2013-07-09

包囲




アレッポとイドリブに住む教え子たちが、自分たちの住む地区での包囲のニュースを伝えて来た。



彼らは、砲撃にさらされることを恐れて、数ヶ月前から政府軍制圧下の地区に移り住んでいる。政府軍制圧地域だと、検問が道の至る所にあるものの、少なくとも空爆や砲撃は来ない。



これらの地域で、彼らは親戚の家や知人の家を間借りし、また国外などに移住して空き家になっている場合は、家の管理も含めてそこに住んだりしている。



しかし、この数週間、これらの地区は政府軍制圧下ということで、自由シリア軍に包囲を受け始めた。中に住んでいる人々は様々で、勿論反体制派の人、自由シリア軍シンパの人も多い。しかし、そんな事とは関係なく、『作戦』として包囲作戦がとられている。



包囲。軍と軍との戦いの中では、あり得るオプションなのかも知れない。だがこの包囲の為に、一般の人々は身動きがとれず、また食料品、医療品などの必需品の供給路も閉鎖されてしまっている。イドリブの教え子は、まさしく「中世」の攻城戦だ、と形容する。



それらの包囲をかいくぐって闇で売られている野菜やパンは、わずか5km離れた非包囲地区の10倍にもなっているらしい。例をあげればトマトが1kg400ポンドだとか。騒乱前の価格、25ポンドとは全く比べ物にならない。しかも、供給量は雀の涙ほどもない。猛威をふるうインフレに加えて、包囲地区ではモノの価格は気違い沙汰のようである。



そんなアレッポの包囲地区に住む教え子のRを先日ようやくオンラインで捕まえたとき、彼女は開口一番、冗談を言った。「先生、アレッポで何が起こってるか教えて。きっと日本にいる先生たちの方が、私たちよりももっと状況が分かってると思うわ。だって、こっちじゃ停電でテレビも見られないし、ネットも使えないし。」



日々の食事に関しては、野菜は高過ぎて買えず、日常はとりあえず保存食で食いつないでいるという。「だけど、文字通り、本当に家に何もない人たちがいる。本当に切羽詰まっている。だから、今は物乞いをする人がものすごく多くなりました。昨日もバスの中で、横に乗っていた女の人が物乞いをしていたわ。」



彼女は続けた。「そして、悲しい話だけれど、盗みも増えているの。こんな事は、前はありえなかった。先生も知ってるでしょ?」



ホムスで支援活動を続ける娘の友人Sちゃんからも昨夜、メッセージが来た。彼女の所属する団体には、日本の人道支援団体NICCOから、今回支援金を送ってもらっている。彼女からのメッセージには、「ラマダン月に入るので、送ってもらったお金で基本的な保存食料以外に、お肉を少し買ってあげてもいいでしょうか?」とあった。



彼らは生活の中に、ほとんど選択の余地をなくしている。そして、生活は日一日と締め付けられる。そのなかで、物理的な包囲以上のものが人々の心にのしかかるのだ。
 

騒乱が起こってから三度目のシリアのラマダンは、人々を何重にも包囲しながら始まろうとしている。






2013-06-19

シリア・ポンド



この数日間のシリア人の間での最大の懸念事項は、G8でも、アメリカの武器供与でも、ヘズボラの参戦でもない。



シリアポンドの異常な値下がりである。



シリアポンドは、騒乱の始まり頃、すなわち2011年の春の段階で、1ドル=46〜47ポンドだった。昨年の2月、シリアに帰ったとき、1ドルは66〜67ポンドと格段に値下がりしていたため、びっくりしたが、これは単なる前奏曲に過ぎなかった。



今年の年明けごろ、1ドルが100ポンドになったと聞いてたまげたのを覚えているが、それ以来、さらに下がり続けていた。先月トルコに言った際に確かめた時は150ポンド前後、それが、つい一週間ほどまえ、160ポンドになった。



そして昨日(6月17日)、ついに1ドルが200ポンドになったといい、一部の噂では週末までには300ポンドにまで下がるだろうとの予測も出ているという。



それに伴う生活必需品の値上がり。特に食料の値段はじりじり値上がりしており、なんとか上げ止まっていた野菜などまでが、今また急騰しつつある。知らせてもらった値段を見てみると、改めて全ての食料で2年前の4−5倍で、さらに上がる気配をみせていると言う。



