2015-06-19

ウム・イマーンへ


ウム・イマーン、あなたがシリアに戻ってから、もう2ヶ月近くがたちますね。
トルコの生活が厳しく、特に毎月の家賃がどの避難民の方にも重くのしかかっているということは、Mさんからいつも聞いていました。

シリアならば、とりあえず家がある。まだ親戚や知り合いもいる。そう思って、少なくとも命の危険だけはないトルコから、祖国のシリアに帰る決断をしたことは、今の状況では致し方のないことだと思います。

あなたがトルコを出る際、Mさんがあなたに刺繍道具一式を託したということを聞いていました。

そしてあなたがイドリブの自宅に戻って、予想よりも早く150個ものくるみボタン用の刺繍を仕上げ、さらにそれをMさんの所に送って来てくれたことを聞いたときは、本当に嬉しかった。

これこそ、私たちの望んでいることだったのです。針と糸さえあれば、どんな所でも出来る。私たちは、出来たものを受け取り、刺繍に縫い込まれた「シリア」を皆に届ける。

そのあなたの刺繍が、先日私たちの手元に届きました。

包みを開けると、可愛らしい色とりどりの刺繍の中に、いくつかの新しいモチーフも混じっていました。こんな状況の中でさえ、あなたは創造力を発揮している。

いつも、製作者のメッセージとして好きな言葉を添えてもらっていますが、今回、「أحبك(I love you.)」という言葉が綴られた刺繍が、なぜか気になりました。このI love youという言葉を、あなたはきっと陳腐な言葉として綴ったのではないはずです

あなたがこの言葉を刺繍したとき、誰を思って針を運んだのでしょうか?亡くなった旦那様なのか、拘束されたきりまだ帰ってこない息子さんなのか。それとも破壊された祖国の町なのか。

あなたがイドリブの町にあった自宅から、さらに空爆を避けて、郊外の村に移ったことも伝え聞いています。シリアに帰っても転々としなければならないであろうことは、予想はしていました。

こんな不安定な中で、私たちに送ってくれた刺繍、そしてI love you という言葉。雨音を聞きながら、今、これに込められた様々な意味と、痛みを感じています。

ラマダン月を、心安らかに過ごすことができますように。







2015-06-01

パルミラ・・そして、その後


パルミラは、世界でも最も美しい遺跡の一つであることに間違いはない。そして歴史的に、考古学的に如何に重要であるか、ということは私が改めて言う必要はない。世界遺産というブランドすら、パルミラには不要。パルミラそのものがあまりにも素晴らしい。

ダマスカスから2時間半ほど、砂漠の中の街道を車に揺られたあと、遥か彼方にナツメヤシの林と暖かな風合いの石灰岩の列柱が見え始める。時間の枠を自然にすり抜けたような感覚に襲われる瞬間。

パルミラには、説明のつかない至福感をもたらしてくれる何かがあった。

今回、ISがパルミラの町を制圧し、さらに遺跡をも制圧したというニュースは、世界中の危機感をかき立てた。イラクでの遺跡の大規模な破壊を受け、この危惧は極めて当然だろう。

私も、ISがパルミラに接近しているというニュースが流れた段階で、非常に動転した。あらゆるメディアで、パルミラ遺跡の危機が叫ばれた。ただ奇妙なことに、人々の殺戮に関しては、遺跡の次に報じられていたような感がある。

もし遺跡の問題がなければ、パルミラ周辺の戦闘は、他の地方での戦闘と同様に、今シリアで行われている多くの戦闘の一つとしてしか報じられなかったのだろうか?

現在、ISのパルミラ制圧のニュースの陰で、シリアでは、アレッポやイドリブをはじめとする各地で、樽爆弾や塩素爆弾などの攻撃が続いている。

一昨日は、アレッポ市内及びその近郊への空爆で、1日で150人とも言われる市民が亡くなった。その地区のうちの一つは、ファルドゥースという地区だ。この地区には、イスラム教にまつわる歴史的な参拝祠などがそこここにある。

90年代末、ここにあるオスマン朝時代のファルドゥース・モスクの修復に若干関わったことがあり、この地区を何週間かに渡って訪れたことがある。この歴史的なモスクは、貧しげな町並みの中にあるが、人々の生活に溶け込んだ存在だった。中での作業中、外では子供たちのはしゃいだ、明るい声がいつも聞こえていた。

