2017-12-25

つなぎ合わせること


一ヶ月ほど前、長く通信が途絶えていたGからメッセージが来た。

Gはユーフラテス川沿いの村の住民である。この村はハッブーバ・カビーラといい、今ではダム湖に水没してしまっているが、当時の考古学の常識を覆す発見をもたらした遺跡があった場所である。遺跡の調査に伴い村人の多くが発掘作業に従事したが、彼女の亡父(アブ・ムルハフ)はその中でも超腕利きの発掘技術者であった。そして、彼と彼の家族は私たちの友人以上の存在であった。

この村一帯は、ここ数年ISに支配され、村人たちは普段の移動も自由には行えなかった。もちろん不自由は移動だけではない。公開処刑強制参観、宗教警察による理不尽な取り締まり等、IS支配下の生活の典型があの素朴な村々で行われていた。Gや彼女の妹は、そういったことを時たま、言葉少なに報告してくれていた。

その後、「IS掃討作戦」により、ISはこの地域から駆逐され、5〜6か月前からアレッポとユーフラテス川地域を結ぶ交通網もそれなりに復活したらしい。

Gはメッセージの中で、市民の交通網がスムーズになったことを受けてアレッポに数日前に出て来たこと、以前看護師として勤めていた医療機関にこの数年の「非従事」に伴う様々な手続きをしていること、アレッポには戦争で精神的に深刻な問題を抱えている人たちがたくさんいること、などを淡々と語ってくれた。

アレッポに人が戻ってきているのかとの私の問いには、彼女が知る範囲では、戦争に『無関係』(加担しなかった)と「認定」された人の一部は戻ってきているようだが、そうでない人は、もちろん今現在戻ってくるのは難しいし、帰ってきても特にアレッポ東部は壊滅的であるため住む家がないと言う。

「町には、ロシア人、イラン人はたくさんいるのにね。彼らの拠点はそこらじゅうにあるわ。」

「私はこの数日間、昔からの知り合いで、まだアレッポに留まっている人の家に泊めてもらっているの。西部のフォルカーン地区の周辺よ。ヤヨイの住んでいたあたりにも近いから、昨日あの辺りを歩いてみたの。あの辺りは破壊は免れているし、見た目は前と変わりが無いわ。」

「でも、あの家にいた人たちはもういない。お父さんと、ハミードおじさんはあの窓の中にいたのに。お茶を飲んで、考古学の話をしていたのに。今は、みんな、いない。そんなことを思っていると、涙が出てきた。」

「私の兄弟も何人かはドイツに行っちゃったし。デニヤ・・ヘイク(世の中は、そんなものなのね。)・・

アレッポが平静を取り戻しているというニュースを聞くたびに感じる喪失感。もし、今自分があの見慣れた街角を歩くことができたとしても、出会うのは誰だと言うのだろう。友人の家の、閉じた窓、洗濯物の干されていないベランダの光景は、なんと残酷なものだろう。そんな想いが巡った。


Gは続ける。 
「でも、私は、看護師でしょ。この戦争で心身ともに傷つき病んだ人たち、特に子供の看護をしたい。そのために、今は人道支援機関の病院や施設での職を探している。今やっている手続きは煩雑だけど、何か今後のツテになるかもしれないし。」

ただ、Gが嘆くのは、このような機関に入るためにでさえ「コネ」が必要であることである。彼女のような真摯な想いを持つ人材に、何がしかの機関が目をとめてくれるのを祈るしかない。

 ふと、彼女の父が、土中にある数千年前の泥レンガの壁を探り、歴史の一片一片をつなぎ合わせる作業を黙々と行っていたことを想い出した。彼は逝ってしまったが、彼の娘は、傷ついて砕けてしまった人々の心をつなぎ合わせる試みを、手探りで始めた。アブ・ムルハフ、彼女を守ってやって。


2017-11-20

犯罪者


もう一人の学生の話。

アレッポでの戦闘が激しくなってきていた2013年、アレッポ旧市街の一角に、文化財を自分たちの手で守ろうとしていた市民グループがあった。
このブログでも当時、少しだけ触れたと記憶している。