1ドルが200ポンドになったというシリア人の友人のFBへの投稿を読んで、これから予測通りに、加速的にシリア・ポンドの価値が下落したらどうなるのだろう、と思っていた矢先、夜中に娘の友人でホムスに住むSからメッセージが飛び込んで来た。



「緊急に支援が出来ませんか。今日のシリアポンドの急落だけではなく、週末までにさらに急落するという噂もあり、ラマダン月用の食料を、私たちの支援している貧しい人たちに今買っておかなければ、すぐに予定の半分の支給分すら確保があやしくなっています。お願いします。」



そうなのだ、このレートの下落は、一番貧しい人たちの生活をまさしく奪って行くのだ。



今日(6月18日)の昼すぎには早くも1ドル=225ポンドになったと、ラタキアの友人がメッセージを送って来た。あたかも足下の砂をすくわれているようではないか。



戦闘のかげで、さらに不気味に、何かが崩れつつある。


2013-06-11

ミンバル(説教壇)



Dは、ひょろりと背の高い、もの静かな学生だった。童顔で色白、考古学科にはいったものの、野外作業には僕は向かない、と自分で言っていた。



ベルギーの考古学発掘隊にシリア人学生の参加が可能になった時、クラスから何人かの学生を募った。Dは、興味はあるけど、炎天下の発掘ではきっと皆について行けないからと、早々に辞退した。



そんな「ひ弱な」彼だったが、考古学実習の授業で遺物の実測図を描せると、抜群のセンスを持っていた。他の学生が、消しゴムで消しまくって方眼紙をくしゃくしゃにしているのを横目に、彼の実測図は、線もシャープで、少しの助言だけで、すぐに間違いも直った。発掘は野外作業だけではない。彼はそれなりに使い物になるんじゃないの、と夫と話し合ったものだった。



それから数年後のある日、アレッポ博物館で彼に再会した。彼は、卒業後、数回外国発掘隊で実測図を描く仕事をしたことを、はにかみながら話してくれた。「勿論野外の作業はしないんだけど」と言う彼の女の子のような微笑みは、学生の時のままだった。



その後、彼との連絡はずっと途絶えていたが、先日、彼が、アレッポのウマイヤド・モスクに残されていたミンバル(説教壇)を、安全な場所に移動するという作業を指揮したという話を聞いた。確かに、シリアの考古遺跡保存を訴えるFBのページで、数人の人がミンバルを運ぼうとしているビデオを見た。しかし、あの作業は彼が仕組んだものだったわけなのか。モスクはミナレットが破壊された後も危険な状況にさらされていると聞いている。あのひ弱なDがそんな大胆なことを?



確かめてみようと、久しぶりに彼のFBのアカウントにメッセージを残しておいた。すると、数日後に返事があり、さらにチャットにも応じてくれた。彼の家はアレッポ旧市街の近くで、未だにそこに住んでいる数人の有志で作ったグループを中心に、旧市街の歴史的建造物などに残る古文書や文物の一部を安全な場所に保管するなど、実際的な活動をしている、という。



誰がリーダーなの?と聞くと「僕ですよ」という返事が帰って来た。「記録を残すのに、機材がないから携帯のカメラで写真を撮るだけだけど、一つ一つちゃんと記録してます。何でも記録とれって、そう教えてくれたでしょ?」



「でも、実はすごく怖いんです。だって、僕は政府の職員でもなんでもない。だから、これも反政府運動と考えられるかもしれないし、捕まってしまうかも知れない。だけど、今、大事な文化財が日々、盗まれたり、壊されたりしている。スナイパーがいたり、砲撃があったりで、地元の者じゃないと、だれもこの地区にわざわざ来ることが出来ない。ここに住んでる僕たちが守るしかないじゃないですか。僕は考古学を勉強したんだし。僕がこのグループの『学術面』のリーダー、他のメンバーはマネージメントを受け持って、ちゃんと組織を作ってやってるんですよ。」



彼の色白の優しい顔が浮かんだ。細い腕をした、あの気弱な彼が今、文字通りシリアの歴史を守っている。








2013-05-26

アトメ(シリア国内避難民キャンプ)



