2012-10-24

兵士

10日ほど前、教え子のSが日本にやって来た。日本の大学院入学の手続きを行うためだ。彼は、激しい攻防の続くイドリブ県出身だが、まずレバノンにいる兄弟のところに身を寄せ、ベイルートの日本大使館でビザをとり、来日した。

イドリブからベイルートまでの陸路が大変だったようで、最も近いシリア沿岸部を通ってのルートは、検問で「イドリブの住民」という理由で通行不許可、まわりまわって、ようやくベイルートに入ったようだった。

先日、東京に出てきた彼に出会う機会があった。1年半ぶり、昨年の春にアレッポで会って以来だった。FBで状況は何度か確認していたものの、実際日本で「生きて」会うことができたことが何より嬉しかった。彼も、とりあえず、日本で考古学が続けられるめどがついたことにほっとしてはいたようだったが、手放しで喜べないことは、お互いに認識している。彼は、両親はまだシリアに残っているのだから。

食事をしながら状況を聞いたが、一ヶ月ほど前に亡くなった彼の従兄弟の話を、賑わう東京の繁華街で聞くことは非常に奇妙で、罪悪感さえ覚えた。

彼の従兄弟は、数ヶ月前に兵役期間が終わり、帰郷するはずであった。しかし、兵役期間は有無を言わさずに延ばされ、兵糧を運搬する車の運転を任されていたという。一ヶ月ほど前、その兵糧用のトラックに仕掛けられた爆弾が爆発し、中にいた彼は一瞬のうちに亡くなった。

彼は、「政府軍」にいた。しかし、望んで「政府軍」であったわけではない。そして、本来ならそこから解放されていたはずの時期に爆死してしまった。

Sは言う。彼が日本に発つ前に、シリアからメッセージが来た。そのメッセージには、従兄弟の従軍していた期間の給料として、6万シリアポンド、約6万円が従兄弟の両親のもとに送られてきたことが書かれていたという。

これが、「政府軍」で働いた報酬なのだ。従兄弟の血の代価なのだ。Sはそれだけ言って、少し水を飲んだ。そして続けた。

これから、どうなるのか、誰にもわからない。だけど、この政権は変らなければならない。国際社会とやらは、現政権が変っても、もっと悪い政権がその場所に納まるかもしれない、と言う。それでもいい、変ってくれ、と従兄弟を失ったSは言う。もっと悪いなら悪いで、僕たちが責任を取る。ただ、変ってくれ、まずはそこから始まるんだ、と。

報道は「政府軍」と「反政府軍」の攻防を伝える。しかし、これが政府軍の兵士の現実であり、現政府に反対するものの感情なのだ。

Sは10月末に一旦日本を離れ、再び年明けに来日する予定である。どんな状況であれ、われわれは、シリアの遺跡をもう一度調査するであろう、若い世代に賭けたいのだ。

2012-10-14

ズフラート(ハーブティー)


風邪をひいてしまった。咳が止まらないので、何か薬はないかと探していると、昨年シリアで買ってきたズフラートが出て来た。ズフラートとは、ハーブティーの一種で、シリアでは普通に飲まれているが、咳にいい、と風邪の時はよく勧められたものだ。

お湯を沸かしてズフラートを煎れ、飲んだ。この「花のお茶」は喉の奥にゆっくり沁み、体を温めてくれる。両手でカップをもち、お茶の湯気を吸い込みながら、先日、トルコ国境リーハニーエ周辺の、シリア側の村で自由シリア軍のロジ隊と働いているOの言葉を思い出した。

シリアからトルコに20万人近い避難民が流れているのは周知であるが、最近、トルコ側は、その対応に苦慮しており、受け入れを制限し始めている。そのため、多くの避難民が今Oのいる村や、その周辺で足止めを食らっているというのだ。