このグループには大学で建築を専攻していた者や歴史を勉強していた者だけではなく、地域住民有志なども参加していたが、その中には考古学科卒業生のYもいた。

彼らの活動の場所は、アレッポ旧市街の中心部である。戦闘も行われていた。実際、かなり危険な場所であった。そのようなところで、色白の気弱なYが、グループの主要メンバーとして働いていたのは驚きだったが、その頃の彼との通信を見直してみると、彼は実に果敢に、危険を顧みずに動いていたことがわかる。

歴史的建造物の前に土嚢を築いたり、ウマイヤドモスクにある美しい装飾の施されたミンバル(説教壇)を安全な場所に移したりと、彼らにできるだけのことを行っていた。

また当時から、アレッポ旧市街だけではなく、市郊外の遺跡でも激しい侵害が進行していたが、彼らはその現状に対して、少なくとも記録を残そうと試みていた。混乱が収まった時に、この資料が必要になるはずだ。Yはそう言っていた。

彼らは反政府側のグループとみなされていた。武装集団でもなんでもないのだが、常にマークをされていた。活動にたいしては、有志からのカンパもあったようだが、かなりの部分が手弁当であったようだ。

その頃、治安は悪化する一方だった。アレッポ旧市街での戦闘は止む様子もなく、ますますエスカレートしていた。

グループの活動も、危険にさらされ、停止せざるを得なくなった。メンバーのあるものは国を離れた。Yには妻子がいた。子供はまだ小さい。結果、彼もトルコへと逃れる道を選んだ。

彼らが去ったのち、アレッポ旧市街は、無慈悲な破壊行為を受け続けた。

昨年末の政府軍による制圧以降、空爆や戦闘のおさまったアレッポでは、ウマイヤドモスク修復の計画も持ち上がっていると聞いた。知り合いのTが、そのためにアレッポに戻っているというニュースも耳に挟んだ。いまだに他地域では激しい人道侵害が続いている中で、「修復事業」がどのようなコンセプトで行われるのか、違和感を禁じ得ないが、少なくとも戦闘のおさまったアレッポでは、そのような動きもでてくるのは当然といえば当然かもしれない。

そんな時、ずっと連絡が途絶えていたYから、FBに「ちょっと質問があるんですけど」と、メッセージが飛び込んできた。Yは、国をでたあと、トルコで大学院に入るチャンスを得たようで、イスラム期の建築史を学んでいた。質問に答えながら近況を聞くと、その後大学での研究は順調に進み、もうすぐ博士号が取れるはずだ、という。

そこで、先のウマイヤドモスク修復計画の話を知っているかと聞いてみた。もし、「修復」というのがまともに行われるのであれば、彼こそ、まさしくこの計画の一部に入るべきだ。そう思った。アレッポでの旧市街の修復や復興は、地元の人なしではあり得ない。

彼は言った。「ああ、そんな話があるの、聞いています。でも僕は戻れない。だって、僕はあの頃の、アレッポで文化財を守ろうとしていた活動のおかげで、『犯罪者』ってことになってしまっている」


あのミンバルを守ったのは、君なのに。

2017-10-29

泥レンガの壁


アレッポ大学考古学科講師時代の学生たちのうち、何人かはこの紛争の中、ヨーロッパにあるいは近隣諸国になんとか逃れ、勉強を続けている。

最近、そのうちの一人A はイタリアのローマ大学でPh. Dをとった。9月のある日、何気なくFBを見ていると、満面の笑顔で花束を持ち、友人達と写真におさまっているAを見つけた。初めて見る背広姿のAだった。

「おめでとう!」とその写真にコメントしたとたん、スカイプが鳴り始めた。いつも少しはにかんだように話す彼だが、今回も「なんとかなったみたいです。」とこの一大事を恥ずかしげに報告してくれた。

Aはアレッポ大学で考古学を学んだのち、同大学院でセム語を専攻していたが、紛争が激しくなった2013年の後半に命からがらシリアを出た。慣れない異国の地で、当初は文字通り空腹を抱えての生活を送っていた彼。今回のPh. D取得は、まさしく苦学の末の学位である。

