅的な状況だが、まだ街のなかでも大丈夫なところはあるのだろう。だけど、アレッポよりは、かなり状況は悪いのは周知である。
そのあと、彼女は、何日かたって、フェースブックに「ホムスに着いた」という知らせを出したらしい。それ以外のことはわからない。仕事といっても、まともに出来る状況なのか?
女医のSさんとスカイプをしたときに、彼女は言っていた。「勇敢なのか、気違い沙汰なのか・・・、でも彼女は敢行したのよね。」と。前の彼女なら、絶対に反対意見を言ったであろう。しかし、今はSさんでさえ、彼女の決断を頭から否定しない。事態がそうさせていることが、Sさんのある種の沈黙から読み取れる。
彼女を送り出した親御さんはどうなのだろう。Sちゃんの父は退役軍人である。Sちゃんが反体制デモに行くことを怒っていたという。しかし、今回、彼はどのようにして彼女を送り出したのだろうか。
お父さんたちの時代はずっと黙ってた。私たちまでで黙りはおしまいなのよ。2月に奈々子が会ったとき、彼女はそう言っていたらしい。
自分の娘の決断が、もし、このようなものにならざるを得ないとき、私は何を考えるだろうか。
今は、彼女の無事を祈るしかない。
2012-07-01
何処へ
先日、友人の女医、Sさんと2日続けてチャットできた。最初の日は、彼女の娘、Gちゃんが今夜パリに発つ、という日だった。夜中の2時の飛行機だけど、空港までが危ないわ、と心配していた。
次の日に聞くと、無事に旅立ったと言う。「これで彼女はとりあえず安全なところにいることになったわ」と安堵しているようだった。
でも、彼女を送っていった夜中は、近くの村を攻撃するロケット砲の光がよく見えたわ、と言っていた。音も結構だったから、なんとなく眠れなかったと。
そして、「私たち、移住することを考えているの」という。え?フランスに?と聞くと、娘と息子はフランスに、私たち夫婦はトルコに行こうと思っているのだと。「子どもたちはまだ将来があるし、そういう意味では、フランスにはとりあえずツテもあるし」
「私たち夫婦はフランスで、何が出来るわけでもないし」と続ける。でも、トルコに行くと、医者を続けることは出来ない、とも。
じゃあ、何をして生きていくわけ?と聞くと、「まずは、トルコ語でもマスターするわ。ま、そうは言っても、まだ決定したわけじゃないのよ」
彼らには、他の家庭よりは余裕がある、だからこそそんなことも考えるのかもしれないが、家族一緒にフランスで暮らすのは、やはり負担が大きすぎるのだろう。また、トルコであれば、近い。家のこともそれなりに気になるだろうし、帰ろうと思えば、すぐに帰れなくもない、そんな勘定もあるのかもしれない。しかし、問題は、彼女らまでが、国を離れることを考え始めているということだ。
ついこの前、夫の弟で、警察官をしているMが家族と一緒にトルコへ「逃げた」と聞いた。彼に関しては、「政府側」と見られ、身の危険を感じ出したという背景がある。
この話しをしてくれた夫の娘Oは、もう一生おじさんに会えないかもしれないと泣きそうだった。捕まった従兄弟達もまだ戻ってきていない。
教え子のことも気になる。エブラ語をやっているAにメッセージを残しておいたら、返事が来ていた。なんと、彼ら家族は再び、アリーハ(イドリブ)に戻ったらしい。やはりアレッポでは家賃の支払いなどが大変だったのだろう。しかもアレッポも近頃安全なわけではない。だけど、イドリブよりはましだろうに。
彼は書いていた。「パンを買いに行くにも命がけです。毎日死者のでない日はない。街のそこら中がめちゃくちゃになって、そこら中で銃や爆発音が聞こえます。だけど、他に選択の余地はないので、自宅に戻りました。神様に祈っていてください」と。
胸のつまるような思いがした。
このメッセージを読んだあと、旅行代理店のJさんからスカイプ・コールが来た。他の家は、ネットの具合が悪くて、チャット以外はほとんど出来ないが、彼のところは、商売柄、常にボイス・コールが出来るようだ。
