2015-05-10

タンポポの綿毛


「メンバーの数人が、シリアに戻ってしまったの。トルコでは家賃だの何だのと、出費が多すぎるから仕方ないのだけど。」

数ヶ月前に、トルコで「イブラ・ワ・ハイト」のコーディネーターをしてくれているMさんは、そう伝えてきた。

「日本での販路も少しずつ開けているのだから、他にメンバーを募っているけど、でもシリアに帰っていった人たちのことが心配だわ。シリアに帰っても、みな当てがある訳じゃない。しかも、いろいろな地方に散り散りになるから、接触を続けていくのはかなり難しいし・・。」

「イブラ・ワ・ハイト」で刺繍製品を作り始めて、もう少しで2年になる。この2年の間に女性たちのスキルは、驚くほど上がり、彼女らもそれを喜んでいた。単に収入だけではなく、技術も身についたと。そして精神的にも少し落ち着いたと。

しかし、収入の足しにはなるが、それで一家が食べていくにはまだまだ厳しい状況の中、一部の女性たちは、危険なシリアに戻って行くという選択を迫られている。

もしシリアに戻っても、手だてがあるなら刺繍を続けてほしい。刺繍を作って、トルコに送ることはできなくもない、送金もなんとかなるはず。そう思いつつも、目の前には、気の遠くなるような厳しい現実がある。

そんなとき、Mさんが嬉しいニュースを伝えて来た。小さな「くるみボタン」用の刺繍材料一式を持ってシリアのイドリブに戻ったウム・イマーンが、刺繍を完成させて、人づてでトルコまで送ってくれたという。

「彼女がシリアに帰るとき、刺繍を続けたいと言っていたので、材料を持たせたの。でも本当に出来るかどうかは不安だった。でも、やってくれた。良かった!150枚も送ってきてくれたのよ。もし今度シリアに帰る人があっても、出来るものなら、こんな感じで続けることが出来るように算段をしたいわ。」

それが私たちの願いでもある。「針と糸」さえあれば、どこでも出来る仕事。それが基本。だから、タンポポの綿毛が飛びさり、思いもかけない地で花を咲かせるように、この技術もどこかに移動し、そこで小さな花が咲けばいい。そして、その花の種子がまた別の所に飛び、また花を咲かせればいい。

ウム・イマーンの一連のニュースは、厳しいシリア人たちの状況を私たちに改めて知らせてくれたが、と同時に、雑草のようにたくましい彼女の意志が、逆に日本にいる私たちの願いを再確認させてくれた。

そんな矢先、イドリブの町を反政府側が制圧したとのニュースが流れた。しかもその直後から、イドリブの町や周辺に、政府軍側が空爆を激化させた。「解放」を聞いて町に戻って来た人々は、またしてもイドリブの町から逃げざるを得なくなった。

やっと自分の家に戻ったウム・イマーンも、他の人たちと同様、イドリブの町を離れた。周辺の村に避難したらしいというが、彼女の消息はそれ以降途絶えている。

タンポポの綿毛は、今、どこをさまよっているのだろうか。

追記
MさんにはZさんという娘がいる。彼女はジャーナリストで、シリアとトルコを常に行き来している。彼女は「今度またイドリブに行くから、彼女の行方はそのときに調べるわ」と言ってくれている。
またウム・イマーンの製作した150枚の刺繍は、今月末に私たちの元に届く予定である。





2015-03-09

スレイマン・シャーの廟



「あのニュースを聞いた時、一番最初に思い出したのはあなた達よ。」

2月22日、シリアにあるトルコの飛び地であるスレイマン・シャーの廟のトルコ人警備兵を避難させるために、トルコが電撃作戦を行なった。このニュースが流れた数日後に、フランスに避難しているシリア人の友人Sさんが、スカイプで話しかけきてくれた。

この作戦のことは日本ではあまり話題にならなかったが、この地域でかつて発掘をしていた私としては、人ごとならぬニュースであった。オスマン朝の開祖オスマン1世の祖父、スレイマン・シャーの廟は、ユーフラテス川にかかるカラ・コザック橋を南から渡ったすぐの所にある。橋を渡るたびに、トルコ国旗が水辺の廟の横にはためき、警備兵らしき人影が見えることもあった。

「ここだけはトルコ領なんだ」と、シリアでの発掘初日、アレッポから遺跡のある村へ行くバスに揺られながらユーフラテス川にさしかかった時、主人が廟の方を指差しながら教えてくれた。1989年の7月初頭だった。その後、一度だけ中に入れてもらったこともある。どのような手続きをしたかは忘れてしまったが、それほど面倒なこともなく、入らせてもらったように記憶している。