ここに来る避難民の多くはアレッポからの人たちであるという。昨今のアレッポ状況の極端な悪化で、避難民は増え続けているが、彼らはトルコに抜けることができず、この村に宿営せざるを得ない。

この彼らのために自由シリア軍のロジ隊は、数箇所でキャンプを設営しつつあるが、そのために必要な、極めて基本的な物資に事欠いているという。テントそのものも追いつかず、オリーブの木の元で暮らしているような家族もいるのだ、と。

「もうすぐ、寒くなります。もしこのままの状態が続いたらどうなるのか?」

彼らは勿論一般市民だが、負傷して、ここまでたどり着いたものもたくさんいる。しかし、その手あてのための薬や設備は勿論、十分であるわけがない。また宿営状況が悪いことから、病気も多く、特に最近では、結核と思われる病気がはやり始めたらしい。彼がいうには、「そのこともあって、今日、トルコは100人の避難民の患者の入国を受け入れましたよ」という。

「私たちは精一杯やっている。なのに、事態は硬直したように、のろのろとしか動かない。状況は極めて悪い。何が起こりつつあるのか、どうしてこんなことになってしまっているのか、といつも自問自答するしかない。」呻くようなメッセージだった。

私が咳をしていたら、黙ってズフラートを煎れてくれた、優しいシリアの人たち。今、彼らは何をもって、彼らの体を温め、心を休めることができるのだろうか。そして、私は、何をもってそれを手助けできるのだろうか。

2012-10-02

アレッポ・スーク炎上と沈黙の戦い


シリアでの、そしてアレッポでの戦闘は続いている。

しかし、ここ数日間に届いている知らせは、私にとっては今までで、最も衝撃的な映像を伴っている。ジュダイデ地区のダール・ザマリヤ破壊とアレッポのスーク炎上の映像である。

ダール・ザマリヤはアレッポのジュダイデ地区に多く残る18世紀の歴史的建造物のひとつである。15年ほど前から始まったオールド・アレッポの活用計画の中で、外国の援助なしに地元の資本が中心となり、古い建築を修復し、地元の建築士たちが実際の図面をひき、それまで荒れ放題だった古い建物を蘇らせた。これは単なる修復ではなく実益も伴った事業で、この地区では数軒の古建築がしゃれたレストランとホテルに生まれ変わったのである。

また、アレッポのスークは、中東最大のスークとも言われる。初めて訪れたひとは、雑踏に驚いて迷路と思うことが多いが、実際は一種の条里制とも言うべきヘレニズム時代のアゴラの上に立てられている。間口の狭い店がびっしりと並び、所々にモスクやキャラバン・サライ(隊商宿)があり、香料屋から流れる匂いはもとより、石鹸、食糧品、その他の雑多な品物からの独特の香りは、外国人にとっては異国情緒をかもし出す重要な要素だ。

しかし、アレッポのスークは地元民が今でも日常生活の必需品を買いにくる、生きたスークである。なんでもあるのだ。近隣の村からも村人が買い物に来る。彼らは服装や、頭に巻くものの違いなどで、大体どの地方から来たかが、おおよそ見当がつく。民俗学博物館よりも、風俗がよくわかるのが、アレッポのスークだった。

この二つのアレッポを代表する場が、破壊され、燃えた。



燃えた、と過去形で書いたこの瞬間、イドリブからアレッポに出てきているAがオンラインに来た。聞いてみると、たった今、現地時間9月30日午後5時現在でもスークの方角から煙が上がっているという。(そして、そのことを伝えながら、Aは「あ、今、爆撃音がして、家が震動しました」とも書いてきている。)

最初にダール・ザマリヤ破壊のニュースを見たとき、教え子のWにそのことを言うと、「確かにショックです。でも、今頃は、何を聞いても、他の多くの破壊の内の一つに過ぎないと思ってしまう。なんだか、感覚が鈍ってきたみたいなんです。」と言う。「感覚が厚いワニの皮にでも包まれてしまったような、そんな感じ。いや、と言うよりも、感じようとするとつらいから、感じないようにしているのかもしれない。」

