2013-04-03

蜘蛛の巣



シリアの友人たちは、皆、限界に来ている。精神的にも、物質的にも。

昨日の朝、FBを開けると、教え子のAからメッセージが来ていた。彼は家族のいるイドリブのアリーハに戻れず、数ヶ月をアレッポにある親戚の家で居候として過ごしていたが、メッセージから察するに、ようやく自宅にもどったようである。

お元気ですかと、型通りの挨拶のあと、イドリブの大学で、ギリシア・ローマの考古学を教えることになったと書いてきた。紀元前3千年紀の古代エブラ文書で修論を書いた彼にしてみれば全くの専門外である。

「他の先生たちはみんな国外に逃げてしまったために、こんな教科を教えることになってしまいました」

Aは、自分の専門領域の専門家のいるイタリアへの留学を希望していたが、奨学金がとれず、今は宙ぶらりんの状態になっている。
彼は、それでも一縷の希望を持ってパスポートを更新した。しかし、有効期限は1年しか与えられなかったらしい。

「来年の4月いっぱいでパスポートの期限は切れます。僕はまだ兵役に行っていないので。」
つまり、なにも手だてがないと一年後には、政府軍に入らねばならないのだ。

彼は続ける。「先生、イタリアの留学に関してはすごく手数をかけてしまいました。本当に、本当に申し訳ありませんでした。でも先生だけが頼りだったんです」

ここまで書いたとき、彼は感情を押さえ切れなくなったようである。

「だけど、今シリアでの生活はもう不可能になり始めました。何でもいい、なにか手だてはないのでしょうか?皿洗いでも、掃除夫でも、どんなことでもして働きます。もう父の年金では、文字通り食べることもままならなくなっています。物価は去年の3倍以上になっている。近頃は、お腹がすいたままで寝ることがよくあります。先生、ごめんなさい。こんなことを書いて。でも、誰かにこの苦しみをシェアしてほしいんです。」

「外国で勉強したい。奨学金がだめならば、働きながら勉強する。世界中のどの国でもいいから、シリアから遠い所に行きたい。」

この言葉をどう捉えればいいのか?彼は意気地なしなのか?彼の言っていることは「弱音」なのか? 

この状況下、ある者は自由シリア軍に入り、ある者は国外へ避難し、あるいはそれを余儀なくされ、難民となり・・。全てが、あまりに悲惨である。

そして、さらにそこには、シリアの変わり果てた国内で、彼のように、蜘蛛の巣に絡まった獲物のように、身動きのとれなった若者たちが存在する。

2013-03-27

金のブレスレッド



「まだちゃんと決めてないけど、たぶんあと10日もすれば、トルコに避難することになります。」
 一ヶ月ばかり前、教え子のAが久しぶりに語りかけてきたが、それは今、シリアの誰もが考えるチョイスの実行を伝えるものだった。


 彼女と彼女の家族が数ヶ月前からパスポート取得の手続きを続けていたことは知っている。その頃は、町の治安状況から、パスポートセンターに思うように行けないと嘆いていた。しかし、最近になってようやく パスポートを受け取ったらしい。


トルコでは頼る人はいるの?と聞くと、誰もいないという。まずは、逃れて、とりあえず生活の場を設営して、それから、働き口をさがすと。



トルコで何をして食べて行くのか聞いてみた。彼女は小学校の先生であるが、異国であるトルコで先生が出来るとは思えない。彼女の答えは、妹と一緒に、どこかの店の店員にでもなるしかない。もしその口もなければ、手芸が得意だから、それでなんとかする、というものだった。なんとも心もとない「計画」のもとに彼女らは両親とともにトルコへ行き、両親を養うことになる。


  単刀直入にお金はあるのか、と聞くと、「ええ。あります。向こうで家を借りて、必要最低限の電気製品などを買いそろえて、23ヶ月くらいなら生きて行けると思うの。」という。それにしても、それはそれなりにまとまった金額だ。どうして都合したのと聞くと、彼女 は「私の金のブレスレッドを売りました」と言った。


 彼女は、大学生のときからアルバイトをしていて、それを家に入れていたようだが、あるとき、両親がその一部を、貯金だからと、金のブレスレッドにして彼女に贈った。 しかし彼女も年頃の女性である。貯金とはいえ、おしゃれの一つでもあるブレスレッドを手放すのをためらいはしなかったのだろうか?