元々この廟はさらに下流のジャアバル城の近くにあったのだが、1973年のタブカダム建設でその地点が水没することになり、上流のカラ・コザック村の近くの現在の場所に移築された。その後、90年代後半、ティシュリーン・ダム建設の際も水没が危ぶまれ、さらなる代替地を探した時期もあったが、最終的にダム湖の水位がこの廟にはすれすれで届かないということがわかり、そのまま現在の場所に残ることになった。

この廟の対面のカラ・コザック村にはテル(遺丘)があり、スペイン隊が紀元前3千年紀の遺構を掘り出し、ほんの少し川をさかのぼったジャアデ・ムガーラでは、フランス隊が新石器時代の遺跡を調査していた。

その後、ダムが完成して、多くの遺跡が調査をされないままに水の底に沈んだ。私達の掘っていたテル・アバルも上層を残して水に沈んだが、その近くで、一部発掘を手がけていたテル・コムロックは、島のように残った。

その後、「島」になった遺丘の周辺で、発掘当時のワーカーだった考古学の大好きなアフマド・ムスタファが自分の牛を数頭放牧し始め、崩れかけた私たちの日乾し煉瓦の家を修繕して休憩場所にした。そして、私たちは、時々、その想い出の場所に出かけ、今となっては汀になってしまった場所を散策した。そこではダムの水で土が洗い流され、発掘の時には掘り当てられなかった遺物が散らばっていた。

この島に、ある春の一日、Sたちと行ったことがある。主人は、道々得意になって遺跡や地域の歴史を話した。Sさんも、彼女の夫Nさんも、汀に転がっている遺物を見たり、その年代を尋ねたりして、すごく興奮してくれた。皆、あの汀で子供のようにはしゃいだ。

「私は手術をほっておいてでも、もっとあなた達と一緒に遺跡に行けば良かった、なんて今になって思ったりする事があるわ。ハミードさんの話も、もっと聞いておけば良かった。」女医であるSさんは、あの頃本当にいつも忙しかった。

「あなたたちのお陰で、あのカラ・コザック橋を渡ったら何があるかを知る事ができた。あなた達がもっと遠くのテル・タモル(ハッサケの近く)のあたりで発掘していた時も行っておけば良かったわ。今、ニュースでテル・タモルの名前を聞くと、あなた達を思い出す。あなた達のお陰で、あの地域も私には縁のない田舎町ではなくなった。あなた達を通して、シリアを知ったと思う事もあるわ。」

    過分の思い入れで、気恥ずかしくなってしまったが、それでもそういう風に行ってくれる友人の言葉が心から嬉しかった。と同時に、それらの地域の名前を聞くのは、戦闘の場としての報道の中となってしまった、そのことが、特にシリア人である彼女にとっていかに残酷なことであるかを、痛いほど感じた。


    遺跡破壊に関しては、ISILが最近派手に「やり始めた」ために、再び注目を集め始めている。しかし、それに限らずこの4年のシリアの騒乱の中で、文化財への侵害は継続してきている。

    掘り起こしたシリアの歴史は、私達の感傷とともに、記憶の中に埋め戻すべきものではない。世界に散らばってしまったシリア人の手に、取り戻す術を、今こそ考えなければならない。
    





2015-02-18

メンビジ周辺



しばらくブログが書けなかった。



ブログが書けずにいる間、シリアは再び、メディアで盛んに取り上げられることになった。

「イスラム国」をめぐる様々な報道、日本人の人質方々のかの地での不条理な死。特に後藤さんは個人的にもお会いし、お話したこともあり、彼の「殺害」という事実は胸にずしんと重い。

こんな中で、最近投稿された「イスラム国」に「拘束」されているJohn Cantlieアレッポ周辺のレポート映像は、私の想い出と重なり、極めて奇異な感情を呼び起こした。

このレポート映像の主な舞台はメンビジの町とその周辺で、ユーフラテス川流域で発掘をしていた頃からのなじみの地域である。その頃からメンビジはこの地方の中心の町ではあったが、1990年代はまだ鄙びた田舎町で、人口も20万人いくかいかないか、だったように記憶している。ちなみに2010年頃には人口は60万人近くに増えていたはずだ。

メンビジの周囲には半農半牧畜の村々が散らばっている。メンビジのスークは、それらの村々から持ち込まれた野菜や乳製品、肉類であふれていた。スークは売り手、買い手共に活気に満ちている。赤白の格子のジュムダーナ(被り物)の男性たちの中で、女性の羽織る黒地に金糸の縫い取りのある上着がキラキラ光る。

1990年代は、シリアでは先のタブカ・ダムに続き、ティシュリーン・ダムが建設予定で、それに先だって水没地域の緊急発掘のために日本を含む各国から発掘隊がこの地域に来ており、彼等も普通はこの町で買い出しをしていた。