彼に、女医Sさんの話をしたら、「ああ、その話なら知ってるよ。だって、彼女僕のところで娘さんのチケット買ったんだから。そのとき、そんな話もしてたね」と言ってくれた。
あなたはどうするの?と言うと、「僕は勿論残るよ。勿論仕事もあるけど、それ以上に僕はこの社会に存在するという責任がある。みんな事情があって外に出て行く、それは仕方がないけど、みんないなくなったら、シリアの社会がなくなるじゃないか。僕の場合は、ここにいるということが、今のご時世、僕のシリアに対する責任だと思ってるんだ。だけど、出て行く人を非難はしないよ。彼らなりの十分な理由がありすぎる。みんな好きで出て行くわけじゃない。」
「1965年以降、シリアの社会は、ゆがめられてきた。この年号の意味するところ、わかるだろ。あれ以来僕らは疑心暗鬼で生きるようになった。勿論、それ以前と変らない部分もあったわけだけど、社会の隅々がゆがみ始めた。「疑う」ことでね。我々の間に不信を植え付けた(政府の)責任は重大だ。僕は65年以前を知っているが故に、それをより強く感じる。」
「でも、僕たちはそれなりにやってきた。そして、今。出て行かざるを得ない人は、そうするより他ないんだ。これが、この40年間の一つの結論なのかもしれない。」
彼も、何か吐き出したかったのか、いつもより饒舌だった。スカイプでこんなこと言っていいのかしら、とも思ったけど、彼は関知していないようだった。
そして、「きのう、刑事警察のとこ、ほらここから100メートルのところで結構な爆破事件があって、クリスチャンのおばあさんが亡くなった。かわいそうに。だけど、アレは、その前後のことから考えて、やらせだね。はっきりしてるよ。」と。
アレッポの20世紀前半のことを知りたかったら、これこれという本を読めばいい、と数冊の本の題名を私に教えてくれ、いつになく長いスカイプ・コールを終えた。
2012-06-23
自暴自棄
ラタキアにいる友人に、先週激しい攻撃があったというハッフェの街のことを聞いてみた。この数日静かだというので、なぜだろうと思うと、もうほとんど誰も町に残っていないからだという。
町を逃げるときに置いてきぼりを食った、足腰の立たないような老人たちのみが残っているようだと。逃げるときには、彼らうをつれていくような余裕が全くなかったらしい。
残ったその老人たちはどうするのだろう、と聞く間もなく、シリア軍、ロシア軍、中国軍、イラン軍が共同軍事演習をするというニュースを見たか?と彼が聞いてきた。
確か、ネットでそのような記事を読んだが、シリアとロシアは報道を否定していたような気がするがというと、彼は続けた。でももしほんとにそうなったら非常に危険だ。何が危険かって言って、ロシアとか中国が危険なんだ、という。
今、家族を失い、将来を絶望している人たちが増え続けている。その人たちは、もう何も怖くない。ロシアや中国に何かを仕掛ける可能性だってある。当地の共感者を使って、騒動を起こすこともありえる。そうならないことを望むけど、そういう極めて悲観的な可能性だってあるんだ、と。
現実的ではないのかもしれないが、そこまで追い詰められている人が出てきているのは確かなのだろう。
この前は、夫の甥っ子二人が仕事から帰る途中に連れ去られたと聞いた。もう一週間ほど前になる。今日はハムドゥが久しぶりにオンラインにいたので、その後どうなったかを聞いてみた。誰に連れ去られたのかも、そのときはわからなかったので、それも確かめたかった。
ああ、あの二人?と、ハムドゥは私が知っているのにびっくりした様子だった。そして、まだ刑務所にいるらしい、と答えた。
「刑務所!刑務所って!?」ユーチューブや他の忌わしい映像が、一瞬頭に浮かぶ。
「ああ、でも、こんなのはもう普通だよ。まだいいほうだ」と続ける。刑務所拘置が普通?いいほう?