 彼女は、その私の問いを、きっぱりと否定した。「私たちは、まだラッキーですよ。もう売るもののない人たちがいっぱいいるんですから。」


シリアでは、金製品を持つことは一種の貯蓄であり、それを必要な時に売るのは極めて普通のやりくり方法である。しかし、両親のいる家庭で、あえて娘が自分のものである金を売るのは、それなりに切羽詰まった状況を示している。

ふと、大学での考古学実習のとき、土器をチェックする彼女の腕に金のブレスレッドが光っていたことを思い出す。そのときは、実習とは不釣り合いね、と彼女をからかったものだ。

そのブレスレッドがこんな形で彼女の腕から消える日が来ると、誰が想像しただろうか。
















2013-03-16

祈り



2000年のバッシャール・アサド政権の成立後、周囲に何となく「自由」な雰囲気をにおわせる動きが出てきた。ある同人はドマリ」という週間新聞を刊行し始め、紙上ではそれなりの市民の意見が採り上げられた。

あるときこの新聞の記者から、夫も投稿を依頼された。夫は主に考古学関係の問題を取り上げ、好評であったことから、その後連載のような形で記事を書いていた。

その中では、どの国でも問題となる、開発と考古遺跡保存の間の問題を何回か取り上げ、考古総局を批判したこともあった。

何回目かの投稿のあと、夫は無期の拘束を意味する首相命の令状を受け取った。2002年の9月、植林事業で危ぶまれているという遺跡の現状を見に行き、家に帰ってきたところを拘束され、問答無用で、アレッポの拘置所に拘留された。

その日夫は、アレッポ大学の日本センター主催の講演会で発表することになっていた。この集まりには、在ダマスカス日本大使も列席されていたが、夫の不在とその理由に場内は一時騒然としたようだった。

その後、各方面からの助力で、夫は2日間拘束されただけで釈放された。釈放後、当時のシリア首相であったムスタファ・ミロの所に行くようにとのお達しがあったらしく、夫は首相のもとへと出向いた。

ムスタファ・ミロ首相は、アレッポの観光開発のための協議のために当時アレッポに何度も足を運んでおり、地元の考古学関係者とも何回か会合を持っていた。夫は当時すでに考古総局を離れてはいたが、在野の考古学者として意見を求められ、会合の度に声高に物申していた。そのため、首相も彼のことをよく知っており、「釈放」された夫をにこやかに迎えたという。

「なんで、あんたはいつもそんなに声高なんだ。そうかっかすることはない。考古行政は考古総局に任せておけばいいんだ。いっぱい職員がいる。そうじゃないか、考古学のザイーム(重鎮)さんよ。」と、そのとき首相は言った。

夫はそれに、若干皮肉を交えて答えた。「私は、礼拝(サラー)は宗教省だけのものじゃなく、我々市民、一人一人のものだと思ってましたけどね。」

考古学に限らず、それぞれの分野に属するものには、それぞれの「祈り」「礼拝」がある。それぞれが、その「祈り」を口に出すことが出来るはずだ。それは、当然の権利であり、義務であり、政府のみに独占されるものではない。そのことを、夫は上のような、単純なたとえで訴えた。

首相は、声を出して笑った。そして「わかったよ。精進を期待しているよ。また会おう」と言い、戸口まで連れ立って送り出してくれたらしい。

その後、シリアで、それぞれの「祈り」は自由に口に出せるようになったか?
シリアで革命が起こったとき、各方面が、デモ参加者の言う「自由」の意味理解をいぶかった。しかし、それはそんなに複雑なものではなく、ある意味で、夫の単純なたとえのなかに表現されているように思う。それは、普通の市民の共有していた単純な疑問でもあった。