私は夫の「指揮」するシリア隊に参加し、トルコ国境のジェラブルスに近いテル・アバルの村で発掘をしており、1989年から5年間は、毎年春から夏にかけて集中的にこの地域を行き来した。

発掘の合間に、各国隊の現場を訪ね、時にピクニックと称して、今回の映像にも映っているナジュム城にも頻繁に訪れた。お城の番人のアブ・ジャーセムは、いつもお城のふもとにある彼の家に招いてくれた。

外は灼熱なのに、中はひんやりとした日干し煉瓦の質素な家。そこでふるまわれる焼きたてのホブズ・サージュ(ペラペラのパン)、手作りのヨーグルト、菜園からもぎ立ての野菜、黄色も鮮やかな卵焼き、そしてなによりもアブ・ジャーセムとそのおかみさんの暖かい笑顔。

私たちが座っていると、他にも、どこからか数人の男性がやって来ていて、夫は得意の弁舌で、今掘っている遺跡の話や、外国隊の噂話などをする。

映像を見ながらそんな想い出が一瞬呼び起こされたが、その同じ場所に今映しだされているのは、武装した男の姿である。それは私の知っているあの地域の風景のなかにある人々とは、全く異質のものである。

銃を持ち、黒い巻物を頭に巻いた男たちは、この地域の、そしてこの町の風景の中で、極めて奇妙なものに感じられる。間違った舞台に配置されている役者のような、そんな違和感を感じる。

ダム湖は、ユーフラテス川の流域に営まれていた歴史の足跡を飲み込んだ後も、あくまでも青く、美しい水をたたえ、その存在が永遠のものであるかのような錯覚を起こさせる。しかし、ダムは水を堰止めるが、川の流れを全て堰止めること事は出来ない。

今、人々を重苦しく堰止めているものも、いつかはその下に流れている力によって、流れ出す日が来るはずだ。それを期待するにはあまりにも過酷な日々がシリアに流れているが、それでも、その日を願わずにはいられない。

そんな事を思いながら、今年も夫の命日を迎えた。































2014-11-23

雨上がりの空



ハッブーバの村に、冬の訪れを告げる雨が降ったらしい。

午後に2時間ほど激しく降ったあと、やけに美しい夕暮れがやって来た、とTが写真を送ってきてくれた。





以前にも書いたが、この村はイスラーム国制圧下にある。普通学校は閉鎖されたまま。その代わりにイスラームの宗教学校を開くと通知があったらしいが、数ヶ月が経った今も、それは実現されていない。



かつては市のたつ町だった近くのハフサが空爆に曝されるようになってから、比較的安全なハッブーバがそれに取って代わっていたようだが、今はイスラーム国が全ての流通を取り締まり、勝手な商売は出来なくなっている。



そして数週間前には、村で初めて、村の若者の一人が斬首刑にかけられた。政権側の軍部隊にパンを届けた為だという。



村の広場で、公開で行なわれたこの処刑のあと、村全体が激しい悲しみに包まれた。村の長老たちまでもが泣き入ったという。



もし政権側、反政権側という言い方が今でも可能ならば、この村は後者である。そしてこの若者は政権側に「塩を送った」という「罪」を犯した。



しかし、この処刑に対する村人の嫌悪感は、「政権側、反政権側」というあまりにも単純な図式とは、ほど遠いところにあり、その後どんよりとした黒い雲のように村を覆っている。



我々「イブラ・ワ・ハイト」の活動に参加して、刺繍を作り、日本に送りたいと言っていた女性たちも、それ以来、激しい恐怖に襲われている。 

Tも「やっぱり、今は無理だわ」と言う。



我々の間にある、刺繍糸は我々を繫いでくれる、という共通の認識は変わらないが、今はそれさえも、心の中にしまっておくしかない。



Tの送ってきた写真には、「外には、近所の子供のはしゃぐ声も聞こえる。レモンをそえたお茶を入れてみた。こんな風に終える一日は、悪くないわ」というメッセージが添えられていた。



この雨上がりの写真は、何かを超越した色あいの空を映している。でも私には、それがあまりにも儚げに見えて仕方がない。








2014-11-18

答えのない問い



ついにハムドーがシリアを出た。ヨーロッパに出て、そこで難民申請をするらしい。



1週間程前にトルコにやっとの思いで出て来た。メルシンに行き、そこで悪名高い密航業者の内の一人に会ったという。「彼はイタリア行きの船に乗るのに、一人頭6500ドル(70万円程度)を要求してきた。」とハムドーは言う。私もこのくらいか、あるいはそれより高いくらいが相場だと聞いていた。