そして、いつもは楽天的な答えをする彼が、いつになくこう書いてきた。「今日は、僕だってこうやってヤヨイと会話してるけど、明日になったら死んでるかも知れないからな。」なにを言ってるのよ、と返事をしようと思ったら、「ほんとになにがいつどこで起こるかわからなくなった。正直なところ、これが現実なんだ」と。
こんな調子のハムドゥは初めてだ。いつも、鷹揚に構えていた彼の口からこんなことを聞くとは。
アレッポ北部近郊の村々では、毎日砲撃があり、かなり壊滅的になっているという。ハムドゥの村、すなわち夫の眠っている村からも程遠くない。
夫の耳にも、砲撃の音が近づいているのが聞こえているのだろうか。
2012-06-14
シリアの6月
私が初めてシリアに降り立ったのは1989年の6月16日の夕方だった。飛行機から出た瞬間、「暑い国」という先入観に反して、心地よい涼しい風を感じ、えらく驚いたのを今でもはっきり覚えている。
その後、かなり厳しい昼間の気温を実感することにはなったが、夕方にはたいてい涼しい風が吹き、昼間の暑さを忘れさせてくれた。シリアの6月は、一年の中で私の一番好きな月である。
シリアの6月は何と言ってもさくらんぼ。甘酸っぱいさくらんぼをキロ単位で買い、天水で育てた太短い、味の濃いきゅうりと一緒に大きな皿に山いっぱい盛る。6月も中旬を過ぎるとそれに杏が加わるが、これもナマで食べてよし、ジャムにしてもよし。
杏ジャムは、シリアでは天日で作る。6月も末になると、そこらじゅうの家のベランダに、杏の入った、ガーゼで覆いをした大きな盥が「展開」する。10日から2週間くらい、たまに混ぜながらジャムとして熟成するのを待つのである。
果物だけではなく、6月にはいろいろ素敵な出会いもたくさんあった。たとえば、この時期には、例年、フランスのウガリト文書解読チームがアレッポ博物館に2週間ばかり滞在し、博物館所蔵の粘土板文書を研究する。
チーム代表のデニス・パールディーと夫が親しかったことから、よくチームを家に招き、食事をしたり、研究の成果などを聞いたりしたものだった。6月生まれの奈々子の誕生日を彼らと一緒に祝ったこともある。最高の誕生日だった。
彼らはアレッポでの研究が終わると、ウガリト遺跡の発掘に参加するために、地中海沿岸の町、ラタキアへと向かう。勿論彼らだけではない。シリア人の中でも、期末試験の終わる6月から、子どもたちをつれてラタキアへ向かう家族は少なくない。港町特有の解放感もあることから、夏のラタキアは人気スポットであった。
しかし、今、他の発掘隊と同様、ウガリト発掘隊も現地調査を昨年来停止している。アレッポ博物館での研究も中断されたままだ。
ラタキアでの開放感はもう今では遠い昔のようだ、とラタキアにいる友人が先日メッセージを送ってきた。街での治安取締りの厳しさは増しているらしい。そして、なんだか、近々、物騒なことになりそうなんだ、と言う。そしてその予感は、不幸にも当たってしまった。
メッセージを受け取った次の日のニュースで、ラタキアにほど近いハッフェの街が包囲されているということを知った。日本時間の昼前、シリア時間ではまだ夜の明けていない時間にその友人がオンラインにいて、私がPCをあけた瞬間にメッセージを送ってきた。
何か凄まじいことがハッフェで起こっているが、地元のものにも詳細はわからない。友人と同姓同名の人物が死亡したといううわさを聞き、人違いとわかったものの気が気ではなく、一睡も出来ず、こんな時間にPCの前に座ってるんだ、という。
古代には、エジプトとヒッタイトにはさまれながら、これらの二大強国をしたたかに「いなす」という知恵をもち、繁栄を保ったウガリト王国。そのウガリトを擁したシリアが、それから3000年以上を経た今、内部の抗争への解決手段を見出せないでいるのだ。
2012-06-05
二つの追悼式
6月4日と6月6日に、ダマスカスとアレッポで、夫の追悼式典が行われる。5月の頭にこのニュースが来たとき、今の状態では行けないなあと思っていた。
皆が集って、夫を偲んでくれる場にいられないのは、寂しかったが、それもいたし方ないと思っていた。会にはメッセージを書き送って、読み上げてもらおうと思っていた。