また、315日がやってきた。革命勃発から2年たった今、「祈り」は銃声の中でかき消されている。

2013-03-12

転機



アレッポで家族のようにつきあっていた女医の友人Sさんは、非常に多忙であったことから、長年、ハサンという男性を週一回掃除のために雇っていた。

彼はどちらかと言えば貧しい層に属する人である。しかし、働き者で、心底正直者であったことから、Sさんは安心して、家を留守にしても彼に鍵を託し、掃除を任せていた。

私も何回かSさんの家でハサンに出会ったことがあるが、仕事も丁寧で、ぞんざいな口をきくのを見たことはなかった。仕事をすることに感謝し、誠実に生きてきた人のようであった。

昨年の夏、Sさんがアレッポを出る少し前、そのハサンが電話をかけてきたと言う。その電話で彼は、自由シリア軍に入る決意をSさんに告げた。内戦で兄弟、親戚が次々と亡くなって行く中、その不条理に向き合うために彼に残った選択は、自由シリア軍に入ることだった。

彼は戦闘を好むような人物ではない。家族を愛し、自分に与えられた仕事を真面目に行い、慎ましく生きてきた、シリアにどこにでもいる愛すべき人物だ。
その彼が、あえて前線を選んだ。

「彼は、あのとき私たちに『別れ』を告げた。その後、彼がどうなったかは知るべくもないわ」

そしてこれと前後する時期に、あれほどシリアを、アレッポを愛したSさんが、国外に出る決意をした。

医師という、社会的にも高い評価を受ける職業のSさんと、そのSさんの家の掃除夫を勤めるハサン。この2人の位置は、社会的には極めてかけ離れたものだ。しかし、2人がそれぞれの選択をした時期は、ほぼ重なる。

昨年の夏、それはシリアの「革命」の一つの転機だったように思う。

「長引きすぎたわ。」とSさんは、先日避難を続けているパリでつぶやいた。「革命を理論的に担おうとした層の多くは、国外に逃れざるを得ない状況に追い込まれ、ハサンのような形で人が戦いに向かうようになったとき、「革命」は個人のレベルに降りてきたのよ。」

Sさんは続ける。「『革命』前は、私たちはリラックスし過ぎていた。国際社会に取り残されているのに、リラックスを続け、進歩した気になっていた。それはいつまでも続くものではあり得ないことだったのよ。いつかは、なにかが崩れるべきだった。でもそれがこんな形で起こるとは予想していなかった。」

「ヤヨイが昨年アレッポを離れるとき、いつここに帰って来れるのかしらと嘆いていたけど、その嘆きが私たちのものになるなんて、その時は思いもしなかった。」

彼女は、しかしその嘆きを振り回さない。望郷の念をパリの早春のなかにしまい込み、「国境なき医師団」に参加している。


2013-02-22

ユーフラテス川のほとり




حطو قبري بعارودة

وبراس رجم عالي

بلكي الحلوة تمر من هين

والفاتحة تقرالي
私の墓はアルーダに作っておくれ                      
あの高まりの墓のなかでも、一番目立つ所にね                    
ひょっとしたら、可愛い娘がやってきて                
ファーティハを唱えてくれるかもしれないから                  

これは、アレッポの北東部、ユーフラテス川のほとりに聳えるアルーダ山(ジャバル・アルーダ)一帯に伝わる、古謡である。この謡に詠われているアルーダ山の頂上には、シャイフ・アルーダ(長老アルーダ)を祀る祠があり、そのまわりには墓地が広がっている。そして今でも周辺の集落の人々は、この高まりに死者を葬る。

この古謡は、誰が詠んだのか。アルーダ山での一族の葬送を終え、一人頂に残った若者が、いつかは訪れるその日を、無邪気を装いながらも甘美な感傷を交えて謡ったのだろうか。
それとも、つれない「可愛い娘」への、遠回しの愛の告白なのだろうか。
彼の眼下には、ユーフラテス川が空の色を映して青い水をたたえる。かなた対岸には石灰岩の白い崖が、凛としたコントラストを見せて佇む。
春ならば、ヒバリが空高く舞い上がり、そんな中で彼はこの謡を口ずさむのだ。
この謡を聞いた時、そんな情景を思い浮かべた。