彼の一言、一言がずっしり重かった。そして、現在、おそらくほとんどのシリア人は、彼と同じような思いを共有しているのだろう。なるだけ、感じないようにするのだ、でなければ、気が狂ってしまう・・・彼はそう続ける。

「でも、先生、こんな生活の中で、いいことも見聞きします。それって言うのは、中には、この厳しすぎる現状の中で、無言で堪えて、日常を保っている、保とうとしている人たちがまだいるんです。どこに行っても、まだ仕事を普通にやろうとしている人がいるし、普通の生活を続けようとしている人がいる。彼らは沈黙の戦いを続けているんです。」

「僕は、こんな感じで、そういう人ほど強く生きてないと思う。だけど、少なくともそういう人がいることも、伝えておきたいんです。」

私にできることは、さらにその声を伝えることしかない。

2012-09-18

砲撃と隣り合わせ


今日は、アレッポから数キロの郊外の村、カファル・ハムラに移った元教え子のAと再び話すことが出来た。彼女はこの数日オンラインにはいたようだが、いつもすれ違いだった。

彼女のいるカファル・ハムラの村は、甥のハムドゥのいるビレラームーン村の隣村なので、彼のことはわからなくても、せめて村の状況だけでも聞ければと思った。そのことを伝えると、彼女は、もし携帯番号でもわかったら、今電話をかけてみますよと言うので、かけてもらうことにした。

しかし、すぐに通信圏外のメッセージが流れたらしく、「近頃、毎日どこかで空爆があり、空爆のある地域では電話が切られるのです。さっき戦闘機の音が聞こえていたから、たぶん今に、始まるんだと思います」と言う。恐ろしい現実なのだが、彼女は淡々と伝えてくれる。

あなたのところは?と聞くと、「今のところは大丈夫です」「ただ、昨日の夜まで断水で、タンクの水がもう尽きかけていました。ようやく夜に水の来た音がして、ほっとしているところです。」ということである。「水も、電気も、電話も、みんな好き勝手に切られるけど、さすがに空気だけは切れないね、ってみんなで言ってるんです。」

愚問と思ったが、彼女に質問をしてみた。今、シリア国民のどのくらいが政府を支持していると思う、と。彼女の考えでは、30%以下ではないだろうか、と言う。「革命」当初は少なくとも半数は政府を支持していたと思うが、流血の惨事などを受けて、今はあるいはこれ以下かもしれない。勿論、残りがすべて自由シリア軍を支持しているわけではない。と言うのは、一部は、彼らの存在が都市への攻撃を誘発していると考えているからだ、と簡潔に答えてくれた。

「だけど」と彼女は続ける。「自由シリア軍がいてもいなくても、爆撃はありますよ」「ただ、彼らの作戦はまずいのではないかと・・・」と書いてきたすぐ後だった。

「ごめんなさい、今家の横で、砲撃が始まったみたいです。シェルターに行かなきゃ。」

そして、彼女はオンラインから消えた。


(追記:このあと、30分後に、彼女は再びオンラインに来た。「今日は二発だけでした。こんなことにも慣れるもんですね」と報告してくれた。小学校の先生である彼女は明日、「学校が始まるらしい」ので、とりあえず行ってみようと思っている、とも言っている。)

2012-09-11

臨時召集


昨夜2週間ぶりで、アレッポとイドリブの友人たちがオンラインにいた。そして、みんな、「まだ生きてる」というメッセージを残してくれていた。

FBの、緑の小さな点が彼らの名前の横についている。この期を逃すまいと、急いで話しかけた。教え子のWは、この2週間の間に、彼の家の建物の屋上が砲撃を受け、大きな被害を受けたと語る。でも、「とりあえずウチの部分は崩れませんでした。まだ、元の家に住んでます。」という。