6500ドルは、法外に高い。しかも、彼らのところに来るようなシリア人は、シリアで生活が出来なくなり、やむなく外国に逃げようとしている人たちなのだ。しかし、なんとか新天地を見出したいシリア人の多くが、全財産をかき集めて、このような船に乗る。



しかし、こういった密航業者はヨーロッパ行きの船にシリア人を「乗せる」手配をしてはいるが、無事に目的地に着くかどうかは、彼らの知った事ではない。



定員の10倍もの人々を乗せた船が転覆したりするニュースが時折報じられる。命の保障はどこにもない。しかし、他に選択の余地のない人々が、運を天に任せて、この悪魔の船の船賃を払う。



「勿論べらぼうに高いし、中にはイタリア行きとか言っておきながら、シリアのタルトゥースに連れ戻すような罠にかけられる場合もあるらしい。しかも、奴ら差配人の風体は、いかにも胡散臭かった。心底やばいって感じた。だから、あの船はやめた。」とハムドーは、言った。



ハムドーはちゃんとパスポートも持っている。ただ、ヨーロッパに正式に入るためのビザをとる様々な要件に欠ける。最終的にアルジェリアまで空路で行き、そこから陸路モロッコに抜け、そしてスペインに渡るルートをとる事にしたようだ。しかし、モロッコからスペインは、やはり海路だ。危険は、やはり最後まで付いて回る。しかし、もうそれしかない、と彼はハラをくくっているようだ。



父母と妹たちを、アレッポ近郊のカファル・ハムラ村に残してまで、ハムドーがここでどうしてもシリアを出ようと思ったのには、訳がある。



彼は反政府集団のメンバーの多いビレーラームーン村の出身だが、この村の出身者が近頃ことあるごとに、無差別に政府側の治安関係機関に拘束されているという。拘束されたら、ほとんどが帰ってこない。



また、彼は修士論文でアレッポ近郊にあるローマ時代の水路に関してとりあげたが、その水路の位置情報を治安情報部がほしがっていると、博物館の職員に言われたという。



「なんでも、こういった古代の水路に武装集団が潜んでいるってことだ。治安関係機関は水路を突き止めて、吹き飛ばしたいらしい。」



「僕は僕の論文がそんな事に使われたくないけど、もし無視したら絶対捕まる。捕まったら、絶対帰って来れない。近頃は、前にも増して、聞き込みも讒言の類いも多くなっているが、聞き込み無視をしたら、そいつはテロリストの一派だということになるらしい。テロリストというのは便利な呼び名だよ。この言葉さえ唱えたら誰も何も言えない。」
 



「家を出る時、お袋が、もう帰って来ないのか、と聞いた。何と答えていいのか、わからなかった」



事の経緯を淡々と話していたハムドーの声が、受話器の向こうで、かすれた。




2014-10-25

刺繍の映しだすもの



「針と糸さえあれば、何か出来るだろう」、「手仕事をしていれば、悲しい状況を、一瞬でも忘れる事が出来るだろう」・・・私たち「イブラ・ワ・ハイト」の活動は、極めて素朴なところから始まった。



最初に参加しようと言ってくれたシリア人女性たちのうち、トルコに避難している人たちは、毛糸編みくらいならばやった事があるといった人たちで、最初に送られて来た刺繍には、コメントが山ほどつけられた。



しかし、あれから1年と少しが経ち、彼女等の刺繍技術は素晴らしく向上した。このレベルに達したのであれば次のステップに踏み込んでみようと、7月には恐る恐る、オーガンジーへの刺繍を頼んだ。出来上がってきたのは、裏表の見分けがつかないくらい丁寧に刺した、可憐な作品だった。



技術的な上達もさることながら、伝統柄に彼女らの個性を盛り込んだり、自分なりの創作を楽しんでいるのが、布に刺し込まれた糸の輝きから読み取れる。彼女らのオリジナルモチーフである「花の咲いた枝にとまる小鳥」は、今にも歌を歌い出しそうだ。



自国外での厳しい避難生活を送る彼女らの手で作られたものが、逆に私たちを幸せな気分にしてくれる。



一方、シリア国内のダマスカス近郊でも「イブラ・ワ・ハイト」に参加している女性たちがいる。昨年8月下旬、化学兵器攻撃の前後の爆撃で、メンバーの女性が2人亡くなったことは、以前このブログでも報告したことがある。



しかしそれ以降も、国外難民以上に厳しい環境にありながら、不定期にではあるが作品を送り続けて来てくれている。”No news is good news” というのは、彼女らにはあてはまらない。刺繍というメッセージだけが、彼女らが無事な証拠である。