最初の予定では、両方が5月30日に行われる予定だったが、5月27日ころにFBを開けたら、ダマスカスの会が6月4日に変更になっていた。そして、ほぼ同時にアレッポの分も、6月6日に延期されたことを知った。
ここで、心が動いた。まだ、間に合う。行きたい。行かなければ。行こう。熱に浮かされたようになった。
確かに、今、私が行かなくても、誰もなんとも言わない。ハミードさんは帰って来はしない。今は非常事態なのだ。私が行くことで、シリアの友人に迷惑がかかることもありうる。そういう意味では気違い沙汰だ。
こんな想いが頭の中で渦巻いた。そんなときに、ハミードさんが学生に囲まれてピースしている写真を見てしまった。あのピースは彼の「思い」であり、私の「思い」だったことを思い出した。そして行動にでてしまった。何も言い訳できない。
今は考古学どころじゃない。でも、シリアの彼らに未来は来ないのか?未来に投資しようとした私たちは、今すぐのご利益ではなく、未来にかけたではないか?それを示したい。自己満足かもしれない。
そんな思いを抱きつつも、在京のシリア大使館に行き、ビザを申請したのが5月30日。その帰り道に大使館からの電話があり、翌日の木曜にとりに来るよう言われたので、6月2日のフライトを予約した。その夕方のニュースで、シリアのホウラで起こった虐殺への抗議意思表明として、日本がシリアの在日外交官の国外追放を決めたことを知った。しかし、ビザは翌日受け取ることが出来た。
ダマスカスでの動き方、アレッポへの移動等、シリアの友人を通してばたばたと行った。このようなことは普通、アレッポ旅行代理店のJに頼むが、この数日彼はオンラインにいない。おそらく国外出張なのだろう。メッセージはとりあえず残しておいたが、時間もなく、仕方がないので、他の数人の友人と連絡を行って、アレンジをどうにか終えた。
日本人の友人にも、話しを聞いてもらった。自分でもこの決断が怖かったので、背中をもう一押ししてほしかったのもある。
そして、1日の夜中2時ごろ、このブログの前半を書き終えたとき、代理店のJからスカイプ・コールがあった。彼はウィーンに出張していたが、アレッポの彼の息子との電話を終えたところだという。
「メッセージは見た。だけど、今回はシリアに来るのはよしたほうがいい。今の今、息子と話したけど、政府側がアレッポだけでも2000人規模を動員して、弾圧に当たっているらしい。息子は今、事務所を閉めて帰る道で、政府側が無差別に発砲しているのを見たと言っていた。政府は今、やけっぱちになってるんだ。何が起こるか、本当に本当にわからない。」
ダマスカスは?と聞くと、「ダマスカスはアレッポよりマシだけど、アレッポが今蜂起した以上、ダマスカスにも飛び火する可能性は大きい。」
「やめたほうがいい。あなたのご主人への追悼の気持ちはわかる。だけど、彼だってあなたを危険な目にあわせたいとは思わないよ。」彼の声は緊迫していた。
しばらく沈黙したが、「ありがとう。中止します。」のどもとにある、熱いものを飲みこんで、そう伝えた。
2012-05-25
資料集め
以前にも話題に出したベルギーに留学しているSは、博士論文を「シリアの青銅器の修復」で書くという。先日、チャットをしたときに、論文の章立てを書いて送ってくれた。なかなかしっかりした章立てで、「これじゃ、もう大学の時みたいに、からかえないなあ」と褒めてやった。彼はまんざらではなさそうだったが、「でも、先生問題は今シリアで、資料集めとか、たぶん出来る状況じゃないんだ。」と、本音を言った。
アレッポ大学で教え始めたとき、主人は、まずは「学生を連れて遺跡へ」行くことをこまめにした。みんな遠足気分で、特に春の遺跡は素晴らしかった。
手近なところでは、エブラ、海岸沿いではウガリト、ジャズィーラ(シリア北東部)では、マリ、テル・ブラク・・・などの有名どころは勿論一緒に行ったし、また調査中の遺跡に行くと、発掘者から直接話を聞けることから、学生も非常に興奮した。
アレッポ大学の考古学科は2002年に出来たばかりで、用具も、図書も、その他の組織もまだしっかり出来ていなかった。したがって、非常にやりにくいことはたくさんあったが、何より我々は遺跡に行こうと思えば、いつでも行けるという強みがあった。それだけでも、天国じゃない、と学生たちによく言ったものだ。