彼に、アリーハのAのことや、甥っ子のハムドゥーのことを聞いてみた。Aは、アリーハからイドリブの町に移っているが、数日前に連絡をとり合い、とりあえず無事を確認したという。またハムドゥーには、こんな状況の中、先日大学に行き、偶然出会ったというが、彼の村は、アレッポの激戦区とまでは行かずとも、いつどこで爆撃にあったり、弾が飛んできてもおかしくない状況になっていると話していたという。この2週間で、状況はあの村では悪化しているようだ。

Wは続けた。「でも、こんな中で、僕たちシリア人は、決して捨てたもんじゃないことを確認している。余裕のある人は、進んで被害にあった人や、生活できなくなった人を、物質的にも、精神的にも助けている。シリア人は必死で、耐えて、しのいでいる。国際社会からの支援なんか、もうどうでもいい。期待するなんて、この状況じゃ、もう意味がない。自力で、やるしかないんです。」

先生、気にしなくていいよ、と彼は続ける。出来ないことは出来ない、仕方ないんだからと。

何と返事すればいいのか。ついこの前まで、私は彼らを「彼ら」という代名詞で呼んでいなかった。私にとって、彼らは「我々」だった。なのに、私は今、この「国際社会」の片隅にいるしかなく、「彼ら」にかける言葉さえ見失っている。私は・・・と続けようとするが、言葉にならない。その私の気持ちを汲んでくれたのだろう。また、これからもネットが開いたら、声をかけてくださいね、と彼は書いてくれた。

ラタキアのAからも、今朝メッセージが入っていた。そこには、数日前、臨時召集令状が来たらしいことが書かれていた。彼は今年の初めに兵役を終えたにもかかわらず、一ヶ月以上前に、軍隊から臨時召集が来たと言っていた。そのときは、それほど深刻なものではないと思っていたが、今回は再度の催促のようである。

同じシリア人を殺すための軍隊には行かない、行きたくないと、若い友人たちはすべて口をそろえて言っている。Aも例外ではない。どうも、彼はこの2度目の臨時召集のあと、強制的に召集されるのを恐れ、自宅をでて、友人宅に「逃げ込んで」いるらしい。しかし「逃げおおせるものではないと思う。だけど、どうしたらいいのか、わからない。」「今、同じシリア人を殺すための軍隊に誰が好んでいくと思いますか?でも、この前、友達が逮捕された。召集を拒否したんです。」

シリアでは、傷をえぐるような毎日が続く。

2012-09-03

過ぎ去る夏

アレッポとの通信は、まだ、ほぼ途絶えたまま。しかし、数日前、数分間だけ、教え子のAと話すことが出来た。状況が変らないことには違いないが、日を追うごとに具体的な問題がでて来ているらしいことを彼女は伝えてくれる。

例えば、彼女の家である。今、彼女の家には、サラーハッディーン地区の家を潰され、逃げてきた兄弟の2家族が同居している。しかし、別の地区にある彼女の大家の自宅が爆撃で潰れ、彼女一家(今となっては3家族)の借りている家に住まざるを得なくなったらしく、家を明け渡してほしい、と言って来たという。仕方なく、ハレイターンという、アレッポ市街から15分ばかりの村にある親の実家にみんなで移ることにしたらしい。

まだ、行く先があるだけマシです、と彼女は言う。行く先さえわからない人が多いのだからと。とにかく、彼女らは今、引越しをせざるを得ない。それも無事に済めばいいのだけど・・・。

彼女は小学校の先生をしている。9月になって学校が始まったら、あの田舎から通うのだろうか、と心配になったが、それよりも何よりも、この新学期、アレッポで学校を開くことが出来るのだろうか?という疑問が残る。

