2012-12-23

シェルターに作られる学校



現在、アレッポのほとんどの小・中学校は機能していないという。この危険な治安状況の中、親は子供を学校に送る事ができず、または授業ができる状況ではないことの他、学校自体が破壊されてしまっている場合もある。

しかし、このような状況の中で、学校を作ろうと動いているグループもある。

カッラーセ、あるいはブスターン・アル=カスルはアレッポでは貧しい層の人々が住む地区であるが、紛争以降、さらに状況は厳しくなっている。度重なる戦闘は、シリア中で家をなくし、家族をなくし、収入のすべを失った人々を生んでいるが、この地区のような極めて貧しい地区の人々は、国外に出るにも頼るべきものがない。また多くの人が、死ぬのであれば自分の住んでいた土地で死にたい、と地区から出ない決意をしている。

学校作りを始めたグループは、この地区を紛争当初から支援し続けている若者たちで、緊急支援物資を国外居住のシリア人有志から集め、ここに残った人々を支えて来ているが、この数ヶ月のあいだこのような状況であっても子供の教育をないがしろにしてはならない、と学校をつくりはじめたのである。

しかし、「地上」に作ると、攻撃にさらされる可能性があるということで、地下のいわゆるシェルターに教室を用意しているという。教師は、もと一般学校の教師の内の有志を募り、教材、テキストを今収集中のようだ。生徒は180人ほどで、新年の開校を目指している。

このグループの一員の若者Bは言う。「僕たちの支援グループの何人かは、支援活動の最中に狙撃をされて亡くなった。そのうちの一人、Mはこの国の将来を考えるたびに、学校機能が麻痺している事を非常に憂いていた。こんな状態だからこそ、子供たちはちゃんと教育されなければ、と僕たちは彼の意志を引き継ぐことにしたんだ。」

「何もないし、先生たちだって、ある程度の給料を払わないと、彼らの生活も危うい。だけど、やらないといけない。そう信じている。」とBは続ける。

シリア人の挑戦は、戦闘だけではない。彼らはこのどん底で将来に挑戦し実践している。

2012-12-12

生きるための算段


「エジプト航空がダマスカス・カイロ便をストップした。アレッポ・カイロ便も16日には止まる。」

アレッポの旅行代理店のJが、2日前に久々にスカイプ通話をかけてきてくれた。しかし、彼のニュースは、シリアが空路でもほぼ封鎖状態になってしまったことを示すものだった。彼はその時ダマスカスのエジプト航空のオフィス二いるという事であったが、いろいろな問い合わせがあるものと見えて、大声で話す周囲の人たちの声に、スカイプ会話は何回も中断された。

ダマスカス・カイロ便のストップは、緊張の度合いが極端に激しくなったこの一週間の状況を受けてのことで、16日のアレッポ・カイロ便が止まれば、外国の航空会社は全てストップした事になる。

じゃあ、空路で国外に出るにはどうすればいいの、と聞くと、シリア航空がひとりベイルートまで飛んでいる。空路で国外に出るには、まずはベイルートへ行き、そこから乗り継ぐことになる、と答えてくれた。

数ヶ月前、アレッポが極端に危険になって来た頃、エジプト航空のシリア代理店であるJは、「僕が進言すれば、今でもアレッポ・カイロ便を停止できる。だけど、今は国外に出たい人がいっぱいいる。僕がやめたらこの人たちが外に出られなくなる。」と、砲撃も頻繁になったアレッポの中心街アズィズィーエのオフィスを閉めなかった。

今回は、エジプト航空関係に関しては中断せざるを得ないが、彼は自分のビジネスを潰すまいと動いている。去る9月には、フランクフルトの旅行代理店関係の見本市にいる、と意外にもドイツから連絡をくれた事がある。その時は、この状況では今に我々のビジネスは壊滅だ。こんな状態だからこそ、次のステップを考えてこんな見本市のような所に来ているんだ、と言っていた。