このアルーダ山の中腹では、1970年代に紀元前4千年紀末の神殿が発見され、非常なセンセーションを巻き起こした。少し下流のハッブーバ・カビーラなどの遺跡の発見とも相まって、メソポタミアの初期都市文明との密接な関連が証明され、ユーフラテス川を仲介とした、現在のトルコにまで広がる壮大な古代の交易ネットワークの存在が世に知らしめられたのである。

しかしその後、アルーダ山の上流と下流に二つの大きな多目的ダム(タブカ・ダムとティシュリーン・ダム)が建設され、ユーフラテス川はせき止められ、ダム湖が多くの遺跡を呑み込んだ。ひとりアルーダ山は高所であることから水没を免れ、静かな湖面に昔ながらの威容を映していた。

シリアの内戦は、しかし、このような静寂とした遠隔の地にも及んでいる。

数週間前に、自由軍がこれら二つのダムを制圧したというニュースが流れた。アルーダの近く、ハフサの町でも半年以上まえから衝突が断続的起こっていると聞いている。甥っ子のハムドゥーは、一昨日、メンベジ市の遺跡の番人が、爆撃の激しさに伴う遺跡の危機を訴えにアレッポに来た、と言っていた。ダムは多くの遺跡を呑み込んだが、一連の争乱は、この地域を丸ごと呑み込もうとしているようだ。

そんな折、FBで、妻を残して戦闘に参加している若者の写真メッセージを見つけた。目だけを出して、クーフィーヤを巻いた若者は、「あなたはこの目を見れば僕が誰だかわかるはず。他の誰にもわからなくても。」と妻に語りかける。

彼のこの語りかけに、ふと、あのアルーダの古謡を思い出した。

2013-02-09

夫への手紙

ハミードさん、あなたが私の前から居なくなって、今日(2月8日)で1年経ちます。この1年で、アレッポの、そしてシリアの状況は、加速的に劣化しました。あなたが、シリアの暖かい思い出を全て持って行ってしまったように感じることもたまにありますが、シリアの友人からの便りを読むたびに、そんな感情とは別に、時の歯車は回り続けていることを認めないわけにはいきません。

あなたの眠るビレーラームーン村には、今誰も住んでいません。村中が激しく破壊されて、くずおれた建物の一角に自由軍がひそみ、レジスタンスを続けています。すぐ脇のザハラ地区に政府軍が陣取っていて、そこから砲撃が村に繰り返されているという事です。

ハムドゥーは今、カファル・ハムラ村に避難し、弟のフセイン一家と一緒に住んでいます。たまに危険を冒してビレーラームーン村に行く事もあるようですが、あるとき、お義父さんの家が完全に潰されたのを見た、と言っていました。村はずれの義妹のアミーナの家は、ザハラ地区に一番近い事から、かなり早いうちから村の中でも最も危険な場所だったので、勿論家族共々別の村に逃げて、今は他の義妹たちの家族と一緒に住んでいます。

マフムードも逝ってしまいましたが、あのあと、残ったあなたの兄弟、従兄弟たちは逆に連帯感を強めて、自衛活動や救援活動を継続しています。フセインは元判事の経験をもとに、現在起こっていることを、法的に追っていこうとしているようです。

私は、日本にいて、彼らの動きを垣間見るしか出来ないのですが、それぞれが自分の置かれた時空の中で、立ち止まらずに何かを探しています。歴史を学んできた私たちですが、現在シリアで起こっていることは、図らずも私たち自身が「歴史」の中に組み込まれているのだということを、肌で感じさせてくれています。それは、途方もない痛みを伴なうものではあるのですが。

こんな訳で、今はお墓にお花を捧げる事も出来ません。ハムドゥーがあなたのお墓に植えてくれたオリーブの木は、少しは大きくなったのでしょうか。早く枝葉を伸ばして、あなたの上にやさしい陰を作ってくれればいいのですが。そして、その頃には、シリアにも新しい芽が芽吹いていればいいのですが。