 今回のトルコ滞在中に、シリア国内の避難民キャンプを訪れる機会を得た。予期しなかった訪問である。



トルコのレイハンル(リーハニーヤ)の町はずれから歩いて国境を越え、シリア側で待ち受けてくれていた車でアトメ・キャンプに向かった。アトメ・キャンプは、シリア・トルコ国境添いにある、「キャンプの体裁をとる」7つのキャンプの内の一つで、その中では最も大規模なものである。ちなみにこの地域はいわゆる反政府側の「解放区」となっている。



車が「シリア」の中を走る。オリーブの畑。赤い土。刈入れが半分ほど済んだ麦畑。ひなびたモスク。1年以上離れていた感覚は不思議になかった。見慣れた風景が、自然に私の前に流れていた。



案内してくれる医師をアトメの村でピックアップするために、一旦車が止まった。「車を戸口に止めないでよ」と、家の中からおかみさんが出て来たが、私たちを見つけた途端に笑顔になり、「アハラン・ワ・サハラン(ようこそ)」と言って家の中に入って行った。しばらくして、彼女は水と、ビワ、キュウリ、さらにはクッキーまで持って出て来てくれた。キュウリの青臭い香りが、とてつもなく懐かしい。



彼女に村の状況はどう?と聞くと、アトメ村自体は近頃落ち着いているが、周辺の村では、まだ空爆もあること、彼女の親戚も沢山亡くなったという事を淡々と語ってくれた。





アトメ・キャンプは、周壁や門などがいっさいない。アトメの村をすぎて2〜3分進むと、小高い丘の上にテントが密集しているのが見えた。あそこに行き着くにはまだもう少しかかるかな、と思ったあたりで、道の両側にテントがぽつぽつ見え始めた。おや、というような私の顔を見て、案内をしてくれた医師が「もうキャンプの中に入っていますよ。」と伝えてくれた。



ヨルダンのザアタリ・キャンプの厳重な門構えを知っていたので、この唐突なキャンプの始まりは、意外であった。



UNHCRのテントもあるが、ほとんどがもっと小型の無地のテントで、中にはビニールシートを木に簡単に結わえただけのようなものもある。さらに行くと、キャンプ内のメインストリートに出た。両側にテントがあるが、その並び方は、ザアタリのように整然としたものではなく、丘に向かって不規則に密集している。テント間には、地面を掘っただけの浅い排水溝が無造作に這っている。





医師の案内で、このキャンプ唯一の医療診療所に行った。粗末なプレハブの建物で、数人の子供が診察や治療を受けていた。この中の、間口一間半ほどのスペースが薬局だが、背面にしつらえられた棚にまばらに並ぶ薬品がこのキャンプにいる35000人(5月22日現在の概数)のための薬の全てであるという。



他のキャンプと同様半数以上が子どもで、キャンプ内の衛生状態が悪いため下痢症状を訴える子どもが多く、皮膚病(リーシュマニア)も蔓延している。また婦人では、クラミジア感染症なども目立つ病気のようである。「厳しい冬をやっと越えたんですが、今度は夏が来る。この衛生状態のなかで、夏はどうなるのか。」案内の医師は途方にくれたように言う



重症者や、ひどいケガなどの場合は、以前はトルコに運ばれていたが、今はそれが難しく、アトメの村にある病院にとりあえず収容されるらしい。



「キャンプの運営資金は主に、在外のシリア人有志や、内外の慈善団体の寄付に頼っています。ヨーロッパからの支援は全くありません。国際機関とやらの援助は極めて限られている。」と、医師は吐き捨てるように言った。



キャンプに入る前に会った別の医師は、さらに辛辣に語ってくれた。「この地域は解放区だが、国際的に宙ぶらりんの状態と考えられている。その故なのか、国際社会は援助を本気で考えていない。国際機関は『人道支援』を謳っているけど、『人道支援』はどんな状況でもあるべきじゃないのか?我々にしてみたら彼らは、利害関係だけで動いているように見える。もっと率直に言えば、この状況を彼らはビジネスのネタにしているだけだ。医療に関して言えば、唯一『国境なき医師団』が実質的に、しかも無私の姿勢でやってくれている」