今回も、ダマスカスでの「残務処理」を終えたら、ベイルートに行き、そこでもいろいろ画策して数日後にアレッポにも戻るとのこと。彼は決してアレッポを捨てない。次の段階が来る事を見越して、動いている。僕たちは最近、「・・を願う」、とばかりしか言わなくなった、と苦笑いをしながら、願いをいつでも現実の行動に変えられる日がくる事を否定している訳ではないことが、伝わってくる。

多くの人が家を追われ、国を出て行くか、否か、あるいは生きるか死ぬかの状況にまで追いつめられている。しかし、にも拘らず、全く予測のつかない将来を視野に入れて、人々は生活する。パンや、燃料が不足したり、なかったり、の日常だけが彼らの関心事ではないのだ。

彼だけではない。甥っ子のハムドゥーも、もう戦闘員しかいなくなった村の家に戻り、死の危険を冒して大学院修了証書を持ち出して来ていた。Aも、論文を書いて、「修士」の口頭試問の手続きを何とか進めようとしている。大学の講師となった元学生の幾人かも、後輩たちのためもあるけど、キャリアになるから、と危険な中を大学の講義に出かけて行く。

「今は、死ぬのは簡単だ、でも生き延びるかも知れないじゃないか。そうなった時のために、死にそうになりながら、書類をとってくるんだ。」そんなものどうでもいい、命を賭けてまでとりに行くものじゃないよ、という私の「忠告」は彼らの現実の前では、「現実的」ではない。

2012-11-30

義弟マフムードの死


義弟のマフムードが死んだ。

スカイプで別の友人と話していたときだった。久しぶりにトルコにいる義理の姪の主人からメッセージが入った。友人とたわいない話を続けながら,メッセージを開いたとたん、目に飛び込んで来たのは、

マフムードが殉教しました。哀悼の念をあなたに。

という、わずか一行の簡単なメッセージだった。
のどの奥から、熱い自分でも抑えられない呻きがわき上がった。苦いものがこみ上げてくるような気がした。

しかし、なにかしら、予想していたことでもあったのだ。彼がトルコからシリアに再び入り、アレッポ郊外で結構大きな部隊を率いていることを甥っ子のハムドゥーから聞いたとき、彼は長くはないと思った。その胸騒ぎが、的中した。

何が彼を戦線に駆り立てたのか。彼は離反者である。死刑宣告は前から出ており、シリアに入ったら、即刻死刑だぜ、と笑い飛ばしていた。アレッポに入る以前、彼は政治亡命を考えているとも言っていた。家族のことを考えてのことであろう。だから彼のアレッポ入りを聞いたときは、彼の行動にはそれなりの意味があると思った。

彼の死をどういう風に受け止めていいのか、わからない。平和な私たちのアジェンダが一つずつ崩れている。それだけは確かである。
そして、アジェンダの乱れはわたしだけのものではない。シリア全てがこの不確定さの中にあることに、いまさらながら気づいた私は、なんと鈍感であることか。

ハムドゥーともいつぞや話した時、彼は自暴自棄になっていたことがあった。しかし、その後死ぬのは後回しにしたよ、とアレッポ郊外で被害者の救援活動をし始めた。もちろん、彼のやっていることに命の保証はない。

同じく、今日パリに避難しているSさんの夫、Nさんは、こんな中で、アレッポに戻って行ったらしい。どうして?何かどうしようもない理由でもあったの?と 聞いたが、Sさんの答えは、「何もないのよ。だけど、彼はアレッポが恋しくなったの」というものだった。

今シリアでは、誰もがあらがうことのできない求心力によって、人が戦いの場に吸い込まれて行くようだ。

2012-11-19

笑みの消えた顔


今月のはじめにヨルダンのシリア避難者キャンプ(ザアタリ・キャンプ)を訪れる機会を得た。キャンプの周囲は、緑もなにもない、きわめて乾いた土地である。すぐわきにザアタリの集落があるにはあるが、僻地には変わりない。

