2014-01-27

ジュネーブの会議


今日、ハムドーは、スイスで行なわれている会議よりも、格段に大事なことを話してくれた。



現在彼はカファル・ハムラというアレッポ西北部の村にいる。昨年のある段階までは、アレッポ市街にでることもかなりあったようだが、最近はどのくらいの頻度で行っているのか、あるいは行く事ができるのか。



ハムドーによれば、この数ヶ月来、この村の南部には政府軍が陣取り、また西側は、自由シリア軍とISISとの間の戦闘が激化しているため、非常な大回りをしなければアレッポ市内には入れないと言う。以前はカファル・ハムラからは車で街道をまっすぐ15分も走ればアレッポ市内に入れたのに、今はアレッポの北東部の外周道路を、車で約3時間かけて、町はずれにたどり着く。しかも、これは樽型爆弾や砲撃なんかがおさまっているときを見はからねばならない。



漸くアレッポ市内に入っても、以前このブログでも紹介したブスターン・カスルという地区の「死の通過点」を渡らない事には先に行けない。「今でもこの場所にはスナイパーがいて、日に2−3人の市民が撃たれて亡くなっているよ」



ブスターン・カスルからさらに町の中心部、例えばジャミリーエまで行こうとすれば―以前はこの距離を歩くことなど考えなかったが、近頃は徒歩で行くらしい―軍の検問が何カ所もある。そして、もし少しでも不審であると判断されると、有無を言わさず拘束される。



運良くジャミリーエに着いても、誰も命の保証など出来ない。政府軍の制圧下にあるこの地区は、アレッポ旧市街からの射程距離内だ。旧市街には自由シリア軍が陣取っているが、彼らは近頃大砲を備え、不定期に弾を撃ち込んで来る。



「前にも言っただろ、ロシアン・ルーレットだって。あれは冗談じゃない。」



「だけど、心配する事はない。僕が動くときは、考えに考え抜いてからだ。だから、無茶はしない。確かに状況は最悪以上だ。それはいつも言っている通りだけど、この3年間で、本当に経験を積んだし、色々学んだ。今まで、自分がこれだけ学んだり、考えたりすることが出来るなんて思わなかった。」



「わかる?ヤヨイ?シリアのこの『試み』は僕をすごく変えたし、すごく学ばせてくれた。どういう風に身を処するか、だけじゃない。政治を理論と実践で学んだし、軍事を理論と実践で学んだし、人道ってヤツも理論と実践で学んだ。」



「なんかすごく年をとった気がする。150歳くらいになったみたいに。そして周りにいる皆が、すごく単純に見えてしまう事すらある。だけど、同時に、ああ、なんていい人たちなんだろうって、今になって思えるんだ。」



「そして・・・毎日、毎日、シリアがもっと好きになっている。」



「時々、僕の村、ビレーラームーン村の自宅にこっそりと帰ってみる事がある。家に入って、ちょっと座って、家の匂いを嗅ぐんだ。」



夫の眠る墓地のすぐそばにハムドーの家はある。私も、ふと、アレッポ最後の日に行った墓地の、赤い粘った土と雨の匂いを思い出した。



「もうすぐ、この戦争は終る。僕はそう確信する。・・・だけど、その後混乱は結構続くだろう。・・いや、でもそれは困難じゃない。人はちゃんとした分別を持ち始めている。これが、たぶん解決を早める事になるはずだ。みんな、状況を良くしたいという意識をもっているから、良くなる為のどんな事にも参加していくさ。みんな、目醒めて来ているんだ。」



意外だった。最悪の事態の只中にいる彼から、こんなに静かな、しかしながら澄み切った将来への確信の言葉を聞こうとは。



人々は苦しんでいる。悲しんでいる。疲れている。しかし、そんな中でさえ、人々は学び、将来への確信をもつ。そして、「祖国シリア」を日々さらに好きになっている。



ジュネーブの会議よりも、なによりも、シリアを変えるのは、シリア人。それを、ハムドーは改めて言葉にしてくれた。




















2014-01-14

ハムドーからのアレッポ近況報告





アレッポの郊外の村に避難している甥っ子のハムドーは、今でもネットさえ使えれば、何がしかの状況を伝えて来てくれる。家のネットはほとんど使えないが、「ネットカフェ」に行けば、停電さえなければなんとか通信が可能だ。勿論、ネットカフェに行くのが、また命がけなのだが。