キャンプのとある一角では、テントとテントの間の隙間の地面に直にマットレスをしいて男の子が寝ていた。「この子は下痢が続いていて、ずっと体がだるいんだ。」と寄って来た子どもが教えてくれた。すぐ横には、木の枝にロープを巻き付けただけのブランコがあり、妹を遊ばせてやっている子どもがいる。



ブランコが揺れるたびに、木の葉の間から見える青い空が揺れる。子どもの笑い声は屈託ないように聞こえる。しかし彼らの空は今、この切り取られたような空間にしかない。


*アトメは Qatma قطمة ですが、方言の音を当てています。









2013-05-19

針と糸




亡くなった夫は、たまに熱に浮かされたように何かに夢中になる事があった。シリア刺繍の収集もその一つである。あるとき、ラッカという町に住む友人Tが、素朴な刺繍の施されたクッションカバーの数々を夫に見せてくれた。この友人がユーフラテス川沿いの村々から集めたもので、ここ50年来の作品だと言う事だった。



刺繍は、一つ一つのモチーフが奇抜であったり、とりとめがなかったりで、重厚な「伝統工芸」のイメージからはほど遠い。しかも、粗末な木綿地に、有り合わせの糸で刺し込まれているだけである。しかし、そのユーモラスで、どこか暖かいその文様は、物々しい「伝統工芸」としてではなく、シリアの片田舎のあっけらかんとしたデザイン感覚を素直に表現している。



夫は、それからTの所に行く度に、しつこいほど収集を薦め、時には彼の集めたものを借り受けてきた。しまいに、Tはそんなに気に行ったのなら、いくらでももって行けばいいと、コレクションをかなり譲ってくれた。



夫は大喜びで、アレッポ郊外のジャバル・ハス(ハス山)という地区にある村の農家にそれらを飾った。この農家は、コッバというドーム状の屋根をもつ、日乾し煉瓦で出来たシリア北西部特有のつくりで、半壊していたのを夫が「復元」し、借り受けていたものだ。



刺繍コレクションをここに「展示」してから、夫は友人や客人が来る度にこの家に連れて行き、忘れられつつある「シリアの民間の伝統文化」を熱っぽく語るのだった。



「民間の伝統文化」というものがあるとすれば、それは薄暗い博物館の奥に鎮座するものではなく、自分たちがこうやって手にとって見て、製作を続けていくことができるはずのものなんだ。そんなことが夫は言いたかったのだろう。



そんなこんなを刺繍で飾られたコッバに座って友人と語り合ったのは、まだわずか3年前のことだ。なのに今は、あの刺繍のコレクションがどうなっているのかさえ分からない。暑い時期にはコッバに開けられた小さな窓から涼しい風が吹き込んできて、無造作に壁に止められていた刺繍の布を揺らしていたっけ。



そんな光景が眼間に蘇る度、あの刺繍のことがずっと気がかりだった。



そんな折、シリア刺繍に興味をもってくれる日本人の女性YSさんに出会った。彼女は積極的にシリア刺繍の活用のために動き回り、ついに彼女のおかげで、シリア人女性に刺繍を通じて収入の道を開く活動グループを立ち上げることが出来た。また教え子のSのシリア現地でのネットワークを使い、写真に残っていた夫の刺繍コレクションからモチーフを選び、試作品も作る運びともなった。



「グループの名前は『イブラ・ワ・ハイト』(アラビア語で、「針と糸」という意味)って、どうですか。家をなくしても、難しい道具がなくても、針と糸があれば、何かができる、そんな希望を託して」とYSさんは提案してくれた。私たちの想いにぴったりのこの素朴なネーミングは、シリア人の友人たちからも、至極受けがいい。



ロシアは新たな武器をシリア政府軍に供与し、アメリカは反体制派への武器援助をほのめかす。戦闘は、仮面舞踏会のように、相手が何者かも分からぬまま続けさせられている。



しかし一方で、人々の生活への渇望を誰も止められはしない。



「針と糸」をそのための武器にしたい。手仕事の実際をシリア人の友人と調整するため、今私はトルコに向かっている。



*イブラ・ワ・ハイトに関しては
https://www.facebook.com/Iburawahaito
 



















2013-05-06

死の通過点





10日ほど前、「死の通過点」と題するビデオを友人がfbにアップしていた。http://www.youtube.com/watch?v=VNyJwVHuyCQ&feature=youtu.be



