2013-04-29

「生活」の再開


このところ、すこし精神的に落ち込んでいた。

目にするシリアからの映像、ニュースは、ただ胸にずんと重いものばかり。そして友人たちの不遇に対して、私の動きのいかに力のないことか。



そんなとき、ベルギーにいる教え子のSと音声で話すことが出来た。



思わず、疲れているのよ、こぼしてしまった。彼は、身体的に?それとも精神的に?と聞くので、精神的に、と答えた。



彼は言った。「僕はもう、それ、通り越したよ」。と。



そして、「もう落ち込んでるヒマ、ないんだよ、先生。いっぱいやらないといけないことがある。何言ってるんだよ。」と一蹴された。



「革命は長引いている。僕はずっと支援活動をやってきたけど、支援してくれているスポンサーたちが疲弊し始めた。支援金や支援物資はまだまだ必要だけど、それ以外のことを考えないと行けない局面になってきている。人々は、まだシリアの中で生きてるんだ。」



「彼らに何か、収入の道をつけないといけない。僕は今計画を練っているんだ。ちょっとした家内工業のネットワークを作ろうと思っている。この前、この事業を一押しする資金を工面したり、その他の手続きをしようと思って、草案を作って、シリア国民連立の人たちに聞いてみたけど、彼らは政治で忙しいらしい。ちゃんと話が出来ない。」



「彼らはほっとくさ。でも、僕たちは、やるしかない。アレッポとイドリブの解放地区で、家に残っている女性の手工芸グループをいくつか作って、製品を国内、出来れば国外で売る。国内の友人と今、それで連絡を取り合っている。」



ちょうど私も友人と女性の手工芸で収入の道が開けないか、と考えていた所だった。何か出来るかもしれない。



緊急支援は必要だ。しかし、出口の見えない状況のなか、シリア国内に残っている人たちは、「生活」をしなければならない。



夫の眠る村、ビレーラームーン村では一時全ての村人が村を離れてしまっていたが、最近、少し混乱がおさまったらしく、人が再び戻ってきている、と先日久しぶりに話した甥っ子が言っていた。学校を再開しようと、今走り回っている、と。



時は止まらない。時は待ってくれない。今シリアで、人は混乱の隙間をすりぬけて、「生活」を探し求める。銃撃や砲撃の合間に埋まりかけた「生活」を掘り起こし、取り戻そうとしている。



Sは、通話の最後に、「この秋に2人目が生まれるんだ」と、少しはにかみながら伝えてくれた。

2013-04-17

モノトーン



このブログで書くべきか、どうかと迷う出来事が何度もある。昨日、届いた知らせもその一つである。

しかし、シリアの内戦を写し続ける写真家Nino Fezza の「語られなければ、ストーリーは存在しない A story doesn`t exist unless it is told」との言葉をうけ、私の受け止めたものを、やはり書かずにはいられない。

考古学科卒で、兵役にとられ、政府軍に入った若者の死を、昨日教え子の一人が伝えてきた。彼女の説明で、彼の死は、極めて奇妙な形で判明したことが分かった。

先日、自由シリア軍の者であると名乗る人物から、この若者の携帯を使って、彼の父親のもとに電話がかかってきた。この人物は、この携帯の持ち主を殺し、埋葬したと父親に告げた。父親は、どこに息子を埋めたのかと聞いたが、この人物は知らない、と答えたそうだ。

これが教え子の知る一部始終であり、それ以上のことは分からない。

若者は、政府軍にいた。そして彼を殺した人物は自由シリア軍にいた。戦闘中ではなかったようだ。だが、殺戮は行なわれた。そして、どこかに彼を埋めたあと、人物の手元に残った彼の携帯を通して、その事実が家族に伝えられたのだ。