昨年暮れに、そのネットカフェからチャットを仕掛けて来た。



「今、僕の横にISISのメンバーのヨーロッパ人がいる。ドイツ人らしい。ヤヨイとチャットしているのを見られたらヤバいかも知れない。しかもヤヨイのFBの写真はスカーフがない。ヤバい。」

「イラクとシャームのイスラーム国」)



「今、村にいるISISはほとんどが外国人だ。え?シリア人以外のアラブ人?それは少ない。ヨーロッパ系がすごく多い。ああ、チェチェン人が一番かもしれないけど、それに限らない。ドイツ人とか、フランス人とか、そうそう、ロシア人もいる。この村にこんなに多くのヨーロッパ人が来た事ってなかったよな。妙な話だ。」



「知ってると思うけど、彼らはいわゆる解放区に来ては、それを制圧しようとする。近くにいる自由軍のある旅団の指導者も最近彼らに殺されたみたいだ。でも戦闘以外だと、結構、人助けなんかもするんだ。それはまだいい。だけど問題は・・・」



「彼らは、愚かで、とにかく狂信的なんだ。イスラームの決まりだと言って、いろんな人を拘束する。でも、その理由はほとんど言いがかりでしかない。例えば、さっきスカーフを被っていないヤヨイとチャットしたらヤバいって言っただろ。あれは冗談じゃないんだ。スカーフを被ってもいないような、そんな女性とチャットするのは彼らは罪とみなすんだ。そういうバカみたいな難癖をつける。だから村の人たちは彼らのことを、怒るというよりも、影ではバカにしてる。だけど、武器を持っているから逆らえない。何をされるかわからない。そういう意味ではすごく危険だ」



「言葉?片言のアラビア語を少し覚えていて、村の人ともたまに話してるよ。村の人も少しこんな妙な闖入者たちに慣れたといえば慣れた所もある。」



妙なことになっている。村人たちも、これらのまさしく外国人が、何をしたいのかよくわからない。ただ、彼らはこの村に陣取って、歯向かうものには銃をむける。彼らがいる所には空爆はこない、とハムドーは言う。そして、淡々と彼らの存在の奇妙さを語った。



一週間ほど前には、「村の状況は最悪。とにかく村では死体がそこら中に転がっている。異常な世界だ。危険な所にすんでいる親戚もまだいるから、僕のいるところに連れてこようと思うけど、道中が危なくてそれも出来ない。とにかく、祈っていて、それだけ」というメッセージが残っていた。



新年になっても樽型爆弾の投下は、断続的にアレッポとその周辺に続いている。



「祈っていて」というハムドーの言葉が、全てを物語っているかのようだ。












2013-12-24

ロシアン・ルーレット


また一人、友人が亡くなった。



数日前、電車のなかで、FBのメッセージ着信音が鳴った。何気なく携帯をみたら、結婚してフランスに住む友人のA からだった。



「弟のハンムーデが亡くなった。昨日は一睡も出来なかった。」



びっくりして、乗車して来る人たちの波に押されながら、入って来るメッセージの文字を追った。



「この一週間ばかり、毎日アレッポで樽型爆弾の空爆が続いている。心配はしていたけど、弟はあまり空爆の対象にならない地区に住んでいるから、大丈夫と思っていた。でも結局、彼は自宅じゃなくて、サーフール地区の勤め先の小学校でやられた。他に先生と子供たちも十人以上亡くなったようだ。」



アレッポのいわゆる「解放区」では、少しずつ学校が機能し始めた、と聞いている。Aの弟は、そんな学校の一つで最近、フランス語を教えていたらしい。私は、彼の弟には20年近く前に数回あった事があるきりだが、若干病弱であったこともあり、気弱な感じのする、もの静かな青年だったことを覚えている。



それでも数年前に結婚して、男の子が出来たと聞いていた。内戦が始まってからは、自宅が政府軍に押収されたあと、安全な場所を求めてアレッポ市内を転々としていたようだ。



「これが今のシリアなんだ、あそこじゃ、みんな、こんな目に遭ってるんだ。それはわかっている。でも、泣くのを止める事はできない。」



年末の夕方、電車はそれなりに込んでいた。混雑する電車の中で、携帯を見ながら、小さなディスプレイの文字がにじんで来るのを感じた。車窓の外は、東京のイルミネーション。でも、私の手の中には、一人の人間の不条理な死を告げるメッセージ。