教育省は、勿論、新学期は例年通り始めると通達しているらしいが、彼女は言う。「今、学校はどこも避難民でいっぱいです。もし学校が始まったら、彼らは行き場がない。通達は、建前だけ。実際どうするべきなのか、検討がつきません。」「しかも、アレッポでは、親はこんな状況の中、子どもを学校に送るのを非常に恐れています。アレッポから出た人もいっぱいいるし。まともに学校が開けるとは思えないですよ。」

実際問題として、子どもだけではなく、大人も町をまともに歩けるのだろうか。

たまたま、今日オンラインにいたホムスのSちゃんに聞くと、彼女のアレッポに残る両親は、ようやく昨日、少しだけ外出することが出来た、と言っていたらしい。しかし、それも限られた地域のみで、アレッポの中心部でも一部(サバア・バハラート周辺)は、狙撃者が「うようよ」居て、危険極まりないらしい。

夏はもうすぐ終わる。

普通ならば、新学期のかばんを買ったり、文房具をそろえたりし始める時期だ。娘が就学中は、この時期、制服を買いにいったり、色指定のノートのカバーを探しまわった。この時期、秋を運んでくる涼しい風の中、夕方の町に出るのは、それなりに楽しみだった。

辻つじにいるとうもろこし屋の、甘いとうもろこしをほうばるのも楽しみだった。
あのそぞろ歩きの宵の、店の明かりが、ぼうと脳裏に蘇る。

2012-08-30

慟哭


昨日、トルコにいる自由軍のMSと、途切れ途切れながら、音声で話すことが出来た。

話しが、再び山本美香さんのことになったとき、彼が少しナーバスになった。彼は言う。「彼女の死を我々も悼んでいる。冥福を祈っている。彼女の血を評価している。日本は彼女の死をずいぶん報道したみたいだし、世界もそうだ。しかし、日本は、流され続けている数万ものシリア人の血には関心がないみたいじゃないか。政府もそのことに関する声明を出したようだけど、我々の血には一言も触れなかった。仲間も彼女と一緒に死んだのに。」

「なぜだ。我々はいつも日本を好きだと思っている。もう一年半たった。だけど、この中で、我々の血に関して、関心がある発言を聞いたことがない。」

口を挟もうとしたが、「あなたに言っているんじゃない。わかってる。だけど、我々の仲間の中には、あの事件のあと、じゃあ、俺たちの血はどうなんだ、と苛立っているものがたくさんいる。あなたに言ってもどうしようもないかもしれない。でも、我々はすごく傷ついている。」

援助が、といいかけたら、彼はさえぎった。「援助のことを言ってるんじゃない。何で関心がないんだ。みんな、これだけ死んでいる。それなのに、世界がそのことに関心がない、と感じることが、どんなに傷つくことか。」

何かを言おうとしたが、彼の勢いに負けた。彼は、繰り返した、我々の血は人間の血じゃないのか、と。

その後、音声が途切れ途切れになり、切れてしまった。

わかっている、と繰り返した私。だけど、何がわかっているのか、わからなくなった。20年以上過ごした、シリア。大地は赤く、肥沃である。その土で育った麦を食べ、野菜を食べた。すべて私の血に、そして娘の血になった。それだけでも、彼らの血と交わっている、そう思ってきた。

しかし、現実に、今、私は日本にいて、頼りない話ばかりしているのだ。彼が私を責めたのではない。わかっている。だけど、彼の感情もまた事実なのだ。

数時間後に、FBを開くと、メッセージがあった。

「私は警察の将校職が染み付いていて、外交的な口が聞けず、申し訳なかった。あなたは私たちのうちの一人だって、思っていますよ。」

そうありたいと思っている。

2012-08-23

ラマダン明けイード


ラマダンがあけ、イードが始まった。イードの挨拶を、チャットのメッセージに書き込んだ。相変わらず、誰もオンラインにいないが、いつか届くだろう。

そして、イード3日目の21日早朝、日本人女性ジャーナリストの山本美香さんがアレッポで亡くなったというニュースを知る。衝撃だった。そして同じ日、仕事の関係で見た、ヴィデオに映し出されるアレッポの街の様子に、さらに頭が真っ白になった。