今、アレッポの町の辻々にはスナイパーが配置されており、町のブロックからブロックへと移動する時、人々はひた走って道を渡る。若者も、女性も、子供も、老人も。



最初は、人々が避難をしているところだと思った。しかし、よく見てみると、人々はナイロン袋をもったり、荷運びの車を押したりで、シリアで普通に見かけた日々の動きがそこにある。ただ、違うのは間近に響く銃声。



ある者は、「早く早く」と連れに呼びかけ、子供は荷車をほっぽり出して、安全な方向に飛び込んで行く。ある者は撃たれ、周囲は彼を建物の陰に引きずり込む。撃たれた人の様子を見ようと駆け寄り、さらに撃たれる人。弾にあたったか、道に座り込む人。



このビデオを見た次の日に、トルコの国境の町に数日前に逃れて来た友人と話す機会があった。彼はビデオに写っている地区に住んでいた。ビデオのことを話すと、彼は平然として言った。「ああ、あれ?毎日だよ。用があって町に出るときはいつもあんな感じで通りに出る。」



彼は半年以上前からパスポートを申請していた。しかし発行は遅れに遅れ、さらに旅券事務所への道は命がけだった。アレッポ大学の日本センターで日本語を勉強していたが、この数ヶ月は、何カ所かの「通過点」はクリアできるものの、大学までは「到達する」ことが出来ず、「授業はほとんどサボっちゃったよ」と笑う。



数日前、ようやく発行されたパスポートを手にしてのトルコへの入国は、かなりスムーズに行ったらしい。とにかく無事でよかったねと伝えようとしたとたん、なんと「また明日アレッポに戻るんだ」と言う。



あまりにも意外で、冗談かと思った。しかし、「向こうで家庭教師をして子供たちに英語を教えてやってたんだけど、まだ全部予定が終わってないんだ。最後まで見てやんないと」と続ける。
 

また、あの「通過点」に戻って行くのか。なぜ?



彼と彼の家族は、昨年、アレッポの中でも安全な場所を求めて移動をし続けた。しかしながら、最後に行き着いた場所は、もとの彼らの家であった。もとの彼らの地区であった。彼の家族も一旦トルコに出たが、またアレッポに戻った。



「トルコにもまた来るさ。だけど、あそこが僕たちの町なんだ。家も幸いなことに、半分潰れたけど、まだ残ってる。」



次の日、彼はアレッポに戻って行った。またあの「通過点」にさしかかり、「生」の側へ渡ることを試みているのだろう。

2013-04-29

「生活」の再開


このところ、すこし精神的に落ち込んでいた。

目にするシリアからの映像、ニュースは、ただ胸にずんと重いものばかり。そして友人たちの不遇に対して、私の動きのいかに力のないことか。



そんなとき、ベルギーにいる教え子のSと音声で話すことが出来た。



思わず、疲れているのよ、こぼしてしまった。彼は、身体的に?それとも精神的に?と聞くので、精神的に、と答えた。



彼は言った。「僕はもう、それ、通り越したよ」。と。



そして、「もう落ち込んでるヒマ、ないんだよ、先生。いっぱいやらないといけないことがある。何言ってるんだよ。」と一蹴された。



「革命は長引いている。僕はずっと支援活動をやってきたけど、支援してくれているスポンサーたちが疲弊し始めた。支援金や支援物資はまだまだ必要だけど、それ以外のことを考えないと行けない局面になってきている。人々は、まだシリアの中で生きてるんだ。」



「彼らに何か、収入の道をつけないといけない。僕は今計画を練っているんだ。ちょっとした家内工業のネットワークを作ろうと思っている。この前、この事業を一押しする資金を工面したり、その他の手続きをしようと思って、草案を作って、シリア国民連立の人たちに聞いてみたけど、彼らは政治で忙しいらしい。ちゃんと話が出来ない。」



「彼らはほっとくさ。でも、僕たちは、やるしかない。アレッポとイドリブの解放地区で、家に残っている女性の手工芸グループをいくつか作って、製品を国内、出来れば国外で売る。国内の友人と今、それで連絡を取り合っている。」