その夜は、さらに甥っ子ハムドーのFBメッセージの着信音で目が醒めた。



「今日はまともに樽型爆弾が降って来た。すんでのところで、バラバラになるところだった。」「この前は雪が降ったけど、この所、アレッポは、樽型爆弾の雨が降っている。毎日がロシアン・ルーレットみたいに過ぎて行く。僕のこんな話に嫌気がさしただろ?でも、これがシリアなんだ。残念ながら。」



メディアは騒がなくなった。しかし、シリアでの殺戮は着実に進行している。

2013-12-12

雪玉



数日前の朝、ベイルートに避難しているはずの友人、アブ・アミーンがFBに「ヤヨイ、元気?今アレッポにいる。猛烈に寒い。吹雪が来るらしい。」とメッセージを送って来た。彼は家族とベイルートに逃れてから一年近く経つが、所用のため、一ヶ月ごとにアレッポに帰って来ているらしい。



「誰もいない家は、余計に寒さを感じる。だけど、僕にはまだ家がある。でも、家を追われた人たちはどうなのだろう。アレッポへの帰路で見た村々は、多くがゴーストタウンのようになっていた。ほら、ハミード先生たちと行った、ジャッブール湖畔の村だよ。覚えているだろ?あの村の人たちは、どこの寒空の下にいるんだろう。」



彼の独り言のようなメッセージは、途中で途絶えた。おそらく、停電か、ネットが切れたか。



彼が伝えてくれたとおり、昨日、今日と、シリアでは大雪となった。



シリアでは、時に雪が降る。そして雪が積もると、老いも若きも、誰彼なく町中で雪玉の投げっこを始める。ぼんやり歩いていると、どこからともなく飛んで来た雪玉にやられる。でも、誰も怒るものなどいない。嬉々としてやり返したり、逃げ回ったり。雪の日は、町中が無礼講なのだ。



雪への備えをしていない車は、スリップし、他の車とのニアミスも。ぶつけられると、それなりにもめたりはするが、でもなんとなく、雪に免じてそれほどの大きな騒ぎにはならない。



雪の日には、ほかほかと湯気のたつ暖かいサハラブ(コーンスターチでとろみをつけた甘いホットミルク)を売る道ばたの屋台は大流行りだ。ふりかけられたシナモンの香りが、熱いこの飲み物とよく合う。



陽がさしてくると雪は急速に溶けるので、人々はそれを惜しむように、雪を楽しむ。雪でべたべたになった服は、ストーブの煙突につけた物干に干し、その周りで熱い紅茶とカアケ(乾パン)を食べる。



そんなこんなが、シリアの雪の日の情景だった。



しかし、今のシリアには雪は脅威でしかない。雪が降り始めたと思われる頃に、早速フェースブックに吹雪の中に吸い込まれそうなみすぼらしいキャンプの写真がアップされた。



また、今朝は雪を被ったアレッポ城とアレッポの町の写真がアップされていた。こんな状況でも、アレッポ城は鉛色の空を背景に凛とたっている。



「破壊と、痛みと、死と、そして寒さ、にも関わらず、雪に白く覆われたアレッポはなんて綺麗なのだろう」と写真につけられたコメントは言う。



飛び交う銃弾が、再び無礼講の雪玉に変わる日を念じつつ。


















2013-12-05

刺繍糸が埋めるもの



トルコに逃れているシリア人避難民の女性たちから最初の刺繍が送られて来たのが7月9日。最初の便で送られて来た作品は、出来にばらつきがあり、非常に丹念に刺されているものもあれば、糸がうまく図案にのっていなかったり、刺し忘れの部分があったりした。



刺繍の先生をしている友人にアドバイスをもらい、細かい点を指摘したコメントを女性たちに伝えた。コーディネーターの女性は、私たちのコメントを素直に聞き、女性たちに伝えてくれた。



第一便から1ヶ月半あまり経って来た次の便は、私たちのコメントを反映して、細かい点が随分改まっていた。皆、がんばっていいものを作りたいとおもっているから、コメントがあったらどんなことでも言ってほしい。そうコーディネーターの女性は伝えてくれた。