彼女の書き送ってくれた一連のいきさつは、画面上の無機的な文字の羅列であった。文字のみを見れば悲しいまでにモノトーンなそれであった。しかし、そこには2人の生身の人間がおり、一人は、かつて私の授業を受けていた。そして、生き残った人物も、自分の手元に残された、主を失った携帯に何かを感じた。だからこそ、この人物はその事実を家族に伝えようと思ったのだ。

状況は否応なく2人を殺す者と、殺される者に分けた。それが、戦争なのだと、友人たちは言う。日本もかつて戦争を経験した。風化しつつあると言われながらも、私の世代は戦争を生身で経験した親に育てられ、未だに戦死した叔父の墓参りをする。

しかし、今、シリアでの死が、進行形の現実であるにもかかわらず、風化しかけているように感じるのは、私だけなのか。

テレビでは、ボストンマラソンの爆破事件が伝えられていた。


2013-04-10

ケイパーの木



長年の友人であり、アレッポ博物館の館長であるK氏が3週間ほど前から、家族を連れて日本に来ている。



今日、機会あって、彼とその家族に会うことが出来た。昨年の2月以来である。



挨拶もそこそこに、アレッポ博物館や遺跡の被害状況の話となった。彼は3月の来日早々、日本の西アジア考古学関係者を交えて、このテーマでプレゼンテーションを行なったが、私はあいにくパレスチナ出張中であったため、彼の発表を聞き逃した。



「博物館の現状写真はいっぱいあるから、今見ればいい」と、彼は、パソコンをたち上げてくれた。



昨年秋、郵便局前の広場(サーダッラー・ジャーブリー広場)とアミール・パレスホテルで4台の自動車爆弾が爆発して、大きな被害が出たことがある。この二つの地区に挟まれた博物館では、この時爆風で窓ガラスが壊れたり、天井がめくり上がったりと、建物に大きな被害が出た。幸いなことに、主な展示品や遺物は、昨年春の段階でさる場所に移動・保管されており、大事には至らなかったのが不幸中の幸いである。



パソコンに、遺物のとり去られた空っぽの展示ケースが映しだされる。遺物がなくても、どこにおいてあった展示ケースかは覚えている。周囲一帯、ケースや窓のガラスの破片が飛び散っている。壁のタイルもはげ落ち、窓のブラインドはめくれ上がる。



移動できなかった石像やレプリカ像がこれらの残骸の中に見える。周囲を土嚢で囲んで保護してあるが、忘れ去られた残兵のごとく、それでも何か言いたげに佇んでいる。



私の20年間の想い出は、ここにあったはずだ。まだ3歳だった娘の奈々子を連れて、毎日通った。この移動出来ずに残っている大きな壷は、当時の奈々子の背丈ほどもあったっけ。写真を見ながら、そんなことが幻影のように浮かんでは消える。



古代オリエント第二室の突き当たりにある、巨大なアッシリアのエセルハッドン記念碑のところでは、すぐ脇に砲弾が飛んできたという。幸いなことに、直撃は免れたよ、とK氏は淡々と話す。



そんな一連の写真の中に、中庭を写したものがあった。中庭には土嚢で囲まれた玄武岩製の立像が写っていたが、そのよこに、ちらと緑が見えた。



ケイパーの木である。そういえば、いつも何気なくこの木はここにあった。入り口の所にある、数点のレリーフ石の向こうに、この木はいつも見えていた。しかし、入場者はこの木の存在など気に止めることもなく、展示されている数々の「重要」な遺物を見、そして去って行った。



そして、今。文字通り荒れ果ててしまった博物館の中で、この頼りなげな木だけが、丸っぽい葉の間にうす紫の小さな花を咲かせ、青々とその存在感を示している。






2013-04-03

蜘蛛の巣



シリアの友人たちは、皆、限界に来ている。精神的にも、物質的にも。

昨日の朝、FBを開けると、教え子のAからメッセージが来ていた。彼は家族のいるイドリブのアリーハに戻れず、数ヶ月をアレッポにある親戚の家で居候として過ごしていたが、メッセージから察するに、ようやく自宅にもどったようである。