彼女たちからの初めての作品は、昨年7月に届いた。シリア伝統刺繍にある、古代神話起源かと思われる女神のモチーフを「発注」したところ、原画よりも可愛らしい顔の「女神様」になってやって来た。原画のようなアルカイック・スマイルではなく、現代のシリア女性のもつ、ほっとする、優しい笑顔で「女神様」は微笑んでいた。この笑顔の「女神様」は、今年の初頭に届いた便にも入っていた。中には、おどけた笑顔の「女神様」もいた。



ところが、今年春以降にやって来た「女神様」からは、その笑顔が消えていた。微笑もうと無理をしているような、そんな表情に見えた。私の思い過ごしか?しかし、グループメンバーも皆、同じ感想を抱いた。



「その時の気持ちが、糸使いの隅々に出るものなんですよ」ある展示会に作品を出した時、日本の服飾製作関係の方も言っておられたという。



昨日、ダマスカスチームのコーディネーターをしているSにその事を伝えると、「わかる?そうなんだ。国外だと、少なくとも爆弾が降ってくる事はない。だけど、ダマスカス近郊にいる彼女等の生活は、命に関わる危険と常に隣合わせ。爆弾だろうが何だろうが、降って来ない日はない。だから、凍り付いたような『女神様』の表情は、そんなところで過ごしている彼女らの表情を表してるんだ。」



「イスラム国」騒動の異様な高まりの中、シリアを取り巻く世界は、この「女神様」を微笑ます術などは眼中になく、いびつな急進化を続けるのみである。



シリアで、花咲く梢に小鳥が歌う日はまだ遠く、「女神様」は血の涙を流す。



そして厳しい冬が、四たび近づいている。



「イブラ・ワ・ハイト 」  https://www.facebook.com/Iburawahaito

2014-09-21

アレッポ−ラッカ街道の想い出



10年ほど前の9月の朝、いきなり夫が、エル=コウムへ行こうと言い出した。シリア沙漠中央部のエル=コウムには、銅石、新石器、旧石器の諸遺跡がある。

夫のいきなりの「遺跡に行こう」コールには慣れていたので、じゃあ、行くかという事になった。



エル=コウムへのルートは、アレッポから、ラッカの手前のマンスーラの町に行き、そこから南に下る。交通手段としては、アレッポのガラージュ・シャルキー(東部方面行きバス乗り場)でラッカ行きのセルビスに乗り、マンスーラで降り、そこからピックアップをつかまえて南下する。しかし、このピックアップは「普通はロータリーあたりにたむろしている」はずの代物に過ぎず、行程はそれなりに運を天に任せるものだった。



マンスーラ行きのぼろセルビスは、国道をひた走る。セルビスは椅子の数から言えば補助席も含め12人乗りだが、運転席の後ろ側の出っ張りにも3人を座らせるため、なんと運転手を含め15人が乗る。この時は私と主人の他に当時高校生だった娘も一緒だったが、すし詰めなのに、皆で外国人の私たちに「良い席」を譲ってくれた。他の乗客の多くが、ガラビーヤを着てクーフィーヤを巻いた男性で、その中の一人の妻と思しき女性も、赤ちゃんを抱いて乗っていた。女性の手は、日焼けしてごつごつしていたが、赤ちゃんにおしゃぶりを含ませる所作には、優しさがにじんでいた。



女性は、頭に東部地域に特有のスカーフを、独自なスタイルで巻いているが、ヘンナで赤茶色になった髪の毛が少しはみ出て、バスの窓から吹き込んで来る熱風に揺れている。男性も女性も、口元などに伝統の入れ墨をしている人が多い。女性は、上等なものではないが、よそ行きの風の長い上着を着ている。この上着は黒が基調で、縫い込まれたキラキラと光る金糸が、彼女のよそ行き感を示している。



窓の外を飛ぶように流れて行く景色は、乾いた麦わら色と、真夏よりは若干あせた空色の二色で塗られている。街道沿いでは、セルビスをつかまえようと、物憂げに手を上げる人を時折見かける。セルビスのカセットプレーヤーからは、こもったような音でアラブの歌謡曲が流れていた。車はマンスーラに近づいていた。



私はぼんやりと窓の外を眺めるでもなく眺めていた。その時、「ドン」という鈍い音と共に、乗客全員が前につんのめった。セルビスのフロント・ガラスが砕け散り、車は急停車した。何が起こったかは一瞬には判断がつかなかったが、皆「当たった」「バイクが当たった、なんてこった」と口々に言いながら、ぞろぞろと車からおり始めた。私たちも彼らについて車の外に出た。