あのとき、修復作業で埃まみれになった私たちの顔を洗うのに、近所の少年が水差しとタオルを持ってきてくれたっけ。

ここは、世界遺産に指定されたり、世界中から観光客がくる史跡でもない。だけど、街角の人々の暖かな敬愛の対象だった。「文化財」は、仰々しいお宝ではなく、人々の日々のなかに静かに、しかし確かな存在感をもってあった。

このモスクだけではない。この地区には、そこここに町の「文化財」が転がっていた。そして、普通の人々が、頓着なく「文化財」と共に暮らしていた。

空爆は、文化財というモノと、そこで共存していた人々の生活と、その両者を繋いでいた柔らかな日差しを奪い去った。

ビデオには、瓦礫の中から埃まみれ、血まみれになって助け出される子供が写しだされる。私は、かつてあの子たちがしてくれたように、その顔を拭ってあげることも出来ずにいる。

https://www.facebook.com/ShehabAgency.MainPage/videos/1077523188956767/?pnref=story




2015-05-10

タンポポの綿毛


「メンバーの数人が、シリアに戻ってしまったの。トルコでは家賃だの何だのと、出費が多すぎるから仕方ないのだけど。」

数ヶ月前に、トルコで「イブラ・ワ・ハイト」のコーディネーターをしてくれているMさんは、そう伝えてきた。

「日本での販路も少しずつ開けているのだから、他にメンバーを募っているけど、でもシリアに帰っていった人たちのことが心配だわ。シリアに帰っても、みな当てがある訳じゃない。しかも、いろいろな地方に散り散りになるから、接触を続けていくのはかなり難しいし・・。」

「イブラ・ワ・ハイト」で刺繍製品を作り始めて、もう少しで2年になる。この2年の間に女性たちのスキルは、驚くほど上がり、彼女らもそれを喜んでいた。単に収入だけではなく、技術も身についたと。そして精神的にも少し落ち着いたと。

しかし、収入の足しにはなるが、それで一家が食べていくにはまだまだ厳しい状況の中、一部の女性たちは、危険なシリアに戻って行くという選択を迫られている。

もしシリアに戻っても、手だてがあるなら刺繍を続けてほしい。刺繍を作って、トルコに送ることはできなくもない、送金もなんとかなるはず。そう思いつつも、目の前には、気の遠くなるような厳しい現実がある。

そんなとき、Mさんが嬉しいニュースを伝えて来た。小さな「くるみボタン」用の刺繍材料一式を持ってシリアのイドリブに戻ったウム・イマーンが、刺繍を完成させて、人づてでトルコまで送ってくれたという。

「彼女がシリアに帰るとき、刺繍を続けたいと言っていたので、材料を持たせたの。でも本当に出来るかどうかは不安だった。でも、やってくれた。良かった!150枚も送ってきてくれたのよ。もし今度シリアに帰る人があっても、出来るものなら、こんな感じで続けることが出来るように算段をしたいわ。」

それが私たちの願いでもある。「針と糸」さえあれば、どこでも出来る仕事。それが基本。だから、タンポポの綿毛が飛びさり、思いもかけない地で花を咲かせるように、この技術もどこかに移動し、そこで小さな花が咲けばいい。そして、その花の種子がまた別の所に飛び、また花を咲かせればいい。

ウム・イマーンの一連のニュースは、厳しいシリア人たちの状況を私たちに改めて知らせてくれたが、と同時に、雑草のようにたくましい彼女の意志が、逆に日本にいる私たちの願いを再確認させてくれた。

そんな矢先、イドリブの町を反政府側が制圧したとのニュースが流れた。しかもその直後から、イドリブの町や周辺に、政府軍側が空爆を激化させた。「解放」を聞いて町に戻って来た人々は、またしてもイドリブの町から逃げざるを得なくなった。

やっと自分の家に戻ったウム・イマーンも、他の人たちと同様、イドリブの町を離れた。周辺の村に避難したらしいというが、彼女の消息はそれ以降途絶えている。

タンポポの綿毛は、今、どこをさまよっているのだろうか。

追記
MさんにはZさんという娘がいる。彼女はジャーナリストで、シリアとトルコを常に行き来している。彼女は「今度またイドリブに行くから、彼女の行方はそのときに調べるわ」と言ってくれている。
またウム・イマーンの製作した150枚の刺繍は、今月末に私たちの元に届く予定である。