シリアでの遺跡の調査は外国隊が主流を占めるが、あんたたちの国の遺跡なんだから、今にあんたたちが主流になってね、とも。
そのうち、シリアにいる外国隊に学生を送り込む手はずを整えることが出来、何人かは、発掘隊で「修行」をした。ビザも何もいらない。私たちの国の遺跡なんだもの。そんな感じで、学生たちは、自国の遺跡を楽しみ始めたようだった。
あれから十年。今、シリア人の彼らが、自由に遺跡に行き、自由に遺物を見ることが出来ない状況になってきている。Sは反体制を掲げているからなおさらかもしれない。
しかし、今、たとえば博物館展示遺物は、非常時を想定して、かなりの部分を収蔵庫に入れてしまっていたりしているようであるし、以前のように、好きなときに遺跡に行ける雰囲気ではなくなってしまっている。
今、研究生をやっている女学生Dは、シリアでは勉強が難しいからせめてレバノンへ行きたいといっている。彼女は、チャルカス人(サルキシアン)で、ロシア国籍もあるから、外にでるには他のシリア人よりも簡単だ、という。しかし、いずれにしても、シリアを主題にして、それをレバノンでやるのだと。
遺跡は前と同じように存在するのに、この喪失感は何なのだろうか。
2012-05-17
集団埋葬
数年前にシリア北東部のテル・ブラクという遺跡で、5800年前の集団埋葬が見つかった。見つかった人骨は、頭骨のないもの、腕のないもの、さまざまであった。年のころは、十代後半から三十代にかけての壮年男性ものであり、おそらく集団間の戦いの結果死んだ兵士たちであろうとされている。
考古学をするものにとって、これは都市形成期の集団間の闘争という、非常に興味深いテーマを示してくれる。なぜ、集団の間に争いが生まれたのか、そしてそれが「人類史」の中で、どのような意味を持つのか、その背景の社会構造はいかなるものか。
そんなことを、私たちは考察する。そして、断片から当時を復元する。
そして、今。現代のシリア。
ユーチューブに投稿されたビデオは、半分以上の男性が死んだ村の、集団埋葬の様子を伝える。長い濠のような穴に、次々に白い布に包まれた男たちの遺体が運び込まれるのが映し出されている。生き残った男たちが、埋葬を済ますべく、動き回っている。
数千年の時空を超えて、やはり、同じように集団で葬られる人たちがいる。しかし、今、私たちは、それを分析はしない。背景を「復元」をしたりもしない。
ただ、この殺戮のあとに来るものを恐れている。恐れが、悲しみに変り、次には憎しみに変ることを。
「クラスメートだったヤツが、体制派だったら、もし平和になっても、しこりが残るよなあ。前みたいに平気で付き合えないよなあ、正直・・・。」と、反体制派を自称するSは、悲しげに言っていた。「もし、この闘争が終わっても、きっともとのシリアみたいじゃなくなるかもしれない、それがすごく怖い。」と。
大学にいたころ、実測練習用に、Sたちと大学の空き地に即席で「墓穴」を掘り、グループで実測をさせたことがあった。サボる学生、黙々と図を描く学生、他の学生の手助けをする学生・・・。
だけど、その中に、それなりのチームワークがあった。ムスリムだとか、クリスチャンだとか、アラブ人だとか、クルド人だとか、アルメニア人だとか・・・そんなことは、あのフィールドワークのまねごとには関係なかった。
あの即席の「墓穴」が今となっては、奇妙に象徴的に思い出される。
2012-05-10
手紙
いまさらながら思うのだが、今年の二月のシリア行きは、つらい里帰りだった。
シリアは今まで、私たち母子にとって、「行く」所ではなく、「帰る」ところだった。しかし、今、状況は簡単に「帰る」ことを許さない。
娘の奈々子にとっても、つらい「帰国」だったであろう。夫の葬儀が終わったあと何日かして、彼女は高校時代の友達Sちゃんに会いに行くことになった。悲しい出来事があった後とは言え、久しぶりの再会である。うれしげにGちゃんと連れ立って家を出て行った。
Sちゃんは、両親とともにアレッポに住んでいるが、もともとホムスの出身である。両親の実家はホムスにあるし、親戚もたくさんホムスに住んでいる。