2013-01-29

希望

アレッポ博物館の庭には、ヒッタイト時代の「2人の有翼の精霊」のレリーフ石が「展示」されている。博物館の前庭の片隅に置かれているため、たいていの入場者は気がつかないのだが、これは20世紀前半にアレッポ城内から偶然発見されたものである。

また、収蔵庫には、同じ頃、やはり偶然にアレッポ城から見つかった、紀元前18世紀頃のものではないかと推定される楔形文字の刻まれた建物の礎石の破片が保管されている。

私がアレッポ博物館に客員研究員として入って間もない頃、当時アレッポ博物館の学芸員であった夫はこれらの資料を誇らしげに見せてくれたものだ。

そして、1990年、アレッポでの最初の正月に、夫は私を、オールドスークから少し入った、アレッポの旧市街のアカベと呼ばれる高まりにあるキーカーン・モスクに連れて行ってくれた。このモスクの壁にはヒッタイトの絵文字の刻まれた石が使われている。この石はモスク建設に伴って、周囲が掘り返された際に出土し、その意味を知られることなく、壁に埋め込まれたようである。

夫は、この古代文字の彫り込まれた石を前に、このアカベの高まりの下には、ヒッタイト時代、あるいはそれ以前の遺構が眠っていることを熱っぽく語ってくれた。アレッポ博物館にある、上記の遺物ともあわせて、アレッポの古代は、今のオールド・アレッポの城壁内や、アレッポ城そのものの下にあるのだ、と。そして、それは、我々シリア人の手で掘りたいと。

その後、1994年に夫はアレッポ城内の短い発掘を行なったが、様々な策謀の結果、翌年には発掘はドイツ隊に委ねられる事になった。夫は激しく失望した。アレッポ城こそは我々シリア人が掘るべき場所なのにと。

いずれにせよ、その後、アレッポ城からは、紀元前二千年紀の 神殿のあとが見つかり、さらに紀元前3千年期の遺構の一部も確認された。ドイツ隊の手によってではあるが、ここにアレッポの古代が見え始めたのである。

 その後、2002年に夫は大学に移り、学生たちにその思いを伝えるべく、教鞭をとり始めた。そして、 次の年の初夏だっただろうか。夫は、件のアカベのキーカーン・モスクに学生を連れて行き、私に説明してくれた以上に熱く、この高まりに埋もれているであろう古代のアレッポを学生たちに語った。

学生を教育して、基礎を十分に作って、調査をすればいい。今からだ。その思いを彼も、私も、学生も、皆がシェアしていた。施設も制度も不十分だったが、そこには希望があった。


 
そして、今年1月15日。アレッポ大学が空爆され、80人以上が死亡する事件が起きた。将来を託される学生の多くが犠牲になった。試験の初日だった。こんな内戦状態の中でも、まだ試験を受けに来る学生がいたのだ。まだ、そこには、なにがしかでも、希望を捨てない若者がいたのである。

その希望をこの空爆は無惨に 打ち砕いた。

数日後、最近アレッポ大の考古学で教えることになった友人のメッセージが入っていた。「私はハミード先生やあなたが基礎を作ってくれた考古学科で今、教えています。ありがとう。私はシリアを愛しています。だから、何があってもこの国を守って行きたい。最後の瞬間まで。」

この思いがもう一度、希望を蘇らせてくれる事を祈りつつ。 そしてこの思いに加わることを願いつつ。

















2013-01-13

戦うということ


今回のヨルダン滞在では、シリアから退避してきている数人の若者たちに出会った。その中の一人、KHは、現在ヨルダンの工学系の大学に在籍し、エンジニアを目指して勉強している。

彼はもともとシリアの大学の工学部に在籍していた。しかし、そこでも反政府デモが起こり、治安部隊との衝突が日常化する中で、勉強を続けることが不可能となり、隣国の工学系大学に入り直したのだ。