お元気ですかと、型通りの挨拶のあと、イドリブの大学で、ギリシア・ローマの考古学を教えることになったと書いてきた。紀元前3千年紀の古代エブラ文書で修論を書いた彼にしてみれば全くの専門外である。

「他の先生たちはみんな国外に逃げてしまったために、こんな教科を教えることになってしまいました」

Aは、自分の専門領域の専門家のいるイタリアへの留学を希望していたが、奨学金がとれず、今は宙ぶらりんの状態になっている。
彼は、それでも一縷の希望を持ってパスポートを更新した。しかし、有効期限は1年しか与えられなかったらしい。

「来年の4月いっぱいでパスポートの期限は切れます。僕はまだ兵役に行っていないので。」
つまり、なにも手だてがないと一年後には、政府軍に入らねばならないのだ。

彼は続ける。「先生、イタリアの留学に関してはすごく手数をかけてしまいました。本当に、本当に申し訳ありませんでした。でも先生だけが頼りだったんです」

ここまで書いたとき、彼は感情を押さえ切れなくなったようである。

「だけど、今シリアでの生活はもう不可能になり始めました。何でもいい、なにか手だてはないのでしょうか?皿洗いでも、掃除夫でも、どんなことでもして働きます。もう父の年金では、文字通り食べることもままならなくなっています。物価は去年の3倍以上になっている。近頃は、お腹がすいたままで寝ることがよくあります。先生、ごめんなさい。こんなことを書いて。でも、誰かにこの苦しみをシェアしてほしいんです。」

「外国で勉強したい。奨学金がだめならば、働きながら勉強する。世界中のどの国でもいいから、シリアから遠い所に行きたい。」

この言葉をどう捉えればいいのか?彼は意気地なしなのか?彼の言っていることは「弱音」なのか? 

この状況下、ある者は自由シリア軍に入り、ある者は国外へ避難し、あるいはそれを余儀なくされ、難民となり・・。全てが、あまりに悲惨である。

そして、さらにそこには、シリアの変わり果てた国内で、彼のように、蜘蛛の巣に絡まった獲物のように、身動きのとれなった若者たちが存在する。

2013-03-27

金のブレスレッド



「まだちゃんと決めてないけど、たぶんあと10日もすれば、トルコに避難することになります。」
 一ヶ月ばかり前、教え子のAが久しぶりに語りかけてきたが、それは今、シリアの誰もが考えるチョイスの実行を伝えるものだった。


 彼女と彼女の家族が数ヶ月前からパスポート取得の手続きを続けていたことは知っている。その頃は、町の治安状況から、パスポートセンターに思うように行けないと嘆いていた。しかし、最近になってようやく パスポートを受け取ったらしい。


トルコでは頼る人はいるの?と聞くと、誰もいないという。まずは、逃れて、とりあえず生活の場を設営して、それから、働き口をさがすと。



トルコで何をして食べて行くのか聞いてみた。彼女は小学校の先生であるが、異国であるトルコで先生が出来るとは思えない。彼女の答えは、妹と一緒に、どこかの店の店員にでもなるしかない。もしその口もなければ、手芸が得意だから、それでなんとかする、というものだった。なんとも心もとない「計画」のもとに彼女らは両親とともにトルコへ行き、両親を養うことになる。


  単刀直入にお金はあるのか、と聞くと、「ええ。あります。向こうで家を借りて、必要最低限の電気製品などを買いそろえて、23ヶ月くらいなら生きて行けると思うの。」という。それにしても、それはそれなりにまとまった金額だ。どうして都合したのと聞くと、彼女 は「私の金のブレスレッドを売りました」と言った。


 彼女は、大学生のときからアルバイトをしていて、それを家に入れていたようだが、あるとき、両親がその一部を、貯金だからと、金のブレスレッドにして彼女に贈った。 しかし彼女も年頃の女性である。貯金とはいえ、おしゃれの一つでもあるブレスレッドを手放すのをためらいはしなかったのだろうか?