直接指導ができないもどかしさがあるが、それでもコメントは一つずつ反映されて行った。



第四便を作成中、彼女ら独自で考案した、しかしシリアの伝統の形のモチーフを入れてもいいか、との問い合わせが試作品の写真とともに来た。可愛らしい壷をかたどったモチーフだった。一目で気に入った。そしてこの前届いた第五便には、人気のモチーフだった「モスク」をさらに彼女らがアレンジしたバージョンが入っていた。



色鮮やか、だけど、やっぱりどこかゆるキャラね、シリア人だわ、と届いた刺繍を額にはめ込みながら思った。



少しずつ進化している。それはトルコで避難生活を続けている彼女たちの感性の賜物。そして、その感性は日本にいる私たちをも動かしてくれている気がする。



しかし、支援の規模としてはまだまだ。今からまた冬が来て、暖をとるにもお金がいる。そんなことが心配で、と先日、現地のコーディネーターのMさんにもらしたら、彼女はこう言った。



「確かにそうだけど、彼女たちにとって、時間を埋めてくれるすべがあることが今は一番いいことなのよ。みて、こうやって一針ずつ空間を埋めて行く。それは時間を埋めて行く事でもある。何もしないで国のことや亡くなった人たちのことを考えるのは、ものすごくつらいことよ。しかも空虚な時間があると、悪い方にばかりものを考えてしまう。」



「彼女たちの名前を刺繍に書いたでしょ?あれがフェースブックにアップされたとき、彼女らがどんなに喜んだか、貴方は知らないでしょ。彼女らは、あれで、本当に遠くにいる日本人に、自分たちのことが知らされたんだ、って大はしゃぎだったんだから。」



「今度はグループで一番若いラギダの刺繍をアップしてやって。だって、彼女は自分の作品の番はいつくるの、ってものすごく楽しみにしてるのよ」



お金だけではないのだ。食べるものも、着るものも、中には寝る場所にも事欠くような、こんな異常な事態にあって、彼女らは喜びを見つけてくれている。



刺繍の艶やかな糸が、彼女らの微笑みをさらに増してくれますように。












2013-11-05

アレッポ近郊の村での事件



甥っ子のハムドーが国外へ出たいと画策を始めたのは、もう3ヶ月前だ。ヨーロッパに居る親戚に、如何に国外へ出て、ヨーロッパに向けて動くか、それにはどのくらいお金が要るか、と言った事を尋ね、さらに周辺のアラブ諸国に居る知人や親戚に借金を申し込み、彼なりの結論を出したかのようだった。



しかし、彼は未だにアレッポ近郊の村に居る。9月中頃、彼が漸くトルコに出る算段をしていた頃、トルコ国境の町アザーズで自由シリア軍と「イラクとシャームのイスラーム国」の激しい衝突が始まった。



ハムドーからの通信は途絶えがちになったが、それでもぽつん、ぽつんと送られて来るメッセージには「状況は非常に悪い」、「母親や妹たちの世話におわれている」といったことが書かれており、彼がまだシリアを「出られない」でいることがわかった。



しかし、何が実際起こっているのか、不明だった。



2日前、その一端がわかった。この間に、ハムドーは2回も「イラクとシャームのイスラーム国」に捕まっていたのだ。「なんとか、逃げられた。でもまた捕まる可能性がある」という。



彼の拘束の理由は、義弟と自由シリア軍の一派との関係にあるようだ。義弟はこの騒乱の数年前にアレッポ郊外の田舎に自動車学校を作った。定年後を見越しての計画だった。



のんびりとした田舎で、アレッポから30分くらいで行けるため、主人とよく気分転換と称して遊びに行ったものだ。敷地の中には、バーベキューをするのに恰好の場所もあり、友人たちとバーベキューを楽しんだこともあった。



今年の初め頃、アレッポからハレイターンという村に移り住んでいた義弟たちは、度重なる空爆でさらなる移住を決め、息子夫婦、妹夫婦などと一緒に、自動車学校に移り住む事に決めた。この村は、まだ比較的平穏だったのだ。