出た途端、車のすぐ脇に、一人の青年が倒れているのが目に入った。そして、後方を見ると、5−6メートル先にもう一人の青年とバイクが吹っ飛んでいた。二人乗りバイクがセルビスに衝突したのだ、ということが分かった。死んでる?倒れた青年は生気がなく、黒っぽいガラビーヤが襤褸布のようになっていた。あまりにびっくりして何をしてよいやら分からないでいると、驚いた事に、2人の青年たちはほぼ同時にムックリと起き上がり、よろよろ歩き始めた。乗客の男性や、集まってきていた周辺の村人らしき人が、彼らを抱え、通りすがりのピックアップをとめて、一番近くの病院に行くようにと運転手に頼んだ。青年たちは、ピックアップに横たえられ、ピックアップは乾いた土ぼこりを舞い上げながら去って行った。



僅か数分間の出来事であったが、私にも娘にも非常に衝撃的な数分間だった。自分たちには何も被害はなかったが、倒れた青年を見た時、生死の境目にある何かを彼の体に感じ、同時に足がすくんだ。ぶつかった時の「ドン」という鈍い感触も、単なるモノのぶつかった感触とは全く違うものだった。



その後、私たちは、通りがかった別のセルビスに乗込み、既にこの事故の色々な情報を得ていた乗客の話を聞きながら、先ずはマンスーラまで行き着いた。そこで「幸運にも」ピックアップをつかまえて、エル=コウムまで行く事ができた。遺跡群は素晴らしく、発掘隊の丁寧な説明も受け、突然の遺跡行きは「成功裡」に終ったが、この旅は、私の中で、セルビスの横でぼろのように倒れていた青年の姿とずっと重なっていた。



この地域は、今、いわゆる「イスラーム国」の制圧下。あのキラキラの金糸を施した上着も、今では禁止されているはずだ。ヘンナの色の髪の毛や、入れ墨などにふと目をやるような瞬間も公衆の面前ではありえないに違いない。

そして、この地域での戦闘のニュースは、私の中で、セルビスの横で倒れていたあの青年の姿を再び呼び起こす。あの事故は、何の変哲もないある日に突然起こった災難であった。しかし、今はあの「ドン」という鈍い衝撃以上のものが日常茶飯事となり、生死の境目は、死の方へ大きく傾いている。


2014-09-01

アルーダ山の葬斂



再び、ユーフラテス川流域、ハッブーバ村周辺の話。



シリアで初めて行った遺跡は、ユーフラテス川流域のジャバル・アルーダ(アルーダ山)だったことは、以前にも書いたかも知れない。あの日、私はアルーダ山の山頂にあるアルーダ聖人の小さな祠から、中腹にある5000年前の神殿の跡を見下ろしていた。写真と図面でしか見た事のなかった神殿。時が停まったようだった。



そのさらに向こうにはユーフラテス川をせき止めたダム湖が静かに夕暮れを映していた。対岸の白っぽい石灰岩の岸壁が、夕焼けで、オレンジ色に染まっていた。風が轟々と吹いていた。



その時、私は日本を離れてまだ10日ほどしか経っていなかった。一緒に居た主人と、友人Mの話し声が聞こえて来なければ、どの空間にいるのかを見失いそうだったことを今でも覚えている。2人の話し声は、風の音に遮られながら途切れ途切れに宙を舞っていた。



その後、発掘などを通して、この地方に出かける事が多くなり、メンビジ、メスケネ、ハフサなどの町、ハッブーバの村、そしてそのほかの、点々と散らばるあけっぴろげな集落は、次第に私の日常の風景の一部になって行った。日乾し煉瓦作りの農家、乾いた褐色の土地を背景にしてもはっきり目立つ原色の服を着て農作業をしている女性たち。数百頭の羊を連れた羊飼いは、のんびりとロバに乗って羊を追う。



ここでは人々は、とびきり人なつこく、また客人を大きな笑顔で歓待する。子供たちも最初ははにかんでいるが、親にたしなめられながらも、子供なりのホスピタリティーを示すためにまとわりつく。



これらすべての町や村に、そして人々に、沢山の想い出がある。



しかし現在、この地域全てが「イスラム国」の制圧下に入っている。



夫の大親友であったM(故人)の村、ハッブーバの村落から少しはずれた所に、アレッポへユーフラテス川の水を送り出す「水供給ステーション」がある。そこにはMの弟MDが勤めていた。家はハッブーバ村のMの家のすぐわきにあり、他の親戚とともに、大家族での生活を営んでいた。



数日前、このMの9歳になる息子が銃弾を受けて、亡くなった。「イスラム国」のメンバーが、ある「喫煙者」を発砲しながら追跡していたが、その際に巻き添えを食ったというのだ。



彼を撃った「イスラム国」のメンバーは、ハッブーバから南東に30kmばかり行ったメスケネ町出身の17歳の若者だという。家族は彼を責めたが、彼は「あの喫煙者が悪いのだ」と押し切った。それ以上は誰も何も言い立てる事はできない。