2015-03-09

スレイマン・シャーの廟



「あのニュースを聞いた時、一番最初に思い出したのはあなた達よ。」

2月22日、シリアにあるトルコの飛び地であるスレイマン・シャーの廟のトルコ人警備兵を避難させるために、トルコが電撃作戦を行なった。このニュースが流れた数日後に、フランスに避難しているシリア人の友人Sさんが、スカイプで話しかけきてくれた。

この作戦のことは日本ではあまり話題にならなかったが、この地域でかつて発掘をしていた私としては、人ごとならぬニュースであった。オスマン朝の開祖オスマン1世の祖父、スレイマン・シャーの廟は、ユーフラテス川にかかるカラ・コザック橋を南から渡ったすぐの所にある。橋を渡るたびに、トルコ国旗が水辺の廟の横にはためき、警備兵らしき人影が見えることもあった。

「ここだけはトルコ領なんだ」と、シリアでの発掘初日、アレッポから遺跡のある村へ行くバスに揺られながらユーフラテス川にさしかかった時、主人が廟の方を指差しながら教えてくれた。1989年の7月初頭だった。その後、一度だけ中に入れてもらったこともある。どのような手続きをしたかは忘れてしまったが、それほど面倒なこともなく、入らせてもらったように記憶している。

元々この廟はさらに下流のジャアバル城の近くにあったのだが、1973年のタブカダム建設でその地点が水没することになり、上流のカラ・コザック村の近くの現在の場所に移築された。その後、90年代後半、ティシュリーン・ダム建設の際も水没が危ぶまれ、さらなる代替地を探した時期もあったが、最終的にダム湖の水位がこの廟にはすれすれで届かないということがわかり、そのまま現在の場所に残ることになった。

この廟の対面のカラ・コザック村にはテル(遺丘)があり、スペイン隊が紀元前3千年紀の遺構を掘り出し、ほんの少し川をさかのぼったジャアデ・ムガーラでは、フランス隊が新石器時代の遺跡を調査していた。

その後、ダムが完成して、多くの遺跡が調査をされないままに水の底に沈んだ。私達の掘っていたテル・アバルも上層を残して水に沈んだが、その近くで、一部発掘を手がけていたテル・コムロックは、島のように残った。

その後、「島」になった遺丘の周辺で、発掘当時のワーカーだった考古学の大好きなアフマド・ムスタファが自分の牛を数頭放牧し始め、崩れかけた私たちの日乾し煉瓦の家を修繕して休憩場所にした。そして、私たちは、時々、その想い出の場所に出かけ、今となっては汀になってしまった場所を散策した。そこではダムの水で土が洗い流され、発掘の時には掘り当てられなかった遺物が散らばっていた。

この島に、ある春の一日、Sたちと行ったことがある。主人は、道々得意になって遺跡や地域の歴史を話した。Sさんも、彼女の夫Nさんも、汀に転がっている遺物を見たり、その年代を尋ねたりして、すごく興奮してくれた。皆、あの汀で子供のようにはしゃいだ。

「私は手術をほっておいてでも、もっとあなた達と一緒に遺跡に行けば良かった、なんて今になって思ったりする事があるわ。ハミードさんの話も、もっと聞いておけば良かった。」女医であるSさんは、あの頃本当にいつも忙しかった。

「あなたたちのお陰で、あのカラ・コザック橋を渡ったら何があるかを知る事ができた。あなた達がもっと遠くのテル・タモル(ハッサケの近く)のあたりで発掘していた時も行っておけば良かったわ。今、ニュースでテル・タモルの名前を聞くと、あなた達を思い出す。あなた達のお陰で、あの地域も私には縁のない田舎町ではなくなった。あなた達を通して、シリアを知ったと思う事もあるわ。」

    過分の思い入れで、気恥ずかしくなってしまったが、それでもそういう風に行ってくれる友人の言葉が心から嬉しかった。と同時に、それらの地域の名前を聞くのは、戦闘の場としての報道の中となってしまった、そのことが、特にシリア人である彼女にとっていかに残酷なことであるかを、痛いほど感じた。


    遺跡破壊に関しては、ISILが最近派手に「やり始めた」ために、再び注目を集め始めている。しかし、それに限らずこの4年のシリアの騒乱の中で、文化財への侵害は継続してきている。

    掘り起こしたシリアの歴史は、私達の感傷とともに、記憶の中に埋め戻すべきものではない。世界に散らばってしまったシリア人の手に、取り戻す術を、今こそ考えなければならない。
    