 彼女は、その私の問いを、きっぱりと否定した。「私たちは、まだラッキーですよ。もう売るもののない人たちがいっぱいいるんですから。」


シリアでは、金製品を持つことは一種の貯蓄であり、それを必要な時に売るのは極めて普通のやりくり方法である。しかし、両親のいる家庭で、あえて娘が自分のものである金を売るのは、それなりに切羽詰まった状況を示している。

ふと、大学での考古学実習のとき、土器をチェックする彼女の腕に金のブレスレッドが光っていたことを思い出す。そのときは、実習とは不釣り合いね、と彼女をからかったものだ。

そのブレスレッドがこんな形で彼女の腕から消える日が来ると、誰が想像しただろうか。
















2013-03-16

祈り



2000年のバッシャール・アサド政権の成立後、周囲に何となく「自由」な雰囲気をにおわせる動きが出てきた。ある同人はドマリ」という週間新聞を刊行し始め、紙上ではそれなりの市民の意見が採り上げられた。

あるときこの新聞の記者から、夫も投稿を依頼された。夫は主に考古学関係の問題を取り上げ、好評であったことから、その後連載のような形で記事を書いていた。

その中では、どの国でも問題となる、開発と考古遺跡保存の間の問題を何回か取り上げ、考古総局を批判したこともあった。

何回目かの投稿のあと、夫は無期の拘束を意味する首相命の令状を受け取った。2002年の9月、植林事業で危ぶまれているという遺跡の現状を見に行き、家に帰ってきたところを拘束され、問答無用で、アレッポの拘置所に拘留された。

その日夫は、アレッポ大学の日本センター主催の講演会で発表することになっていた。この集まりには、在ダマスカス日本大使も列席されていたが、夫の不在とその理由に場内は一時騒然としたようだった。

その後、各方面からの助力で、夫は2日間拘束されただけで釈放された。釈放後、当時のシリア首相であったムスタファ・ミロの所に行くようにとのお達しがあったらしく、夫は首相のもとへと出向いた。

ムスタファ・ミロ首相は、アレッポの観光開発のための協議のために当時アレッポに何度も足を運んでおり、地元の考古学関係者とも何回か会合を持っていた。夫は当時すでに考古総局を離れてはいたが、在野の考古学者として意見を求められ、会合の度に声高に物申していた。そのため、首相も彼のことをよく知っており、「釈放」された夫をにこやかに迎えたという。

「なんで、あんたはいつもそんなに声高なんだ。そうかっかすることはない。考古行政は考古総局に任せておけばいいんだ。いっぱい職員がいる。そうじゃないか、考古学のザイーム(重鎮)さんよ。」と、そのとき首相は言った。

夫はそれに、若干皮肉を交えて答えた。「私は、礼拝(サラー)は宗教省だけのものじゃなく、我々市民、一人一人のものだと思ってましたけどね。」

考古学に限らず、それぞれの分野に属するものには、それぞれの「祈り」「礼拝」がある。それぞれが、その「祈り」を口に出すことが出来るはずだ。それは、当然の権利であり、義務であり、政府のみに独占されるものではない。そのことを、夫は上のような、単純なたとえで訴えた。

首相は、声を出して笑った。そして「わかったよ。精進を期待しているよ。また会おう」と言い、戸口まで連れ立って送り出してくれたらしい。

その後、シリアで、それぞれの「祈り」は自由に口に出せるようになったか?
シリアで革命が起こったとき、各方面が、デモ参加者の言う「自由」の意味理解をいぶかった。しかし、それはそんなに複雑なものではなく、ある意味で、夫の単純なたとえのなかに表現されているように思う。それは、普通の市民の共有していた単純な疑問でもあった。