キャンプの中に入ると、まず目に入ったのが、新しくシリア国境を超えてきた避難者たちに必要最低限の必需物資を配る光景であった。60才くらいの女性が配給されたと思われるマットレスに腰掛け、その娘とおそらく息子の嫁、そして孫と思われる数人の子供たちが彼女を取り巻いている。

話を訊くと、ダラアから逃れてきて、今日の朝早くキャンプに着いたという。足下をみると、女性たちは全てサンダルばきである。シリアでよく見かける、質の悪いプラスチックのサンダルだ。ダラアから歩いて国境をわたってきたというが、数十キロをこの履物で、道無き道を歩いてきたのだ。しかも、5人ほどの子供連れである。一番小さい子供は小学1年生だという。

また、少し離れて女性が数人いた。このグループはホムスからの人たちだった。とりあえずダマスカスまで出て、その後国境越えを決行したようである。その中におびえたような顔をした、無言の女性がいたので、彼女は?と訊くと、他の人たちが、彼女はアレッポからだという。思わず同郷人にあったような気がして、アレッポのどこ?と尋ねるとシャアール(アレッポ北東部、激戦区のひとつ)だと言ったきり、やはり怯えたように遠くに目をやった。

アレッポのことが訊きたかった。だけど、訊いてどうなるのか。町が、そして周囲の村がめちゃくちゃだということは、友人たちとのチャットで訊いている。それを、ことさら、この彼女に訊くことに何の意味があるのか。少なくとも、彼女の呆然としたような表情は、何を訊かずとも、全てを物語っている。

彼女も、きっとかなりの間をここで過ごすことになるのだろう。そして、数ヶ月キャンプ生活をしている他の人たちのように、キャンプ内の不自由さ、望郷の念、亡くなった肉親や友人への思いを、ようやく語りだすようになるのかもしれない。しかし、彼女は、今はそれすらできない。

写真や、ビデオでみたアレッポの荒れ果てた様子が、彼女の背後に見えたような気がした。

あの暖かい笑顔を失ったシリア人に会うことがこんなにつらいことだったとは。

2012-11-01

奇妙な会話


なんと奇妙な会話だっただろうか。

昨日、教え子のAが、スカイプの音声通話をかけてきた。彼は、この困難な中で修士論文を書き上げ、論文の提出と口頭試問の日取りなどを決めるために、約一ヶ月前にイドリブからアレッポに出てきた。大学には、町の状況のよい日に行き、残っている職員たちと必要な手続きを続けているようだが、担当の教官は「来るはずだ」としかわからない状態である。

夫も異例の外部からの指導教官として名を連ねていたが、彼亡き後は、別の教官に代わってしまった。しかし、これらの教官たちも、この状況では大学に行くことすらままならない。ある程度の手続きが済んだ段階で、Aはイドリブに帰ろうとしたが、アレッポでの衝突や砲撃・空爆は激しくなる一方で、道が封鎖され、帰るに帰れない。

彼がアレッポに出てくるときは彼の叔母の家に泊まるのが普通である。しかし、「家主」である叔母一家は、トルコに避難してしまった。従って、Aは一人、空き家になった叔母の家で暮らしている。

話し始めて、10分くらい経っただろうか?彼が、急に口をつぐんだ。何?と聞こうと思ったその瞬間、バリバリバリという音が聞こえた。

銃撃だ!