イードである。いつものイードなら一張羅を着た人々が、親戚や友人の挨拶周りで、うろうろとしているはずの通りには、今年は誰もいない。臨時に街角に設置されるブランコはなく、ただただ銃声の響く街。お年玉を持って、駄菓子屋に走る子どもたちがいるはずもない。

この状況では当たり前なのだ。しかしわかっていても、悪い夢を見ているようだった。

判然とはしないが、おそらくジャミリーエ地区付近ではないかと思われる街かどには、土嚢が積まれ、銃を撃つ兵士が映し出される。また、他のシーンに登場する街角の映像にも、見慣れたパターンの家が見える。確かにアレッポである。だけど、そこは、なんと違った世界になっていることか。

21日深夜、夫の娘Oがオンラインに来た。他の二、三人も。急いでとりあえずOにメッセージを送った。今日は、携帯を通じてのFBならば通信できるという。これもいつ切れるかわからないが、とりあえず彼女はいた。長くは語れなかった。でも、とりあえず確認した。それでよしとするしかない。

そうこうしているときに、自由シリア軍のMSがメッセージをくれた。その中には山本さんの遺体をシリアからトルコへと移送するために尽力してくれた、自由シリア軍の士官の名前があった。また、山本さんへの深い哀悼の意を表するシリア人ジャーナリストたちのことも書かれていた。

彼らがどのようにこの件で働いてくれたか、どんな言葉を交わしながら動いてくれたか、想像がつくような気がする。あまりにも悲しい出来事ではあるが、MSの短いメッセージの中に、いかなる状況にあっても暖かいシリア人の心が読み取れた。

山本さんの冥福を心から祈るとともに、彼らにも、やはり深い特別な思いを送りたい。彼ら全てに祝福あれ。

2012-08-16

トルコの離反者キャンプとアレッポの不気味な沈黙


数日前に、ふとしたことから主人の姪っ子の消息がわかった。彼女は、警官で今は離反してトルコのアンタキアの自由シリア軍司令部にいる彼女の夫とともに、離反者専用のキャンプにいるらしい。彼女の夫は、今回、反政府のひとつの砦であるマアッラト・ル・ヌアマーン出身で、この町に住んでいたが、数ヶ月前に所属の警察署を離反し、トルコに逃れたという。

甥っ子のハムドゥが、彼がヤヨイと話したがっているから、と彼のスカイプ・アカウントをくれた。コンタクト・リクエストを出したとたんに、承認の返事が届き、いきなりコールがあった。

彼は、まず姪っ子が声を聞きたがっているからと、姪っ子にかわってくれた。久しぶりに聞く彼女の声である。そして彼女は、「Mおじさんと家族もここにいるのよ」と伝えてくれた。

M?義弟のM?では、彼らはどういう経緯かはわからないが、どこかで合流したのだ。あいにくその日は、Mはイスタンブールに行っていていなかったが、とりあえず彼の消息もわかり、それなりに安堵した。

彼女は、「キャンプの生活は非常に厳しいけど、今はどうしようもない。でもアレッポが懐かしくて仕方ないわ」と言っていた。彼女らは、特に立場上、当分はシリアに戻れないだろう。

その後、彼女の夫MSと話すと、彼は、現地で司令部の広報担当をしているという。「離反はしたけど、前線には行きたくない。でも、現況のために、何かをすべきだ。だから広報を選んだんです。」という彼に、給料なんかもらってるの?と下世話なことを聞いた。

彼が言うには、給料などない。ただ、キャンプにいるので、食住は無償、あとはシリアから持ち出した貯えを少しずつ使って、必要なものを手に入れているそうだ。

「アレッポからの情報も、結構頻繁に入るし、気になるだろうから、また聞きたいことがあれば答えます。ちなみに昨日来たアレッポ城の写真を送りますよ」とダメージを受けたアレッポ城の写真を送ってくれた。