義弟はダマスカス高等裁判所の顧問を務めていたいわゆる名士だが、昨年離反を表明した。その後、彼の所に自由シリア軍の旅団のいくつかがコンタクトをとるようになったらしい。そのうちの一つの旅団のメンバーは自動車学校に住むようになったという。



そこに、最近とみに「勢力」を伸ばしている「イラクとシャームのイスラーム国」が目をつけた。小競り合いが始まった。そして次第に衝突は激化し、後者は数日前、数人を戦闘で失ったらしい。そこで、「復讐合戦」を始めた。



ハムドーは親戚だということで付け狙われるようになった。義弟の二組の息子夫婦と子供は、住居である学校から抜け出られずにいる。義弟はこの衝突の始まる前にトルコに短期間ということで出かけている。



これは、アレッポ近郊で起きている様々な事件の一つにしか過ぎない。そして、それはニュースでは一行にも満たない出来事なのかもしれない。



しかし、血のつながりはないとはいえ、「弟」と呼び、「甥」と呼ぶ人たちが「登場」するこの一連の事件は、私にとって外信ニュースでもなければ、テレビドラマでもない。



僅か数年前、私はあの村の静かな秋の夕暮れを楽しんでいた。しかし、今はその夕暮れから遠くにあり、ぽつねんと不条理が忍び寄るのを感じるのみである。




2013-10-19

犠牲祭(イード・アル=アドハー)



 イスラムの犠牲祭の数日前の1010日、ベルギーのSからメッセージが来た。それにはダマスカスの刺繍チームの一員である女性からの、ダマスカスのマーダミーエト・シャーム地区の惨状を訴える文が貼付けてあった。



この地区はもとから頻繁に爆撃に曝されて、町の色々な機能が麻痺している。しかし最近ではそれに加えて、食料事情が極端に悪くなりだした。理由は様々だが、爆撃や封鎖で食料補給路が断たれ、人々はなんとか保存食で食いつないでいるものの、最近は飢えで毎日のように子供が亡くなっているという。



確かに最近、報道でもガリガリに痩せた子供の写真が多く見られるようになり、またある地区では、猫の肉を食べてもよいとするファトワー(イスラム教の見解)が出されたという記事なども読んでいたところだ。



こんな中で、犠牲祭がやって来る。



上記のメッセージには、ヨーロッパに在住する彼女の友人に対して一人あたり10ユーロずつを集める事ができるか、との問いが投げかけられていた。それで約1500ドルほど集まれば、牛が一頭買える。その牛を買って犠牲祭の生け贄とし、肉を同地区になんとか搬入し、分配するという計画だ。



私がシリアで過ごした23年間には考えられなかったことだ。シリアで、子供が「飢え」で死んで行くような事態が起ころうとは。理由はどうであれ、それが現実であり、私の前にはその現場からのメッセージがある。



すぐさま、我々の支援グループのSさんに相談した。彼女は、「あの化学兵器の前後の破滅的な状況の中でさえ、我々と刺繍の仕事を続けたいと言ってくれた人たちですし、実際仕事も継続してくれています。お金は必要な時に使う物ですが、今がまさしくその必要な時だと思います。今なら10万円分送れます。大丈夫です。それでも私たちの活動はなんとか回せますよ。」と言ってくれた。



その答えを受け取るや否や、私はスカイプでスタンバイしてくれていたベルギーのSにその旨を告げた。スカイプの向こうで、Sは驚喜している。今なら犠牲祭に間に合う。



早速、送金の手続きをした。夜中の1時をまわっていた。



その数日後、イスラム世界では犠牲祭が始まった。祭りの祝辞がネット上でもかわされている。しかしそんなお祝い事とはほぼ無縁なように、ホムスの友人は、包囲されているワーアル地区には犠牲獣を地区内に入れる事すら禁止されていると伝えて来た。



ダマスカスの彼女らは、どうなったんだろう?