スカイプを通じて、銃撃の音がはっきりと聞こえてくる。彼は、「あ、始まった」と言った。私は、言葉を失い、どこで?と聞くのが精一杯だった。

「うちの前の通りみたいですね」「この近くに軍関係の建物があるから、もうしょっちゅうです。」と言ったとたん、ドーンというものすごく大きな音がした。

彼は少し沈黙した。今のは!今のはなに?!と言うと、あれはどうも大砲のようだという。そして、バリバリ、ドーンという音が数分間続いた。

会話どころではない。しかし、彼は話をしたいのか、パンの供給が少しずつ乏しくなってきていることや、毎日ほぼ20時間以上の停電のこと、燃料がないことから、来る冬への不安などを淡々と話し続ける。その間も、砲撃音は大きくなったり、小さくなったりしながら続いている。

なんとも奇妙な状況ではないか。

私は、お茶を飲みながら、気違いじみた砲撃の音を聞き、アレッポの窮状の話しを聞いている。砲撃音は、あたかも私の家の横で行われているように迫ってくる。それは、映画の効果音ではない。そして、つい去年までエブラ文書について私たちと議論していたAが、その砲撃からまさしく戸一枚隔てた家に一人ぽつねんと座り、私と会話をしているのだ。なのに、私はその破壊的な状況から距離的には、あまりにも遠い所にいる。

砲撃音は続き、Aも話しを続ける。この砲撃はいつまで続くのだろうなどと、ふと愚かなことを問いかけると、Aは、まあ夜半までですね、でもまた明日もあるに違いないですよ。エンドレスだ、とどうでもよいことのように言う。鋭い砲撃音が、神経の奥底にまで響く。砲撃は通話の間中聞こえた。

じゃ、またね、と通話を切ったその後も、彼は砲撃の中に一人、居続けるのだ。「でも、どこかで勉強続けられませんかね」と聞く彼と、文字通り、隣り合わせに起こっている戦闘。なんと、残酷なコントラストなのだろう。

2012-10-24

兵士

10日ほど前、教え子のSが日本にやって来た。日本の大学院入学の手続きを行うためだ。彼は、激しい攻防の続くイドリブ県出身だが、まずレバノンにいる兄弟のところに身を寄せ、ベイルートの日本大使館でビザをとり、来日した。

イドリブからベイルートまでの陸路が大変だったようで、最も近いシリア沿岸部を通ってのルートは、検問で「イドリブの住民」という理由で通行不許可、まわりまわって、ようやくベイルートに入ったようだった。

先日、東京に出てきた彼に出会う機会があった。1年半ぶり、昨年の春にアレッポで会って以来だった。FBで状況は何度か確認していたものの、実際日本で「生きて」会うことができたことが何より嬉しかった。彼も、とりあえず、日本で考古学が続けられるめどがついたことにほっとしてはいたようだったが、手放しで喜べないことは、お互いに認識している。彼は、両親はまだシリアに残っているのだから。

食事をしながら状況を聞いたが、一ヶ月ほど前に亡くなった彼の従兄弟の話を、賑わう東京の繁華街で聞くことは非常に奇妙で、罪悪感さえ覚えた。

彼の従兄弟は、数ヶ月前に兵役期間が終わり、帰郷するはずであった。しかし、兵役期間は有無を言わさずに延ばされ、兵糧を運搬する車の運転を任されていたという。一ヶ月ほど前、その兵糧用のトラックに仕掛けられた爆弾が爆発し、中にいた彼は一瞬のうちに亡くなった。

彼は、「政府軍」にいた。しかし、望んで「政府軍」であったわけではない。そして、本来ならそこから解放されていたはずの時期に爆死してしまった。

Sは言う。彼が日本に発つ前に、シリアからメッセージが来た。そのメッセージには、従兄弟の従軍していた期間の給料として、6万シリアポンド、約6万円が従兄弟の両親のもとに送られてきたことが書かれていたという。

これが、「政府軍」で働いた報酬なのだ。従兄弟の血の代価なのだ。Sはそれだけ言って、少し水を飲んだ。そして続けた。

これから、どうなるのか、誰にもわからない。だけど、この政権は変らなければならない。国際社会とやらは、現政権が変っても、もっと悪い政権がその場所に納まるかもしれない、と言う。それでもいい、変ってくれ、と従兄弟を失ったSは言う。もっと悪いなら悪いで、僕たちが責任を取る。ただ、変ってくれ、まずはそこから始まるんだ、と。