夫の一族は、夫の影響か、職業や日常生活は考古学などに縁遠い割には、遺跡に関して、それなりの理解を示してくれている。彼も、FBに自由シリア軍の兵士が遺跡を破壊せぬよう、という主旨のポストをしていた。

あれから数日。ネットのニュースは、アレッポへの大規模攻撃を伝えるが、詳細は不明である。

問題は、この2日というもの、アレッポの知人、友人が誰もオンラインに来ないことである。甥っ子が3日前にチャットを仕掛けてきたとき、少し用のあった私は、またあとでね、と応答した。

しかし、それ以来、みんなが沈黙している。電話も携帯、地上電話ともつながらない。心配なので、まだレバノンにいるSさんに聞いてみた。彼女もやはりアレッポとの通信を試みていたが、同じく、誰ともつながらないという。

アレッポで何が起こっているのか?不気味な沈黙の日々が続く。

アレッポ、ハムダニーエ地区の砲撃を受けた建物。
教え子のSが住んでいた。彼は、とりあえず無事で、今田舎に帰りついたらしい。

2012-08-07

アレッポ城


昨日(5日)来、アレッポ城が砲撃を受けているというニュースが伝わって来ている。最初にそれらしきことが、FBに載ったときは、まさかと思った。その後、夕方FBを開いたら、自由シリア軍がアレッポ城に立て籠もっているがために、政府側が彼らに、そして城に攻撃を仕掛けている。自由シリア軍よ、城から出てくれ、という内容の投稿があった。

そして、その夜中。ベイルートに一時「避難」した友人のSさんとスカイプで音声通話をしたとき、その第一声が「アレッポ城に何が起こっているか知ってる?」というものだった。

このニュースが間違いであってほしい、と思っていた私は、彼女の話に、改めて愕然とした。彼女もアレッポの友人から聞いたらしいが、その友人は、その目で砲撃が行われているのを見たというのだ。

その後も、FBで数人がこの件に激しい失望感をもって触れているのを見た。詳細はやはり不明だが、アレッポ城にまで騒乱の手が伸びたのは本当らしい。

アレッポ城はアレッポ市民の象徴的存在だ。周辺のオールド・タウンも含めて世界遺産にもなっている。いや、世界遺産云々という話はよそう。その「栄誉ある」タイトルでさえ、空しい気がする。そして、Sさんが言った言葉が、なによりもこの出来事へのどうしようもないやるせなさと、今起こっていることが含む矛盾を物語っている。

彼女は言った。「フランスが統治していたときでさえ、アレッポ城を攻撃したことなんかない。なのに、今、私たちが、私たちの手で、私たちの象徴を壊してるのよ。誰でもない、私たちが・・」

彼女は、今回ベイルートに着いたときのメッセージとして、「アレッポでは、私たちの体が砲撃を受けている。だけど、ここでは心に砲撃を受けているような気がする」と書いてきた。とりあえず安全な場所にいるからと、手放しで喜ぶ避難民は誰もいない。みな、あとに残した家を、街を、そして国を思う。そして離れれば、離れるほど、その気持ちは強くなる。

日一日と状況は悪くなっている。危険度も増している。アレッポの、いわゆる閑静な地区であったメリディアン地区でさえ、一昨日あたりから砲撃の対象になり始めている。この地区に住む友人は、昨日緊急の用で外出し、戦車の間を縫って、程遠からぬサビール地区にある実家に行ったが、当分自宅に戻れるめどはつかないと、Sさんに伝えてきたという。

アレッポが麻痺している。アレッポの優しい風が、今は崩された建物の粉塵を舞い上げている。イフタールは、アザーンではなく、銃声を聞きながら食べる。

それでも・・・、彼女は、ベイルートでの用が終われば、やはりアレッポに帰って来るに違いない。