昨夕(17)、やはり支援の相談で東京の中心部に行った帰り道、駅近くの人ごみ中でFBメッセージの着信音が聞こえた。ベルギーのSからだ。立ち止まってメッセージを開けた。ダマスカスからのお礼のメッセージを転送してくれたものだった。



「今回の件に賛同して下さった方々に神のご加護がありますように。・・・このお心付けのおかげで(現地の)人たちがどんなに幸せに感じたか、計り知れないほどです。本当に有り難うございました。」



東京の雑踏の中で、シリアの想いを運んで来てくれた小さな画面上の文字に、胸が熱くなった。






2013-10-04

刺繍再び



ダマスカスでの化学兵器攻撃の後、消息を断っていたダマスカスの刺繍工房の女性たちの何人かと連絡がとれるようになった、とSから数日前にメッセージが入った。

ダマスカスで刺繍作成グループのコーディネートをしてくれている仲間から、ようやく連絡が来たのだ、と伝えるそのメッセージは、しかし、悲しい内容も含んでいた。

刺繍工房に参加していた2家族が、爆撃の犠牲になったのだ。

詳しいことが聞きたいと、Sに問い合わせた。ダマスカスでは化学兵器事件の前後は電話もネットも通じず、何より、現場に近づく事すら出来ない状況が数週間続いたが、このところ少し動き回れるようになったようなのだ。

現地の我々の刺繍プロジェクトのコーディネーターたちは、通常は人道支援活動をしている。彼らは、極めて難しい状況の中で、刺繍製作をしていた女性たち家々を回り、必死で消息を確認してくれた。

亡くなったのは、夫を失った後、子供を連れてホムスからダマスカスに「疎開」して来ていた2人の女性たちと彼女らの子供たちである。一人は4人、もう一人は5人の子供を連れての「疎開」だった。ダマスカスのバルゼ地区にいたという。子供は、何人かは助かったということだが、それを「幸い」と表現するにはあまりに残酷な現実である。

化学兵器攻撃で亡くなったの?と聞く私に、Sは、「いや、化学兵器のせいじゃないよ、だけど、あの後、『普通』の爆撃がやたら激しくなった。みんな化学兵器のことばかり声高に言うけど、実際あの直後の爆撃で亡くなったり、家を壊されたりした者が激増した。実際はあの(化学兵器)後がさらに地獄だったんだ。」と憤りを隠さない。

せめて遺作の刺繍はないものだろうか、という私の「淡い」期待は、Sの言葉で遮られた。「彼女らの家は、めちゃめちゃに壊れたんだ。刺繍もなにもありゃしない」

「刺繍のプロジェクトが始まったとき、彼女らはすごく喜んでいた。少なくとも、手を動かすことで、ちょっとでもお金がはいる。それでなんとか食べて行けるようになるかもしれないって、希望を持ち始めた矢先じゃないか。そんなささやかな望みを、なんでぶち壊すんだ。」

Sの声が、少し途切れた。会話を続ける言葉が見つからなかった。

「でも、先生」しばらく間をおいて、Sが口を開いた。

「他の女性たちで消息の分かったものも結構いる。しかも、なんと刺繍も一部、集めてくれている。100枚以上できてたうちの26枚だけだけどね。特注の大型の壁掛けもその中に入ってる。もうベイルートに運んでるはずだ。彼女らも、まだ、あきらめてないよ。だから、また注文してくれるでしょ?」

そう。刺繍は残っている。彼女らは、続けようとしてくれている。我々の武器は針と糸。

ベイルートからの便が無事に着きますように。













2013-09-15

逡巡



 「僕の帰りが遅いと、おふくろは僕が死んだと思うらしい。家に入ったら泣いているおふくろがいる。そして、『死んだかと思った』と繰り返すんだ。」



甥っ子のハムドゥーは、昨夜のチャットで、そんな事を言って来た。



彼とその家族が、自分たちの村、ビレーラームーン村を離れたのは、もう随分前になる。村には、一時人が戻りかけたようだったが、結局、各勢力の狭間のような位置にあるため、住める状態にはなり得なかった。戦闘は続いている。化学兵器騒動とは関係なく、戦闘や空爆はまた激しさを増しているらしい。



彼は今でも村にある自宅に残っているモノをとりに行ったり、村の基地にいる友人のところに行ったりを繰り返しているが、近頃、危険は度合いを増している。ネットも自由シリア軍の拠点に行った時しか使えないようだ。



「ほんとなんだ。ほんと危険なんだ。危険なんだ。一日のうち、半分以上は危険な目に会っている」今までは、「まあ、大丈夫だよ」と言い続けて来たハムドゥーだったが、「今日は正直に言う」と伝えて来た。