報道は「政府軍」と「反政府軍」の攻防を伝える。しかし、これが政府軍の兵士の現実であり、現政府に反対するものの感情なのだ。

Sは10月末に一旦日本を離れ、再び年明けに来日する予定である。どんな状況であれ、われわれは、シリアの遺跡をもう一度調査するであろう、若い世代に賭けたいのだ。

2012-10-14

ズフラート(ハーブティー)


風邪をひいてしまった。咳が止まらないので、何か薬はないかと探していると、昨年シリアで買ってきたズフラートが出て来た。ズフラートとは、ハーブティーの一種で、シリアでは普通に飲まれているが、咳にいい、と風邪の時はよく勧められたものだ。

お湯を沸かしてズフラートを煎れ、飲んだ。この「花のお茶」は喉の奥にゆっくり沁み、体を温めてくれる。両手でカップをもち、お茶の湯気を吸い込みながら、先日、トルコ国境リーハニーエ周辺の、シリア側の村で自由シリア軍のロジ隊と働いているOの言葉を思い出した。

シリアからトルコに20万人近い避難民が流れているのは周知であるが、最近、トルコ側は、その対応に苦慮しており、受け入れを制限し始めている。そのため、多くの避難民が今Oのいる村や、その周辺で足止めを食らっているというのだ。

ここに来る避難民の多くはアレッポからの人たちであるという。昨今のアレッポ状況の極端な悪化で、避難民は増え続けているが、彼らはトルコに抜けることができず、この村に宿営せざるを得ない。

この彼らのために自由シリア軍のロジ隊は、数箇所でキャンプを設営しつつあるが、そのために必要な、極めて基本的な物資に事欠いているという。テントそのものも追いつかず、オリーブの木の元で暮らしているような家族もいるのだ、と。

「もうすぐ、寒くなります。もしこのままの状態が続いたらどうなるのか?」

彼らは勿論一般市民だが、負傷して、ここまでたどり着いたものもたくさんいる。しかし、その手あてのための薬や設備は勿論、十分であるわけがない。また宿営状況が悪いことから、病気も多く、特に最近では、結核と思われる病気がはやり始めたらしい。彼がいうには、「そのこともあって、今日、トルコは100人の避難民の患者の入国を受け入れましたよ」という。

「私たちは精一杯やっている。なのに、事態は硬直したように、のろのろとしか動かない。状況は極めて悪い。何が起こりつつあるのか、どうしてこんなことになってしまっているのか、といつも自問自答するしかない。」呻くようなメッセージだった。

私が咳をしていたら、黙ってズフラートを煎れてくれた、優しいシリアの人たち。今、彼らは何をもって、彼らの体を温め、心を休めることができるのだろうか。そして、私は、何をもってそれを手助けできるのだろうか。

2012-10-02

アレッポ・スーク炎上と沈黙の戦い


シリアでの、そしてアレッポでの戦闘は続いている。

しかし、ここ数日間に届いている知らせは、私にとっては今までで、最も衝撃的な映像を伴っている。ジュダイデ地区のダール・ザマリヤ破壊とアレッポのスーク炎上の映像である。

ダール・ザマリヤはアレッポのジュダイデ地区に多く残る18世紀の歴史的建造物のひとつである。15年ほど前から始まったオールド・アレッポの活用計画の中で、外国の援助なしに地元の資本が中心となり、古い建築を修復し、地元の建築士たちが実際の図面をひき、それまで荒れ放題だった古い建物を蘇らせた。これは単なる修復ではなく実益も伴った事業で、この地区では数軒の古建築がしゃれたレストランとホテルに生まれ変わったのである。