また、315日がやってきた。革命勃発から2年たった今、「祈り」は銃声の中でかき消されている。

2013-03-12

転機



アレッポで家族のようにつきあっていた女医の友人Sさんは、非常に多忙であったことから、長年、ハサンという男性を週一回掃除のために雇っていた。

彼はどちらかと言えば貧しい層に属する人である。しかし、働き者で、心底正直者であったことから、Sさんは安心して、家を留守にしても彼に鍵を託し、掃除を任せていた。

私も何回かSさんの家でハサンに出会ったことがあるが、仕事も丁寧で、ぞんざいな口をきくのを見たことはなかった。仕事をすることに感謝し、誠実に生きてきた人のようであった。

昨年の夏、Sさんがアレッポを出る少し前、そのハサンが電話をかけてきたと言う。その電話で彼は、自由シリア軍に入る決意をSさんに告げた。内戦で兄弟、親戚が次々と亡くなって行く中、その不条理に向き合うために彼に残った選択は、自由シリア軍に入ることだった。

彼は戦闘を好むような人物ではない。家族を愛し、自分に与えられた仕事を真面目に行い、慎ましく生きてきた、シリアにどこにでもいる愛すべき人物だ。
その彼が、あえて前線を選んだ。

「彼は、あのとき私たちに『別れ』を告げた。その後、彼がどうなったかは知るべくもないわ」

そしてこれと前後する時期に、あれほどシリアを、アレッポを愛したSさんが、国外に出る決意をした。

医師という、社会的にも高い評価を受ける職業のSさんと、そのSさんの家の掃除夫を勤めるハサン。この2人の位置は、社会的には極めてかけ離れたものだ。しかし、2人がそれぞれの選択をした時期は、ほぼ重なる。

昨年の夏、それはシリアの「革命」の一つの転機だったように思う。

「長引きすぎたわ。」とSさんは、先日避難を続けているパリでつぶやいた。「革命を理論的に担おうとした層の多くは、国外に逃れざるを得ない状況に追い込まれ、ハサンのような形で人が戦いに向かうようになったとき、「革命」は個人のレベルに降りてきたのよ。」

Sさんは続ける。「『革命』前は、私たちはリラックスし過ぎていた。国際社会に取り残されているのに、リラックスを続け、進歩した気になっていた。それはいつまでも続くものではあり得ないことだったのよ。いつかは、なにかが崩れるべきだった。でもそれがこんな形で起こるとは予想していなかった。」

「ヤヨイが昨年アレッポを離れるとき、いつここに帰って来れるのかしらと嘆いていたけど、その嘆きが私たちのものになるなんて、その時は思いもしなかった。」

彼女は、しかしその嘆きを振り回さない。望郷の念をパリの早春のなかにしまい込み、「国境なき医師団」に参加している。


2013-02-22

ユーフラテス川のほとり




حطو قبري بعارودة

وبراس رجم عالي

بلكي الحلوة تمر من هين

والفاتحة تقرالي
私の墓はアルーダに作っておくれ                      
あの高まりの墓のなかでも、一番目立つ所にね                    
ひょっとしたら、可愛い娘がやってきて                
ファーティハを唱えてくれるかもしれないから                  

これは、アレッポの北東部、ユーフラテス川のほとりに聳えるアルーダ山(ジャバル・アルーダ)一帯に伝わる、古謡である。この謡に詠われているアルーダ山の頂上には、シャイフ・アルーダ(長老アルーダ)を祀る祠があり、そのまわりには墓地が広がっている。そして今でも周辺の集落の人々は、この高まりに死者を葬る。

