2013-08-09

イード・アル=フィトル(ラマダン明けの祭り)


再び、ヨーロッパに逃れたMSの話。



MSは無事ヨーロッパのとある国に着いた。今は政治亡命の申請をしているという。各国からの亡命志望者や、難民申請をする人たちを収容する施設にいるらしい。ネットがようやく使えるようになり、人恋しいようで、このところよくスカイプ通話を仕掛けて来てくれる。



離反以前、シリア国軍では大佐だった。革命勃発以来反政府の拠点の一つとなっているマアッラト・ヌアマーンの出身。マアッラト・ヌアマーンの土地柄は質実剛健というところか。シリアで、夫の親族が集まった時などに見かけはしたが、親しく話したことはなかった。夫は「遺跡の話なんかすると、他のヤツより結構興味を持って聞いてくれるんだ」と喜んでいた。しかし、私としては、彼に対してちょっと「強面な人物」という印象をもっていた。



革命以来、FBで繫がることになり、トルコの、離反士官たちが住むキャンプから、時折自由シリア軍関係の情報を伝えてくれた。そして、その都度、軍人らしく、極めて率直な意見をよく述べてくれた。



ある時、キャンプの内部の様子をビデオで見せてくれたことがある。テント生活を初めてから数ヶ月が経っていたが、テントは極めて殺風景あった。彼らの隣人に子供が生まれたと、隣人のテント内も見せてくれたが、赤ちゃんをくるんでいた毛布は、軍人のそれのような粗末なものであったことを今でも思い出す。



彼の妻G、つまり私の義理の姪は、常に彼と一緒だった。トルコのキャンプでも、彼が再びシリアに入り自由シリア軍として銃を再びとったときも、彼と行動を共にしていた。最初MSは、妻は残してシリア入りするよ、と言っていたが、Gは最終的に彼のもとにやって来たらしい。



彼らの間に子供は出来なかったのだが、それが故にかえって強い絆で結ばれているようだった。



しかし、今回、彼は妻を残してこざるを得なかった。密出入国という手段をとらざるを得なかった逃避行。それに伴う危険を、彼女に負わせるには行かなかった。落ち着いたら、呼び寄せるのだと言う。



「妻のGが恋しくてしょうがないよ。」



昨日の通話で、彼が、ぽつんとつぶやいた。



「革命はまだ終わっていない。甘い事を言うべきではない。だけど、今は妻に会いたい。」



強面だと思っていた彼が、シリアでの最前線に加わっていた彼が、「奴隷船」のような乗り物でヨーロッパに渡ることを躊躇しなかった彼が、今、そうつぶやく。



そして、ヨーロッパの片隅で、一人ぼっちのイード・アル=フィトル(ラマダン明けの祭り)を過ごしている。