また、アレッポのスークは、中東最大のスークとも言われる。初めて訪れたひとは、雑踏に驚いて迷路と思うことが多いが、実際は一種の条里制とも言うべきヘレニズム時代のアゴラの上に立てられている。間口の狭い店がびっしりと並び、所々にモスクやキャラバン・サライ(隊商宿)があり、香料屋から流れる匂いはもとより、石鹸、食糧品、その他の雑多な品物からの独特の香りは、外国人にとっては異国情緒をかもし出す重要な要素だ。

しかし、アレッポのスークは地元民が今でも日常生活の必需品を買いにくる、生きたスークである。なんでもあるのだ。近隣の村からも村人が買い物に来る。彼らは服装や、頭に巻くものの違いなどで、大体どの地方から来たかが、おおよそ見当がつく。民俗学博物館よりも、風俗がよくわかるのが、アレッポのスークだった。

この二つのアレッポを代表する場が、破壊され、燃えた。



燃えた、と過去形で書いたこの瞬間、イドリブからアレッポに出てきているAがオンラインに来た。聞いてみると、たった今、現地時間9月30日午後5時現在でもスークの方角から煙が上がっているという。(そして、そのことを伝えながら、Aは「あ、今、爆撃音がして、家が震動しました」とも書いてきている。)

最初にダール・ザマリヤ破壊のニュースを見たとき、教え子のWにそのことを言うと、「確かにショックです。でも、今頃は、何を聞いても、他の多くの破壊の内の一つに過ぎないと思ってしまう。なんだか、感覚が鈍ってきたみたいなんです。」と言う。「感覚が厚いワニの皮にでも包まれてしまったような、そんな感じ。いや、と言うよりも、感じようとするとつらいから、感じないようにしているのかもしれない。」

彼の一言、一言がずっしり重かった。そして、現在、おそらくほとんどのシリア人は、彼と同じような思いを共有しているのだろう。なるだけ、感じないようにするのだ、でなければ、気が狂ってしまう・・・彼はそう続ける。

「でも、先生、こんな生活の中で、いいことも見聞きします。それって言うのは、中には、この厳しすぎる現状の中で、無言で堪えて、日常を保っている、保とうとしている人たちがまだいるんです。どこに行っても、まだ仕事を普通にやろうとしている人がいるし、普通の生活を続けようとしている人がいる。彼らは沈黙の戦いを続けているんです。」

「僕は、こんな感じで、そういう人ほど強く生きてないと思う。だけど、少なくともそういう人がいることも、伝えておきたいんです。」

私にできることは、さらにその声を伝えることしかない。

2012-09-18

砲撃と隣り合わせ


今日は、アレッポから数キロの郊外の村、カファル・ハムラに移った元教え子のAと再び話すことが出来た。彼女はこの数日オンラインにはいたようだが、いつもすれ違いだった。

彼女のいるカファル・ハムラの村は、甥のハムドゥのいるビレラームーン村の隣村なので、彼のことはわからなくても、せめて村の状況だけでも聞ければと思った。そのことを伝えると、彼女は、もし携帯番号でもわかったら、今電話をかけてみますよと言うので、かけてもらうことにした。

しかし、すぐに通信圏外のメッセージが流れたらしく、「近頃、毎日どこかで空爆があり、空爆のある地域では電話が切られるのです。さっき戦闘機の音が聞こえていたから、たぶん今に、始まるんだと思います」と言う。恐ろしい現実なのだが、彼女は淡々と伝えてくれる。

あなたのところは?と聞くと、「今のところは大丈夫です」「ただ、昨日の夜まで断水で、タンクの水がもう尽きかけていました。ようやく夜に水の来た音がして、ほっとしているところです。」ということである。「水も、電気も、電話も、みんな好き勝手に切られるけど、さすがに空気だけは切れないね、ってみんなで言ってるんです。」