2015-02-18

メンビジ周辺



しばらくブログが書けなかった。



ブログが書けずにいる間、シリアは再び、メディアで盛んに取り上げられることになった。

「イスラム国」をめぐる様々な報道、日本人の人質方々のかの地での不条理な死。特に後藤さんは個人的にもお会いし、お話したこともあり、彼の「殺害」という事実は胸にずしんと重い。

こんな中で、最近投稿された「イスラム国」に「拘束」されているJohn Cantlieアレッポ周辺のレポート映像は、私の想い出と重なり、極めて奇異な感情を呼び起こした。

このレポート映像の主な舞台はメンビジの町とその周辺で、ユーフラテス川流域で発掘をしていた頃からのなじみの地域である。その頃からメンビジはこの地方の中心の町ではあったが、1990年代はまだ鄙びた田舎町で、人口も20万人いくかいかないか、だったように記憶している。ちなみに2010年頃には人口は60万人近くに増えていたはずだ。

メンビジの周囲には半農半牧畜の村々が散らばっている。メンビジのスークは、それらの村々から持ち込まれた野菜や乳製品、肉類であふれていた。スークは売り手、買い手共に活気に満ちている。赤白の格子のジュムダーナ(被り物)の男性たちの中で、女性の羽織る黒地に金糸の縫い取りのある上着がキラキラ光る。

1990年代は、シリアでは先のタブカ・ダムに続き、ティシュリーン・ダムが建設予定で、それに先だって水没地域の緊急発掘のために日本を含む各国から発掘隊がこの地域に来ており、彼等も普通はこの町で買い出しをしていた。

私は夫の「指揮」するシリア隊に参加し、トルコ国境のジェラブルスに近いテル・アバルの村で発掘をしており、1989年から5年間は、毎年春から夏にかけて集中的にこの地域を行き来した。

発掘の合間に、各国隊の現場を訪ね、時にピクニックと称して、今回の映像にも映っているナジュム城にも頻繁に訪れた。お城の番人のアブ・ジャーセムは、いつもお城のふもとにある彼の家に招いてくれた。

外は灼熱なのに、中はひんやりとした日干し煉瓦の質素な家。そこでふるまわれる焼きたてのホブズ・サージュ(ペラペラのパン)、手作りのヨーグルト、菜園からもぎ立ての野菜、黄色も鮮やかな卵焼き、そしてなによりもアブ・ジャーセムとそのおかみさんの暖かい笑顔。

私たちが座っていると、他にも、どこからか数人の男性がやって来ていて、夫は得意の弁舌で、今掘っている遺跡の話や、外国隊の噂話などをする。

映像を見ながらそんな想い出が一瞬呼び起こされたが、その同じ場所に今映しだされているのは、武装した男の姿である。それは私の知っているあの地域の風景のなかにある人々とは、全く異質のものである。

銃を持ち、黒い巻物を頭に巻いた男たちは、この地域の、そしてこの町の風景の中で、極めて奇妙なものに感じられる。間違った舞台に配置されている役者のような、そんな違和感を感じる。

ダム湖は、ユーフラテス川の流域に営まれていた歴史の足跡を飲み込んだ後も、あくまでも青く、美しい水をたたえ、その存在が永遠のものであるかのような錯覚を起こさせる。しかし、ダムは水を堰止めるが、川の流れを全て堰止めること事は出来ない。

今、人々を重苦しく堰止めているものも、いつかはその下に流れている力によって、流れ出す日が来るはずだ。それを期待するにはあまりにも過酷な日々がシリアに流れているが、それでも、その日を願わずにはいられない。

そんな事を思いながら、今年も夫の命日を迎えた。































2014-11-23

雨上がりの空



ハッブーバの村に、冬の訪れを告げる雨が降ったらしい。

午後に2時間ほど激しく降ったあと、やけに美しい夕暮れがやって来た、とTが写真を送ってきてくれた。





以前にも書いたが、この村はイスラーム国制圧下にある。普通学校は閉鎖されたまま。その代わりにイスラームの宗教学校を開くと通知があったらしいが、数ヶ月が経った今も、それは実現されていない。



かつては市のたつ町だった近くのハフサが空爆に曝されるようになってから、比較的安全なハッブーバがそれに取って代わっていたようだが、今はイスラーム国が全ての流通を取り締まり、勝手な商売は出来なくなっている。