この若者は、ハッブーバ地域の主要部族ではない部族出身である。「平時」ならば、各部族の長老などが出てきて事件の調停を行なうべきところであろうが、今はそのような動きも控えられているようだ。



最近、世界の目は「イスラム国」の動きに釘付けになっている。過激で、不条理な事件がメディアをにぎわせている。そして、ハッブーバのような寒村でさえも、その一部が行なわれている。



しかし、より人々を疲弊させているのは、それと併行して激化している政府軍の空爆である。空爆は、最近、この地域の主要な町、メンビジ、メスケネ、そして「大きな村」とも言うべきハフサにまで、以前より頻繁に行なわれている。



ハッブーバに住むMの娘、Tは言う、「いわゆる「テロリスト掃討」のためにね。だけど、犠牲者のほとんどは普通の人たち。確かに「イスラム国」はいるけど。最終的に、死ぬのは私たち。どっちに転んでもね。」



アルーダ山頂のアルーダ聖人の祠の周囲は墓地である。葬斂があると、遠くからでもよく見える。



今、あの山を上る葬列を、村人はどんな想いをもって見るのであろうか。


              ジャバル・アルーダ(北から)
          山頂に点のように見えるのがアルーダ聖人の祠
             2009年11月初旬、筆者撮影 

2014-07-23

ハムドーの独り言



シリアのこの状況は数年続く。



そんな予想は、昨年あたりからあった。



しかし、今年になって、そして今になって、その予想はより現実味を帯びてきている。



この中で、何かをしても、結局、何もなりはしない。



革命家を気取った奴らは、とっくの昔に国外に逃げやがった。



僕の人生はどうなるのだ。戦闘と、流れる血と、涙と、欠乏の中で過ぎて行くのか?



そう考える。



そう考えると、もうたまらないのだ。



いつでも出るぞと、なけなしのお金を使って、ヤミの出国やその他、いろいろを画策する。



でも、やはりシリアの中で人は生きている。それを僕は知っている。



出られないひと。出ても帰って来た人。出たり、入ったりを繰り返す人。出てしまい、とりあえず一息はつくものの、深い望郷の念にとらわれている人。



いずれの場合にも、気持ちの起点はシリア。



今日ここにいても、明日ここにいられるのか、明日もここにいたいと思い続けられるのか、僕にはわからない。



だけど今、僕は「とりあえず」出来る事をする。



遺跡に行って、遺跡を見回って、写真を撮って、記録する。これが僕のシリアでの最後のトライアルのような気がする。



「地域司法委員会」には僕が遺跡を監視する事について、話をつけた。



今のところ、僕の言い分を受け入れてくれている。ある意味、素朴な奴らだ。



遺跡に何かあったら、僕に連絡するようにと、近くに住んでいる人の中に、連絡係のような者も「とりあえず」見つけた。



そこには、破壊があり、不法発掘があり、偽造があり、噓偽りがあることは百も承知だ。



美しかったサン・シモン遺跡は、建物の石がバラバラにされているという噂も聞く。噂だから、本当のところはわからない。あそこは別の「地方司法委員会」の管轄だ。状況のいい時に、彼らと話をつけて行ってみるか。



僕たちは、現在を売った、将来も売っぱらった。



そして、過去さえ切り売りしている。



それでも、まだシリアの空はこんなに美しい。




















アレッポ北西部、ムシャッバク遺跡

2014年7月22
ハムドー・ハッジバクリー撮影








2014-06-29

ハッブーバの村


ハッブーバ・カビーラの村は、ユーフラテス川岸にあった。1970年代、この村からセンセーショナルな古代植民都市の跡が発見され、古代史を大きく塗り替えたことは、以前にこのブログでも少し触れたことがある。その後、ユーフラテス川をせき止めたタブカ・ダムによりこの村はダム湖の底に沈み、村人たちは付近の土地を代替地としてあてがわれ、そこに移り住むことになった。



ドイツ隊の行なったハッブーバ・カビーラの発掘の際、作業員として働いたムハンマド・ミフターハ氏は、その後ドイツ隊にかわいがられて発掘技術、考古学を独学で学び、以来2010年に56歳で急逝するまで、各国隊の現場で活躍した。



彼と初めて会ったのは、私がシリアに行って1週間経つか経たないかの6月中旬頃であった。その日、頭に赤いクーフィーヤを巻き、口元に伝統の入れ墨を入れた彼は、アレッポ博物館の学芸員室でゆっくりとお茶を飲んでいた。彼は私と当時アレッポ博物館の学芸員であった夫をハッブーバの村に招いてくれた。ハッブーバは私の研究対象の時代でもあり、ぜひとも行きたい場所であったので、二つ返事でその招待を受けた。