ちょうど私も友人と女性の手工芸で収入の道が開けないか、と考えていた所だった。何か出来るかもしれない。



緊急支援は必要だ。しかし、出口の見えない状況のなか、シリア国内に残っている人たちは、「生活」をしなければならない。



夫の眠る村、ビレーラームーン村では一時全ての村人が村を離れてしまっていたが、最近、少し混乱がおさまったらしく、人が再び戻ってきている、と先日久しぶりに話した甥っ子が言っていた。学校を再開しようと、今走り回っている、と。



時は止まらない。時は待ってくれない。今シリアで、人は混乱の隙間をすりぬけて、「生活」を探し求める。銃撃や砲撃の合間に埋まりかけた「生活」を掘り起こし、取り戻そうとしている。



Sは、通話の最後に、「この秋に2人目が生まれるんだ」と、少しはにかみながら伝えてくれた。

2013-04-17

モノトーン



このブログで書くべきか、どうかと迷う出来事が何度もある。昨日、届いた知らせもその一つである。

しかし、シリアの内戦を写し続ける写真家Nino Fezza の「語られなければ、ストーリーは存在しない A story doesn`t exist unless it is told」との言葉をうけ、私の受け止めたものを、やはり書かずにはいられない。

考古学科卒で、兵役にとられ、政府軍に入った若者の死を、昨日教え子の一人が伝えてきた。彼女の説明で、彼の死は、極めて奇妙な形で判明したことが分かった。

先日、自由シリア軍の者であると名乗る人物から、この若者の携帯を使って、彼の父親のもとに電話がかかってきた。この人物は、この携帯の持ち主を殺し、埋葬したと父親に告げた。父親は、どこに息子を埋めたのかと聞いたが、この人物は知らない、と答えたそうだ。

これが教え子の知る一部始終であり、それ以上のことは分からない。

若者は、政府軍にいた。そして彼を殺した人物は自由シリア軍にいた。戦闘中ではなかったようだ。だが、殺戮は行なわれた。そして、どこかに彼を埋めたあと、人物の手元に残った彼の携帯を通して、その事実が家族に伝えられたのだ。

彼女の書き送ってくれた一連のいきさつは、画面上の無機的な文字の羅列であった。文字のみを見れば悲しいまでにモノトーンなそれであった。しかし、そこには2人の生身の人間がおり、一人は、かつて私の授業を受けていた。そして、生き残った人物も、自分の手元に残された、主を失った携帯に何かを感じた。だからこそ、この人物はその事実を家族に伝えようと思ったのだ。

状況は否応なく2人を殺す者と、殺される者に分けた。それが、戦争なのだと、友人たちは言う。日本もかつて戦争を経験した。風化しつつあると言われながらも、私の世代は戦争を生身で経験した親に育てられ、未だに戦死した叔父の墓参りをする。

しかし、今、シリアでの死が、進行形の現実であるにもかかわらず、風化しかけているように感じるのは、私だけなのか。

テレビでは、ボストンマラソンの爆破事件が伝えられていた。


2013-04-10

ケイパーの木



長年の友人であり、アレッポ博物館の館長であるK氏が3週間ほど前から、家族を連れて日本に来ている。



今日、機会あって、彼とその家族に会うことが出来た。昨年の2月以来である。



挨拶もそこそこに、アレッポ博物館や遺跡の被害状況の話となった。彼は3月の来日早々、日本の西アジア考古学関係者を交えて、このテーマでプレゼンテーションを行なったが、私はあいにくパレスチナ出張中であったため、彼の発表を聞き逃した。



「博物館の現状写真はいっぱいあるから、今見ればいい」と、彼は、パソコンをたち上げてくれた。



昨年秋、郵便局前の広場(サーダッラー・ジャーブリー広場)とアミール・パレスホテルで4台の自動車爆弾が爆発して、大きな被害が出たことがある。この二つの地区に挟まれた博物館では、この時爆風で窓ガラスが壊れたり、天井がめくり上がったりと、建物に大きな被害が出た。幸いなことに、主な展示品や遺物は、昨年春の段階でさる場所に移動・保管されており、大事には至らなかったのが不幸中の幸いである。