現在は、国外からシリア国内にいる難民の人道支援をボランティアとしてやっており、援助物資などの調達、国内の支援グループとの連絡などを行う。

「僕たちはやり方を間違ったのかもしれない」彼はそう切り出した。

もの静かな若者で、23歳とは思えないほど、落ち着いたしゃべり方。エンジニアというのは中東ではエリートであり、彼もそれに到達するために一種のプライドを持って勉強をしている。隣国とはいえ外国で勉強を続けることが出来るクラスの家庭の子弟でもある。

彼もシリアにいる時は、反政府デモに参加していた、という。何かが変わらなければいけない、という共通の意識のもとに他の学生とともに自然にデモを続けていた。

「デモに参加し始めた時は、学生は皆、改革を求めて、平和的にデモをやっていた。治安部隊には、最初は威嚇されたけど、とりあえず僕たちはデモを続けた。」

「だけど、デモ隊に銃が打ち込まれて、友達が死に始めた。そのとき、僕たちの一部は武器を手にとった。それは、始めは防衛のための武器だった。」

「そこまでは、良かったのかもしれない。だけど、ある時からその防衛のための武器が攻撃のための武器に変わった。そこが、大きな転換点だったようだ。」

彼は続ける。「僕たちは、間違ったのかも知れない。僕たちは、知らなかったんだ。革命のやり方を。誰にも教わらなかったし、誰も教えてくれなかった。」

「活動をしながら、政治の本もたくさん読んだ。何かがわかると思って。だけど、そんな事をしている間に、何人も、何人も死んで行った。」

「改革は出来ると信じるよ。そして、改革されないといけないと思う。だけど、今やっているようなやり方は、間違っている。5年かけても、10年かけてもいいから、少しずつやっていけば、何万人もの犠牲を出さすにすんだはずなんだ。攻撃のための武器を持ったところで僕たちは焦り、そして間違いを起こしてしまったようだ。そしてそれが、犠牲者だけではなく、膨大な数の国内外難民を生んだ一因なのかもしれない。」

「あるとき僕は、仲間に僕たちのやり方は間違っていると言った。その答えは、自分たちに不利になるようなことは言うな、というものだった。」

「なんということだ。その受け答えはどこかで聞いた事があるじゃないか。僕はそう思った。僕たちは自由を求めてデモを始めた。だけど、行き着いた先はこれか?これじゃ、今の政権のやり口と同じじゃないか。」

「僕は失望した。仲間のある者は映画のワンシーンみたいに、敵に向かって行って死ぬのをよしとしている者もいる。でも。僕は、それは無駄な死に方だと思った。それじゃ、何にも変わらせることは出来ない。それもあって、大学に入り直し、まずは避難民の支援をやることにした。」

じゃあ、もう改革にはタッチしないの、という私の愚問に、彼は答える。「僕は今も戦っているんだ。何人友達が、そして親戚が、大切な人たちが死んで行ったと思ってるんだ。彼らのためにも、改革を求めない訳がない。戦いをやめたわけでもない。」

まだ支払わねばならない代価の重みは、背負って行くしかないんだ、と言って、彼は、まっすぐに私に視線をむけ、口をつぐんだ。

この言葉は、未だに、鮮明に私の耳元に残っている。

2013-01-05

アンマンの片隅で



「私たちのほうが、男たちよりよっぽど元気があるし、強いのよ。」

ヨルダンでは、アンマンの片隅にもシリアからの避難民の人たちがたくさん住んでいる。その中には様々な理由で、母子家庭として生活せざるを得ない女性がたくさんいる。慈善団体からの支援が、とりあえずあるものの、数人の子供をそれだけで育てて行く事は困難である。

このような状況のなか、昨年の9月頃から、彼女らの収入を確保しようと、シリア人と地元の有志が寄り集まり、手工芸品製造販売のグループを作った。ホムスか ら逃れてきた「肝っ玉母さん」ウム・イスマイールが先生となって、まずは3人の女性とともにビーズ細工や、壁掛けなどの飾りものを作り始めた。この輪は次 第に広がり、今では約30人の女性が緩やかにまとまり、細々ではあるが、手工芸品を製作している。