「だから、・・・・ぼくもシリアを出ようと真剣に考えはじめた。ヨーロッパに出たMSとも話した。彼と同じような形でシリアを出る計画をしている。彼もいるし、死んだマフムードおじさんの息子Hもいる」



MSと同じ形。つまり、密出入国である。MSHもヨーロッパに出はしたが、一人は政治亡命を申請中、もう一人は8ヶ月経って、ようやく居住証が出たとは言っていたが、両人ともキャンプ暮らしである。国も違う。



MSの出国時の話は、私も直接話を聞いているから知っている。地獄の逃避行だ。しかも、それなりの大金がいる。密入国差配人に渡す金だ。失敗したからといって帰って来る金ではない。しかも金銭を持っているが故に危険な目に会う可能性が高い。

MSは言っていた。うまく行かずに連れ戻されるもの、途中の町で身動きがとれず、身元を証明するものを持たないまま外国に留まらざるを得ないケースも多い。後者のなかは、最終的に所持金がなくなり、麻薬取り引きなどの道に入らざるを得なくなる輩も多いと聞く。



ハムドゥーは続ける。「僕の家では僕が唯一の息子だから、おふくろは反対するかと思った。知ってるだろ、おふくろはどんな性格かって。だけど、この前おふくろは言ったんだ。『何処へでも好きな所へ行けばいい。ここにいないほうがいい。』ってね。それでもうすでに何人かに借金を申し込んだりしているんだ。」



ハムドゥーは、訝る私のメッセージを無視するかのように、何ものかに憑かれたように彼の逃亡計画を書き送り続ける。しかし、行間にまだ100パーセント決めることが出来ずにいることが伺える。



そして、気をつけてとしか言えない私に、「なんとかする」との返事し、その躊躇を打ち消すように、ネット上から消えてしまった。



昨夜は、ちょうど折も折、私も上記の甥っ子Hと話をしたばかりだった。彼は「居住証をもらったあとはパスポートの申請も出来る。そうなったら、いざとなれば、国外への移動も可能なんだ。」と言っていた。



「・・・但し、シリアへの帰国以外はね」と。
















2013-09-08

軍事介入



アメリカの軍事介入を巡って、世界が急に喧しくなって来た。



8月21日の化学兵器の攻撃のあと、ネット上のビデオは、化学兵器で、生きているようなあどけない表情をして死んで行った子供たちの遺体を次々と映しだした。



子供たちだけではない。あそこでまともにガスを食らった人は、どんな屈強な若者でも死んでしまったのだ。



なのに、世界はまだ、誰が化学兵器を使ったか、誰が死んだか、誰がどう苦しんだか、誰が嘘をついているのかだけを取り沙汰する。



でも、それは別に驚く事でも何でもない。今までも同じだったのだ。朝食の用意が出来ていた普通の家庭の朝が、いきなりの空襲で廃墟のそれになっても、だれも話題にしない。



そして、一連の戦闘のなかで、猟奇的な出来事だけが取り上げられ、それが全てを物語るかのように解釈される。





「化学兵器」の事件のあと、アレッポで、イドリブで、ダマスカス近郊で空爆はさらに激化している。つい数日前トルコのレイハンルにいる友人の親戚がイドリブから出て来て、アリーハとサラーケブ(いずれもイドリブ県の町)で激しい戦闘になっていると伝えていた。



アレッポの友人は、もう10日ほどネット上に現れない。ダマスカスの刺繍工房の指揮をとってくれていた女性も、「女性たちの消息がわからない」というメッセージを最後に、彼女自体の消息が分からなくなっている。



ニュースは、アメリカで、そしてヨーロッパの街頭で、軍事介入の反対を叫ぶ人たちを映しだす。



それを見ながら、いつか夫が教えてくれたエブラ文書(紀元前3千年紀)の一節を思い出した。エブラ王のもとに使者が来た。その使者は、ほど遠からぬ国が、戦闘準備をしていることを王に伝えた。使者は王に言う。早くこちらも準備をしなくてはいけません。「アルヘシュ、アルヘシュ(エブラ語で、『早く、早く』)」と使者は呼びかける。夫は喉音をきかせて、この「アルヘシュ」を繰り返した。



あの時。夫には今が見えていたのだろうか。