彼の研究対象はシリアのエブラ遺跡から出た古代文書である。イタリア隊の発掘により1970年代に楔形文字で書かれた文書が大量に出土し、一躍有名になったこの遺跡は、彼の出身地イドリブ県にある。亡くなった夫はこのイタリア隊の研究者たちと懇意であったため、Aをはじめ何人かの学生をこの遺跡の発掘に送り込んだこともある。

その時、私も夫も至極単純に期待した。将来彼はこの遺跡で、シリア側の研究者として調査をすることになるだろう、と。自分たちの国の歴史を外国人研究者に任せておくことはない。夏の抜けるような青い空を背景に、明るい褐色の壁の遺構が浮かび上がる。泥レンガで造られた建物は、その背景となった歴史を誰かに語しむべく発掘されたはずだった。

しかしシリアでの争いは、エブラ遺跡さえも餌食にした。他の遺跡と同様、ここも盗掘の対象となり、激しい侵害を受けている。イドリブ博物館の収蔵されていた粘土板文書コレクションも、現在どうなっているのか不明である。

久しぶりにゆっくり話すことのできたAに今後のことを聞いた。学術的な方面でイタリアに残る術はないのかと思ったのだが、彼の答えは、あまり芳しいものではなかった。イタリアは経済的にもそれほど余裕がない、彼のように学位をとった学生はうようよいる。また学術機関ではなく、何か別の仕事を探すにしても、あまり期待はできない。可能性として、1年ほど前にベルギーに出て難民認定を受けた家族に合流して、自分も難民申請することも考えていると。

歴史を語る術を身につけたことと、彼の人生の選択肢は別物である。

私たちがあの夏の日に見た夢は、まだあのくずおれた壁の中に残っているのだろうか。








2017-10-19

ラッカとタハ・タハさん

昨日来、ラッカからISが駆逐されたというニュースが日本のテレビでも伝えられている。ISが首都とみなした町。様々な「蛮行」が行われたとされる町の中心部が、日本のテレビニュースの一コマとなって映し出される。

私としてはラッカが話題となるたびに妙な感覚を覚える。

私がシリアに住んでいた頃は、ラッカがこんなに世界中に「名の知れた」町になるとは予想だにしなかった。

ラッカはユーフラテス川沿いの田舎町。シリア人はユーフラテス川沿岸に住む人たちを総称して、俗語で「シャワーヤ」と呼ぶことがある。「シャワーヤ」とは、遊牧民から定住民になった人々を、都市民が若干冷やかし気味に呼ぶ際に使う呼び名だが、私はその「シャワーヤ」の地域で発掘などをしていたせいで、この地域に友人が多かった。

都市の人たちは彼らをこんな呼び名でからかうこともあるけれど、彼らはアラブの寛容さ、もてなしの心を最も自然に生活の中に持っている人々だ。そして出身部族が未だに自分たちの本来的な帰属であると考える、誇り高き人々でもある。だけど、私が知っている彼らは、誇りよりもなによりも、快活で、楽天的。

件のラッカには、忘れることのできない、得難い友人がいた。彼の名はタハ・タハ。

彼はある意味で変わり者。何でもかんでも「集める」のが趣味で、大好き。彼の家は、彼の収集した物で溢れかえっていた。その中には遺跡に行って表面採集してきた石器や土器片、民俗資料、骨董品などの「逸品」もあったが、新聞の切り抜き、上手下手を問わない絵画、骨董なのか何なのかわからないガラクタも含まれていた。彼の家はいわゆる「ベイト・アラビー」、すなわち中庭の四方が数室で囲まれた形の家で、それなりのスペースがあったが、家族の居所はその中の二部屋しかなかった。

タハ・タハさんは、自分の家を、「博物館」と呼んでいた。お客を呼ぶのが好きで、彼はコレクションを見せるために、外国の発掘隊のメンバー、地元の自称「文化人」などをよく招待していた。私も主人も彼の「賓客」として何度も呼ばれた。