そして数週間前には、村で初めて、村の若者の一人が斬首刑にかけられた。政権側の軍部隊にパンを届けた為だという。



村の広場で、公開で行なわれたこの処刑のあと、村全体が激しい悲しみに包まれた。村の長老たちまでもが泣き入ったという。



もし政権側、反政権側という言い方が今でも可能ならば、この村は後者である。そしてこの若者は政権側に「塩を送った」という「罪」を犯した。



しかし、この処刑に対する村人の嫌悪感は、「政権側、反政権側」というあまりにも単純な図式とは、ほど遠いところにあり、その後どんよりとした黒い雲のように村を覆っている。



我々「イブラ・ワ・ハイト」の活動に参加して、刺繍を作り、日本に送りたいと言っていた女性たちも、それ以来、激しい恐怖に襲われている。 

Tも「やっぱり、今は無理だわ」と言う。



我々の間にある、刺繍糸は我々を繫いでくれる、という共通の認識は変わらないが、今はそれさえも、心の中にしまっておくしかない。



Tの送ってきた写真には、「外には、近所の子供のはしゃぐ声も聞こえる。レモンをそえたお茶を入れてみた。こんな風に終える一日は、悪くないわ」というメッセージが添えられていた。



この雨上がりの写真は、何かを超越した色あいの空を映している。でも私には、それがあまりにも儚げに見えて仕方がない。








2014-11-18

答えのない問い



ついにハムドーがシリアを出た。ヨーロッパに出て、そこで難民申請をするらしい。



1週間程前にトルコにやっとの思いで出て来た。メルシンに行き、そこで悪名高い密航業者の内の一人に会ったという。「彼はイタリア行きの船に乗るのに、一人頭6500ドル(70万円程度)を要求してきた。」とハムドーは言う。私もこのくらいか、あるいはそれより高いくらいが相場だと聞いていた。



6500ドルは、法外に高い。しかも、彼らのところに来るようなシリア人は、シリアで生活が出来なくなり、やむなく外国に逃げようとしている人たちなのだ。しかし、なんとか新天地を見出したいシリア人の多くが、全財産をかき集めて、このような船に乗る。



しかし、こういった密航業者はヨーロッパ行きの船にシリア人を「乗せる」手配をしてはいるが、無事に目的地に着くかどうかは、彼らの知った事ではない。



定員の10倍もの人々を乗せた船が転覆したりするニュースが時折報じられる。命の保障はどこにもない。しかし、他に選択の余地のない人々が、運を天に任せて、この悪魔の船の船賃を払う。



「勿論べらぼうに高いし、中にはイタリア行きとか言っておきながら、シリアのタルトゥースに連れ戻すような罠にかけられる場合もあるらしい。しかも、奴ら差配人の風体は、いかにも胡散臭かった。心底やばいって感じた。だから、あの船はやめた。」とハムドーは、言った。



ハムドーはちゃんとパスポートも持っている。ただ、ヨーロッパに正式に入るためのビザをとる様々な要件に欠ける。最終的にアルジェリアまで空路で行き、そこから陸路モロッコに抜け、そしてスペインに渡るルートをとる事にしたようだ。しかし、モロッコからスペインは、やはり海路だ。危険は、やはり最後まで付いて回る。しかし、もうそれしかない、と彼はハラをくくっているようだ。



父母と妹たちを、アレッポ近郊のカファル・ハムラ村に残してまで、ハムドーがここでどうしてもシリアを出ようと思ったのには、訳がある。



彼は反政府集団のメンバーの多いビレーラームーン村の出身だが、この村の出身者が近頃ことあるごとに、無差別に政府側の治安関係機関に拘束されているという。拘束されたら、ほとんどが帰ってこない。



また、彼は修士論文でアレッポ近郊にあるローマ時代の水路に関してとりあげたが、その水路の位置情報を治安情報部がほしがっていると、博物館の職員に言われたという。



「なんでも、こういった古代の水路に武装集団が潜んでいるってことだ。治安関係機関は水路を突き止めて、吹き飛ばしたいらしい。」



「僕は僕の論文がそんな事に使われたくないけど、もし無視したら絶対捕まる。捕まったら、絶対帰って来れない。近頃は、前にも増して、聞き込みも讒言の類いも多くなっているが、聞き込み無視をしたら、そいつはテロリストの一派だということになるらしい。テロリストというのは便利な呼び名だよ。この言葉さえ唱えたら誰も何も言えない。」
 



「家を出る時、お袋が、もう帰って来ないのか、と聞いた。何と答えていいのか、わからなかった」



事の経緯を淡々と話していたハムドーの声が、受話器の向こうで、かすれた。