ホムスの惨状は、誰にでも普通に伝わって来てはいるが、Sちゃんは、ホムス出身と言う背景もあり、間接、直接に「忌まわしい」事故の話が他の人よりも、生々しく伝わってきているようだ。
今回の騒乱で、ホムスは最も激しい抵抗運動を続けているが、アレッポに住む彼女自体も反政府のデモに出かけたり、集会に行ったりしている。彼女の父親は退役したが、もともと軍人である。娘のそのような行動を好ましく思っていないが、同時に、彼女の身を案じてもいる。
奈々子たちの久しぶりの再会も、彼女の最近の反政府活動や、ホムスで起こっている極めて具体的な、生々しい闘争に関する話や、市民の苦しい日常生活の話で占められた。奈々子も、少なからず、Sちゃんの話に衝撃を受けたようであった。
つい一昨年の夏には、彼女ら仲良しグループは、ささやかな卒業旅行で、ベイルートまで遊びに行った。ホムスを経由して、ベイルートへ行き、帰りはホムスのSちゃん一家の実家に泊まって、笑いさざめいていた。
そのときの話題は他愛もないものであったに違いない。その彼女らが、今は、日常茶飯事になってしまった殺戮について、そして反政府運動について話している。
日本に行く私たちに、Sちゃんはホムスの現状を伝えるメッセージを送るね、と言ってくれた。そして、実際、手始めに数枚のメッセージを奈々子に託してくれたらしい。
数日後ダマスカスで、日本に「行く」飛行機に乗り込んだ際、奈々子が、「お母さん、これ」と、彼女が暇つぶしに読もうと思っていた本から、紙切れを取り出した。Sちゃんからの手紙だった。よくチェックに引っかからなかったものだ。これには、生ナマしいホムスの様子が書かれているのだ。
奈々子は、再び手紙を本の中に挟みこんだ。
窓から、シリアの褐色の大地がどんどん遠ざかって行くのが見えた。
2012-05-03
紛争の長期化ということ
シリアでの抗議行動が始まってからおよそ14ヶ月が経つ。昨年の3月末にダマスカスで聞いた声は「シリア人は分別を持っている。下手な行動は起こさない」というものだった。あの時はみんな落ち着いていた。
春が過ぎ、夏が来て、秋、冬・・・状況は悪化し、そして二度目の春も半ば以上を過ぎて、まだ出口は見えない。
一口に1年だ、14ヶ月だと時間の長さをいうのはたやすい。しかし、友人との話しのなかに、確実に「だけど」という逆接の接続詞が増えてきた。「元気?」と聞けば、「元気」だとか「まあまあね」と言った答えが返ってくるが、今はそれに「だけど・・」という一節が加わる。
「今年は冬の雨が多かったから、草花が咲き乱れて・・・」と伝えてきてくれた友人も、「だけど、それでも気が晴れない。こんなにたくさんの人が死んでいて」と続ける。
心配する私に「何とかやってるよ」という友人。「心配しないで。」と言いつつ、「今のところ、私の周りでは何もないわ」と言う。
そうなのだ。今、彼らにわかるのは、自分の周りはとりあえず、何とかなっていると言うことなのである。それ以上のことに、何をコメントすればいいのだ、という彼らの気持ちは、何も言わなくても伝わってくる。
娘の友人のGちゃんは、フランスでの医学部のディプロム第1次試験に受かって、第2次試験に向けて勉強中だという。「まあ、いいニュースでしょ?」と言うので、「もちろん、そりゃそうじゃない」と返事をしたが、彼女はそれほど喜んでいる風ではない。
昨年彼女がフランスで勉強をしていたときも、「シリアのことが心配で、フランスにずっといたいわけじゃないわ」と言っていた。今回、もし第2次試験に受かっても、状況がこのままなら彼女は喜んでフランスへ行く気にはなれないだろう。
彼女の両親は、彼女の将来を思って外に出したいのだろうが、出す側も出る側も、重いものを胸のうちに抱えたまま、になってしまうのだろう。
「将来」の話が、彼らと出来ないし、するのをためらってしまう。これが、長期化ということの一側面なのだ。なんと、得体の知れない、実体のない、しかしヒトを傷つけるものなのだろう。
だけど、それでも、彼らの話しのそこここに、前に進みたい気持ちがにじんでいる。
今、私に出来るのは、今日は元気?という挨拶だけなのだろうか。
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