パソコンに、遺物のとり去られた空っぽの展示ケースが映しだされる。遺物がなくても、どこにおいてあった展示ケースかは覚えている。周囲一帯、ケースや窓のガラスの破片が飛び散っている。壁のタイルもはげ落ち、窓のブラインドはめくれ上がる。



移動できなかった石像やレプリカ像がこれらの残骸の中に見える。周囲を土嚢で囲んで保護してあるが、忘れ去られた残兵のごとく、それでも何か言いたげに佇んでいる。



私の20年間の想い出は、ここにあったはずだ。まだ3歳だった娘の奈々子を連れて、毎日通った。この移動出来ずに残っている大きな壷は、当時の奈々子の背丈ほどもあったっけ。写真を見ながら、そんなことが幻影のように浮かんでは消える。



古代オリエント第二室の突き当たりにある、巨大なアッシリアのエセルハッドン記念碑のところでは、すぐ脇に砲弾が飛んできたという。幸いなことに、直撃は免れたよ、とK氏は淡々と話す。



そんな一連の写真の中に、中庭を写したものがあった。中庭には土嚢で囲まれた玄武岩製の立像が写っていたが、そのよこに、ちらと緑が見えた。



ケイパーの木である。そういえば、いつも何気なくこの木はここにあった。入り口の所にある、数点のレリーフ石の向こうに、この木はいつも見えていた。しかし、入場者はこの木の存在など気に止めることもなく、展示されている数々の「重要」な遺物を見、そして去って行った。



そして、今。文字通り荒れ果ててしまった博物館の中で、この頼りなげな木だけが、丸っぽい葉の間にうす紫の小さな花を咲かせ、青々とその存在感を示している。






2013-04-03

蜘蛛の巣



シリアの友人たちは、皆、限界に来ている。精神的にも、物質的にも。

昨日の朝、FBを開けると、教え子のAからメッセージが来ていた。彼は家族のいるイドリブのアリーハに戻れず、数ヶ月をアレッポにある親戚の家で居候として過ごしていたが、メッセージから察するに、ようやく自宅にもどったようである。

お元気ですかと、型通りの挨拶のあと、イドリブの大学で、ギリシア・ローマの考古学を教えることになったと書いてきた。紀元前3千年紀の古代エブラ文書で修論を書いた彼にしてみれば全くの専門外である。

「他の先生たちはみんな国外に逃げてしまったために、こんな教科を教えることになってしまいました」

Aは、自分の専門領域の専門家のいるイタリアへの留学を希望していたが、奨学金がとれず、今は宙ぶらりんの状態になっている。
彼は、それでも一縷の希望を持ってパスポートを更新した。しかし、有効期限は1年しか与えられなかったらしい。

「来年の4月いっぱいでパスポートの期限は切れます。僕はまだ兵役に行っていないので。」
つまり、なにも手だてがないと一年後には、政府軍に入らねばならないのだ。

彼は続ける。「先生、イタリアの留学に関してはすごく手数をかけてしまいました。本当に、本当に申し訳ありませんでした。でも先生だけが頼りだったんです」

ここまで書いたとき、彼は感情を押さえ切れなくなったようである。

「だけど、今シリアでの生活はもう不可能になり始めました。何でもいい、なにか手だてはないのでしょうか?皿洗いでも、掃除夫でも、どんなことでもして働きます。もう父の年金では、文字通り食べることもままならなくなっています。物価は去年の3倍以上になっている。近頃は、お腹がすいたままで寝ることがよくあります。先生、ごめんなさい。こんなことを書いて。でも、誰かにこの苦しみをシェアしてほしいんです。」

「外国で勉強したい。奨学金がだめならば、働きながら勉強する。世界中のどの国でもいいから、シリアから遠い所に行きたい。」

この言葉をどう捉えればいいのか?彼は意気地なしなのか?彼の言っていることは「弱音」なのか? 

この状況下、ある者は自由シリア軍に入り、ある者は国外へ避難し、あるいはそれを余儀なくされ、難民となり・・。全てが、あまりに悲惨である。

そして、さらにそこには、シリアの変わり果てた国内で、彼のように、蜘蛛の巣に絡まった獲物のように、身動きのとれなった若者たちが存在する。