「マーケティングに問題があるのよ。とにかく自転車操業。だけど、今彼女たちは月に平均80ディナール(約10000円)くらい稼げるようになったわ。生活費全部は賄えないけど、今にもっと稼げるようになるって、ちょっと期待してるの。旦那が居なくてもなんとかやって行かせてやらなきゃね。」

ウム・イスマイールは私の知っているシリアン・スマイルを満面に浮かべた。

「最初始めた時は、ここに逃げて来ている女性たちが、こんなに真剣になってやるとは思ってなかった。だけど、彼女らのモチベーションは日に日に高くなっている。やってる本人がびっくりしてるのよ。」

彼女らは、普通自分たちの家で暇を見つけて仕事をし、出来上がった「製品」をウム・イスマイールや、他のシリア人、地元ヨルダン人のボランティアが集め、販売する。

私 が昨日ウム・イスマイールの所を訪れた時は、近所に住んでいるという一人の女性が、5歳くらいの息子を連れて一心に針を動かしていた。「たまにこんな風に うちに来て仕事をする事もあるのよ。」と、ウム・イスマイールは言う。ご近所さんやら、親戚やらが常に行き来する、シリアでよく見かけるコミュニティーの 付き合いがここでも生きている。

「ここでの違いは、ダラアから来た人もいるし、ダマスカスからいた人も居るし・・・つまり、いろんな所から来た人がいるってことね。」

「昔はダラアだとか、ダマスカスだとかって、同じシリアでも遠い所だと思っていたけど、ここに来て、みんなシリア人なんだって、初めて感じる事が出来た。みんな一緒なんだって。」

ウム・イスマイールは、続ける。「でも、状況が少しでも収まったら、もちろんホムスに帰るわ。家?潰されたって聞いてるよ。だけど、帰ったら、私はテントでも張って住むわよ。そんな事、全然平気。自分の土地に帰って住めるんだったらね。」

帰りがけに、じゃ、また今度はシリアで会おうねと、ハグしてくれたウム・イスマイールの腕は暖かく、逞しかった。

メディアは年が明けても暗いニュースばかりを伝えるが、雑然としたアンマンの裏通りに、思わぬシリアを見つけた。

心が少し軽くなったような気がした。


2013-01-03

新年の祝砲


「普通、祝砲は空砲で、一時間もしないうちに終わる。だけど、僕たちの新年の祝砲は一日中続いている。実弾でね。」

元旦にメッセージを開けると、銃撃や砲撃の「祝砲」で明けたアレッポの新年を伝える甥っ子ハムドゥの一文があった。「夜中じゅう銃声が響いていた。僕たちは、地下のシェルターで新年を迎えたよ」

ハムドゥの村は壊滅状態で、アレッポ市内から避難してきた元判事の義弟一家と、隣村に一緒に住み始めた。この義弟の家はアレッポのハールディーエという、大きなスークのある地区にあるが、スーク自体は、今、店はほとんどしまっており、昔の面影は、全く失せているらしい。

ただ、「みんな一緒に居るから、何となく少しだけ、安心な気がする。そんな新年だよ。」とハムドゥは続ける。

アレッポに残るクリスチャンの友人は、元旦の夕方に、「新年おめでとう。今、一人でアラクを飲んでいる」とメッセージをよこしてくれた。彼の家族は、全て東欧のある国に縁者を頼って逃れており、彼も春には家族に合流する予定だと聞いている。「一緒に飲みたいな」と返事をすると、「今はだめさ」とのタイピングを最後にオンラインから消えた。

国外に避難している友人は、「夢は大きすぎて、神様だけが実現できるもの。私たちは最良の状況を願うけど、最悪の状況への準備もしているわ。」という新年を祝う言葉を含まない「抱負」を告げて来た。

唯一の救いは、先頃修士論文を書き上げたAの受け入れの可能性を告げる、イタリアのある大学の友人のメッセージである。

今のシリア人にとって、新年は、昨日の次の日に過ぎない、と知ってはいても、一筋の希望を捨てずに彼らに寄り添いたい。そんな事を思いながら、アンマンでの一人の正月を過ごしている。