その1週間後、彼の住んでいる新しいハッブーバの村を訪れた。殺風景な村で、村人は皆、水没前の、ユーフラテス川にほど近い、緑の豊かなもとのハッブーバの村をなつかしんでいた。



ハッブーバ周辺はアレッポ県の中でも鄙の地であるが、70年代以来、各国隊の発掘がこの地域で盛んに行なわれたことから、村人には作業員として働いたものも多く、外国人に対してオープンな雰囲気があった。特にミフターハ家にはムハンマド氏の仕事の関係で、常にヨーロッパ人の客人が絶えなかった。



彼の奥さんは当時、6人目の子供の出産をひかえており、「日本語の名前を考えて」と冗談で言われたが、私は「水無月」にちなんで、女の子なら「ミナ」はどうかな、などと結構真面目に答えたものだった。その後、女の子が生まれTと名付けられた。彼の子供たちはみんな利発だったが、Tはその中でもさらに落ち着いた雰囲気を持つ女の子であった。



時は流れ、Tは父の影響を受け、アレッポ大学の考古学科に入った。父についてアレッポ城内の発掘や、シリア北東部の遺跡の発掘などにも参加し始めた。考古学だけでなく、父のムハンマド氏は仕事の中でドイツ語を習得していたが、娘のTも独学で英語を流暢に話すようになっていた。



「女の子でも全く構わない、ヤヨイ、また色々世話してやってくれ」自分の後継ぎを得て内心まんざらではないのが、ムハンマド氏の言葉の端々に見てとれ、私も嬉しかった。



そんな矢先、2010年秋、ムハンマド氏が、アレッポ城内遺跡での作業中に心不全を起こし、急死した。あまりにも唐突な死だった。その後、シリアでの紛争勃発後、Tは困難を乗り越えなんとか大学を卒業したと聞いたが、通信は途絶えがちになっていた。



先頃、非常に久しぶりにTとネット上でやり取りする事ができた。



彼女によると、ハッブーバの村は今、過激派のイスラーム国(ISIS)に制圧されているという。ラッカをはじめ、ユーフラテス川地域にISISが展開しているとは聞いていたが、鄙の地であるハッブーバにまでその支配が及んでいたとは・・。



Tは、いかに生活が彼らによって歪められているかの一部を説明してくれた。彼女らいわゆる大学生、大卒生グループは、紛争の進展の中で停止していた村の小学校をボランティアで再開していた。FBでその近況などがアップされる度に、僻地であるが故に、アレッポ等の都市部よりも逆に活動がうまく動くかも知れないと期待していた。



しかし、約半年前に村にやって来たISISは、学校を強制的に閉鎖した。なぜだと聞いても、これは「ハラーム」であるとの一点張りであったらしい。



村の女性たちは黒いアバーヤ(ガウン様の上着)とニカーブの着用を強要される。「隣の家に行くにも、女性のISISメンバーがいて、監視しているの」。生活の隅々までがんじがらめになっているが「まだ他の地域の惨状にくらべたらマシだわ。それにネット環境もめちゃくちゃだけど、でもこんな風に結構使える事もあるし・・。」



そして彼女はネットが使える時は必ず我々の「イブラ・ワ・ハイト」のFBページを見ていると言ってくれた。そして「私たちに何かできることはないかしら?」と聞いて来た。私は、はた、と思った。我々の刺繍はもともとユーフラテス川流域のまさしくこの地域の伝統刺繍である。彼女の村の家々でも見かけたことがある。



話すうちに、彼女も我々の刺繍が自分の地域のものであるという事を知っており、最初は村の家に残っているものを写真に撮って送ろうか?などと言っていたが、「そうだ、N姉さん、刺繍が上手なの。ああいう古いのはやった事がないけど、知り合いのおばさんとかに聞けばやり方がわかるし、私たちがやってみてもいいかしら?」と言い始めた。



勿論、それに越した事はない。私たちの活動では、民間の伝統を保っていくという側面が非常に重要な要素である。しかし彼女らが活動するには危険が伴うのではないだろうか?しかも、もし製品が出来たとしても、それを送れるのだろうか?



「不定期だけど、出来ると思う。親戚のおじさんがたまにトルコに出る事があって、その時に託けることが出来ると思う。知り合いの女の人たちは今、この状況の重苦しさの中で鬱屈しているの。勿論収入の問題もあるけど、みんな精神的にまいっている。」



彼女の村のケースは、今我々と恊働して刺繍をやってくれている他の女性グループとは、また違った困難が伴う。しかし、Tは「やってみたいの。やらせてみて。」と望みを私達に託している。



あの穏やかな、オープンな村に、力で自らの「考え」を押し付けようとする集団。



そのなかで、Tは、しなやかにそれに立ち向かおうとしている。