子沢山で、このガラクタの山、暇があれば、「収集」と称してどこかに行く。彼は郵便局の職員で、月給など雀の涙程しかない。彼は金銭的にはいつも「貧し」かった。前歯が抜けたことがあったが、それを治療するよりは「収集」することになけなしのお金をつぎ込んだ。

ある日主人と彼の家に行った時、主人は彼の奥さんに尋ねた。こんなクレージーな旦那と一緒にいて平気なのかと。彼女は笑いながら答えた。「彼のクレージーを感じなくするために、わたしもクレージーになったわ。これほどいい解決法はないでしょ?」

彼は毎年9月に彼の「博物館」で「祭典」を開いた。地元、外国を問わず大勢の「文化人」をよび、その中の音楽家に音楽を奏でてもらい、詩人に詩を朗読してもらう。私たち考古学をしていたものは「考古学功労賞」を彼から授けられた。

彼と知り合ってから数年後に、彼は借金をして実際に「博物館」の建物を作り始めた。最初の年は、地下のみ完成。その年の9月の「祭典」の「式典」は、コンクリート打ちっ放しの屋根のない一階で行われ、「特別展」はとりあえず完成している地下を使っていた。

その後も一階以上が完成しないまま、彼の祭典は時にラッカ市のホールを借りたり、ユーフラテス河畔のレストランを使ったりして行われた。

彼の活動は、ローカル色満載すぎるきらいがあったが、シリア国内でも結構知られていた。あまりにも雑多なコレクションであり、彼の呼ぶ「芸術家」もそれほど評価されていない者が多かったため、一部の「洗練された」芸術関係者からは評価を受けていなかったが。

しかし、彼の存在はシリアでは極めて稀で、非常に貴重だった。「普通」の市民が私財を投げ打って「文化」を試す。我々は「文化財」に対して知らず知らずに、スマートな「スタンダード」を求めているが、彼の手当たり次第のコレクションは、他に例のない、この時期の、シリアの、この地域を表していた。

何を隠そう、私たちが今「イブラ・ワ・ハイト」で使用している刺繍のオリジナルは彼のコレクションの一部なのである。このブログでも以前触れたが、タハ・タハコレクションの刺繍に主人が惚れ込み、彼から無理を言って譲り受けたものなのである。

ISがラッカを制圧したとき、私が一番に思ったのは、タハ・タハさんはどうしているのだろうということだった。彼の消息はずっと不明のままだった。

2ヶ月前。偶然、私のFBの投稿に見覚えのある名前で「いいね」をした人がいた。タハ・タハさんの息子の名前だ。びっくりしたが、試しにメッセージを送ると、やはり彼の息子だった。その後、この息子経由でタハ・タハさんにもつながった。タハ・タハさん一家は今トルコのウルファにいるらしい。

彼によると、ISはラッカを制圧したのち、彼のコレクションにも目をつけた。ある日突然彼らはやってきて、「博物館」を全て、背教の印として破壊してしまったという。

私の中では、未だにラッカはタハ・タハさんの「博物館」と結びついている。だから、この数年のIS制圧下のラッカでの出来事は、虚構のように感じることがあった。しかし、ISは確かにあの町にいたのだ。そして、タハ・タハさんの「博物館」も、コレクションも現実に破壊した。

「博物館は全部なくなった。みんなこっぴどく破壊されたよ。何にも残っていない。綺麗さっぱりね。まあ、でも家族はみんな無事で、僕たちは、結局ここ(ウルファ)に2年前に出て来ることができた。ラッカにはもう何も残っていないけど、僕はここ(ウルファ)の文化関係の人と今友達となって、いろいろ町の文化財を見て回っている。明日も約束があるんだ。また珍しいものがあったら教えてあげるよ。」

彼はまさしくタハ・タハさんだ。

まだ、ガラクタを集め回ることを止めていない。ビデオトークの画面には、かなり老けてしまったが、私の知っている人懐こい顔が映っている。「ウルファに来たら、穴場につれてってあげるよ」と言って笑った彼の口には、まだ前歯は入っていない。