愚問と思ったが、彼女に質問をしてみた。今、シリア国民のどのくらいが政府を支持していると思う、と。彼女の考えでは、30%以下ではないだろうか、と言う。「革命」当初は少なくとも半数は政府を支持していたと思うが、流血の惨事などを受けて、今はあるいはこれ以下かもしれない。勿論、残りがすべて自由シリア軍を支持しているわけではない。と言うのは、一部は、彼らの存在が都市への攻撃を誘発していると考えているからだ、と簡潔に答えてくれた。

「だけど」と彼女は続ける。「自由シリア軍がいてもいなくても、爆撃はありますよ」「ただ、彼らの作戦はまずいのではないかと・・・」と書いてきたすぐ後だった。

「ごめんなさい、今家の横で、砲撃が始まったみたいです。シェルターに行かなきゃ。」

そして、彼女はオンラインから消えた。


(追記:このあと、30分後に、彼女は再びオンラインに来た。「今日は二発だけでした。こんなことにも慣れるもんですね」と報告してくれた。小学校の先生である彼女は明日、「学校が始まるらしい」ので、とりあえず行ってみようと思っている、とも言っている。)

2012-09-11

臨時召集


昨夜2週間ぶりで、アレッポとイドリブの友人たちがオンラインにいた。そして、みんな、「まだ生きてる」というメッセージを残してくれていた。

FBの、緑の小さな点が彼らの名前の横についている。この期を逃すまいと、急いで話しかけた。教え子のWは、この2週間の間に、彼の家の建物の屋上が砲撃を受け、大きな被害を受けたと語る。でも、「とりあえずウチの部分は崩れませんでした。まだ、元の家に住んでます。」という。

彼に、アリーハのAのことや、甥っ子のハムドゥーのことを聞いてみた。Aは、アリーハからイドリブの町に移っているが、数日前に連絡をとり合い、とりあえず無事を確認したという。またハムドゥーには、こんな状況の中、先日大学に行き、偶然出会ったというが、彼の村は、アレッポの激戦区とまでは行かずとも、いつどこで爆撃にあったり、弾が飛んできてもおかしくない状況になっていると話していたという。この2週間で、状況はあの村では悪化しているようだ。

Wは続けた。「でも、こんな中で、僕たちシリア人は、決して捨てたもんじゃないことを確認している。余裕のある人は、進んで被害にあった人や、生活できなくなった人を、物質的にも、精神的にも助けている。シリア人は必死で、耐えて、しのいでいる。国際社会からの支援なんか、もうどうでもいい。期待するなんて、この状況じゃ、もう意味がない。自力で、やるしかないんです。」

先生、気にしなくていいよ、と彼は続ける。出来ないことは出来ない、仕方ないんだからと。

何と返事すればいいのか。ついこの前まで、私は彼らを「彼ら」という代名詞で呼んでいなかった。私にとって、彼らは「我々」だった。なのに、私は今、この「国際社会」の片隅にいるしかなく、「彼ら」にかける言葉さえ見失っている。私は・・・と続けようとするが、言葉にならない。その私の気持ちを汲んでくれたのだろう。また、これからもネットが開いたら、声をかけてくださいね、と彼は書いてくれた。

ラタキアのAからも、今朝メッセージが入っていた。そこには、数日前、臨時召集令状が来たらしいことが書かれていた。彼は今年の初めに兵役を終えたにもかかわらず、一ヶ月以上前に、軍隊から臨時召集が来たと言っていた。そのときは、それほど深刻なものではないと思っていたが、今回は再度の催促のようである。

同じシリア人を殺すための軍隊には行かない、行きたくないと、若い友人たちはすべて口をそろえて言っている。Aも例外ではない。どうも、彼はこの2度目の臨時召集のあと、強制的に召集されるのを恐れ、自宅をでて、友人宅に「逃げ込んで」いるらしい。しかし「逃げおおせるものではないと思う。だけど、どうしたらいいのか、わからない。」「今、同じシリア人を殺すための軍隊に誰が好んでいくと思いますか?でも、この前、友達が逮捕された。召集を拒否したんです。」

シリアでは、傷をえぐるような毎日が続く。