この古謡は、誰が詠んだのか。アルーダ山での一族の葬送を終え、一人頂に残った若者が、いつかは訪れるその日を、無邪気を装いながらも甘美な感傷を交えて謡ったのだろうか。
それとも、つれない「可愛い娘」への、遠回しの愛の告白なのだろうか。
彼の眼下には、ユーフラテス川が空の色を映して青い水をたたえる。かなた対岸には石灰岩の白い崖が、凛としたコントラストを見せて佇む。
春ならば、ヒバリが空高く舞い上がり、そんな中で彼はこの謡を口ずさむのだ。
この謡を聞いた時、そんな情景を思い浮かべた。

このアルーダ山の中腹では、1970年代に紀元前4千年紀末の神殿が発見され、非常なセンセーションを巻き起こした。少し下流のハッブーバ・カビーラなどの遺跡の発見とも相まって、メソポタミアの初期都市文明との密接な関連が証明され、ユーフラテス川を仲介とした、現在のトルコにまで広がる壮大な古代の交易ネットワークの存在が世に知らしめられたのである。

しかしその後、アルーダ山の上流と下流に二つの大きな多目的ダム(タブカ・ダムとティシュリーン・ダム)が建設され、ユーフラテス川はせき止められ、ダム湖が多くの遺跡を呑み込んだ。ひとりアルーダ山は高所であることから水没を免れ、静かな湖面に昔ながらの威容を映していた。

シリアの内戦は、しかし、このような静寂とした遠隔の地にも及んでいる。

数週間前に、自由軍がこれら二つのダムを制圧したというニュースが流れた。アルーダの近く、ハフサの町でも半年以上まえから衝突が断続的起こっていると聞いている。甥っ子のハムドゥーは、一昨日、メンベジ市の遺跡の番人が、爆撃の激しさに伴う遺跡の危機を訴えにアレッポに来た、と言っていた。ダムは多くの遺跡を呑み込んだが、一連の争乱は、この地域を丸ごと呑み込もうとしているようだ。

そんな折、FBで、妻を残して戦闘に参加している若者の写真メッセージを見つけた。目だけを出して、クーフィーヤを巻いた若者は、「あなたはこの目を見れば僕が誰だかわかるはず。他の誰にもわからなくても。」と妻に語りかける。

彼のこの語りかけに、ふと、あのアルーダの古謡を思い出した。

2013-02-09

夫への手紙

ハミードさん、あなたが私の前から居なくなって、今日(2月8日)で1年経ちます。この1年で、アレッポの、そしてシリアの状況は、加速的に劣化しました。あなたが、シリアの暖かい思い出を全て持って行ってしまったように感じることもたまにありますが、シリアの友人からの便りを読むたびに、そんな感情とは別に、時の歯車は回り続けていることを認めないわけにはいきません。

あなたの眠るビレーラームーン村には、今誰も住んでいません。村中が激しく破壊されて、くずおれた建物の一角に自由軍がひそみ、レジスタンスを続けています。すぐ脇のザハラ地区に政府軍が陣取っていて、そこから砲撃が村に繰り返されているという事です。

ハムドゥーは今、カファル・ハムラ村に避難し、弟のフセイン一家と一緒に住んでいます。たまに危険を冒してビレーラームーン村に行く事もあるようですが、あるとき、お義父さんの家が完全に潰されたのを見た、と言っていました。村はずれの義妹のアミーナの家は、ザハラ地区に一番近い事から、かなり早いうちから村の中でも最も危険な場所だったので、勿論家族共々別の村に逃げて、今は他の義妹たちの家族と一緒に住んでいます。

マフムードも逝ってしまいましたが、あのあと、残ったあなたの兄弟、従兄弟たちは逆に連帯感を強めて、自衛活動や救援活動を継続しています。フセインは元判事の経験をもとに、現在起こっていることを、法的に追っていこうとしているようです。

私は、日本にいて、彼らの動きを垣間見るしか出来ないのですが、それぞれが自分の置かれた時空の中で、立ち止まらずに何かを探しています。歴史を学んできた私たちですが、現在シリアで起こっていることは、図らずも私たち自身が「歴史」の中に組み込まれているのだということを、肌で感じさせてくれています。それは、途方もない痛みを伴なうものではあるのですが。

こんな訳で、今はお墓にお花を捧げる事も出来ません。ハムドゥーがあなたのお墓に植えてくれたオリーブの木は、少しは大きくなったのでしょうか。早く枝葉を伸ばして、あなたの上にやさしい陰を作ってくれればいいのですが。そして、その頃には、シリアにも新しい芽が芽吹いていればいいのですが。

2013-01-29

希望

アレッポ博物館の庭には、ヒッタイト時代の「2人の有翼の精霊」のレリーフ石が「展示」されている。博物館の前庭の片隅に置かれているため、たいていの入場者は気がつかないのだが、これは20世紀前半にアレッポ城内から偶然発見されたものである。

また、収蔵庫には、同じ頃、やはり偶然にアレッポ城から見つかった、紀元前18世紀頃のものではないかと推定される楔形文字の刻まれた建物の礎石の破片が保管されている。

私がアレッポ博物館に客員研究員として入って間もない頃、当時アレッポ博物館の学芸員であった夫はこれらの資料を誇らしげに見せてくれたものだ。

そして、1990年、アレッポでの最初の正月に、夫は私を、オールドスークから少し入った、アレッポの旧市街のアカベと呼ばれる高まりにあるキーカーン・モスクに連れて行ってくれた。このモスクの壁にはヒッタイトの絵文字の刻まれた石が使われている。この石はモスク建設に伴って、周囲が掘り返された際に出土し、その意味を知られることなく、壁に埋め込まれたようである。

夫は、この古代文字の彫り込まれた石を前に、このアカベの高まりの下には、ヒッタイト時代、あるいはそれ以前の遺構が眠っていることを熱っぽく語ってくれた。アレッポ博物館にある、上記の遺物ともあわせて、アレッポの古代は、今のオールド・アレッポの城壁内や、アレッポ城そのものの下にあるのだ、と。そして、それは、我々シリア人の手で掘りたいと。

その後、1994年に夫はアレッポ城内の短い発掘を行なったが、様々な策謀の結果、翌年には発掘はドイツ隊に委ねられる事になった。夫は激しく失望した。アレッポ城こそは我々シリア人が掘るべき場所なのにと。

いずれにせよ、その後、アレッポ城からは、紀元前二千年紀の 神殿のあとが見つかり、さらに紀元前3千年期の遺構の一部も確認された。ドイツ隊の手によってではあるが、ここにアレッポの古代が見え始めたのである。

 その後、2002年に夫は大学に移り、学生たちにその思いを伝えるべく、教鞭をとり始めた。そして、 次の年の初夏だっただろうか。夫は、件のアカベのキーカーン・モスクに学生を連れて行き、私に説明してくれた以上に熱く、この高まりに埋もれているであろう古代のアレッポを学生たちに語った。

学生を教育して、基礎を十分に作って、調査をすればいい。今からだ。その思いを彼も、私も、学生も、皆がシェアしていた。施設も制度も不十分だったが、そこには希望があった。


 
そして、今年1月15日。アレッポ大学が空爆され、80人以上が死亡する事件が起きた。将来を託される学生の多くが犠牲になった。試験の初日だった。こんな内戦状態の中でも、まだ試験を受けに来る学生がいたのだ。まだ、そこには、なにがしかでも、希望を捨てない若者がいたのである。

その希望をこの空爆は無惨に 打ち砕いた。

数日後、最近アレッポ大の考古学で教えることになった友人のメッセージが入っていた。「私はハミード先生やあなたが基礎を作ってくれた考古学科で今、教えています。ありがとう。私はシリアを愛しています。だから、何があってもこの国を守って行きたい。最後の瞬間まで。」

この思いがもう一度、希望を蘇らせてくれる事を祈りつつ。 そしてこの思いに加わることを願いつつ。