2012-08-04

人々は強く


アレッポでの本格的な「戦闘」が始まったとき、スッカリという地区にいる友人が、現地時間の早朝にチャットをしてきた。スッカリはサラーハッディーン地区と同様、アレッポの中では一番、激しい闘争に巻き込まれている場所である。

彼は、その時、自宅から若干離れた友人の家にいたようだが、激しい銃声、砲声で夜は眠れず、かといって家にも戻れない状態であったらしい。チャットの途中で、スッカリの自宅にいる彼の母親から電話がかかって来た。母親は「今は帰ってきちゃダメ」と言っているらしい。

でも、ということは、お母さんたちが大変なことになっているんじゃない!というと、今、このあたりはもうどこもかしこもだめだからね、と結構落ち着いている。しかし、かなりの確率で、かなり危険な目に会う、と覚悟をしている。実際、「死ぬかも知れない」という表現を使った。普段なら冗談にしか聞こえない言葉が、今は真実になってしまっている。そうこうするうちに、ネットが切れたのか、停電になったのか、彼はオンラインから消えた。

その日のニュースは、アレッポでの激しい戦闘が一面を飾っていた。集中的に戦闘が行われているサラーハッディーン地区には、一般人はもうほとんど残っていないと伝える。

そして2日後。彼がオンラインにいた。今、ハラブ・ジャディード地区の友人の家に家族全員で避難している、と伝えてくれた。よかった、とりあえず、逃げたんだ。「走ったよ。とにかく走った。走るしかなかった。」と言っていた。多くは語ってくれない。でも、彼のこの言葉は十分に戦慄的だった。

同じ日、女医のSさんは、自分のもうひとつの持ち家を、サラーハッディーンから逃げてきた人たちに解放したという。また、FBをみたら、彼女や他の数人が、どこの学校が「避難民」を一時「収容」しているか、どの病院が救急の用意があるか、などを掲示していた。

おそらく、ネット以外でもこういったニュースがなんらかの形で伝えられ、自助努力がなされているのだろう。政府が「なけ」れば、自分たちでやるしかない。こんなどん底で、人が動いている。

ダマスカスでも、戦闘が激化したあと、やはり友人が、救急病院、薬局、避難所などを詳しくFBに載せていた。

出口はまだ、一向に見えない。

だけど、シリアには、まだ人がいる。信じるしかない。

2012-07-28

愛おしい祖国


友人のSさん一家は、レバノンにまず出るということになったらしい。第一の目的は息子のH君のフランス留学が決まったため、ベイルートのフランス大使館での手続きをしなければならないからだ。(ダマスカスのフランス大使館は閉鎖)

しかしそのあと、再びシリアに戻るのか、そのままフランスに家族で行くのか、まだ決めかねているともいう。フランスに行ったら、今までの蓄えを切り崩して生きていくしかない。シリアでは、建築士の夫の仕事は全くストップしていて、彼女の病院勤務の給料で生活している。医者であるから、他の仕事よりはまだ良く約1000ドルで、暮らしていけないわけではない。しかし、状況を考えると、毎月の給料と安全を天秤にかけてしまうという。

「ばかげた計算かも知れないけどね。それに国外に出るという考えはずっとあって、私たちにはまだそれをする余裕も若干あるけど、でも最後に煮え切らないのは、国を捨てるのが悲しいからなの。」

「カイロにも行った。同じアラブの国で、そこでもいいかも、とかも考えた。だけど、シリアは、そしてアレッポの街は特別の香りがある。なんて、素晴らしくて愛おしい街なのだと、今更噛みしめているの。この国が、この街がなんて大事なんだろう、って。」

この気持ちが彼女を、毎日銃声や砲撃の絶えない街になったアレッポに留めている。

ダマスカスの友人の言葉を思い出した。彼女は言う、「ダマスカスは母親のようなもの。ここを離れては生きていけない。ここを失くしては生きていけない。喪失の危機に瀕して、初めて、こんなにこの街を愛しているのがわかったわ。」

「ダマスカスは「歴史のある街」なんて言うけど、それって本の中のものじゃないのよ。古い街区の中を歩いて、そこの匂いをかいで、そこにいるスークのおじさんと話しをして・・・それが私たちの歴史なのよ。今ほど、ダマスカスが好きだって思ったことなかったわ。」

二人の友人の、自分の街への思い。これが、シリアを作るものなのだ。しかし、そのために、やはり犠牲の血を捧げなければいけないのだろうか。

フェースブックを開けると、「三日間連続の砲撃、110発が、僕の地区に打ち込まれています。3日連続停電、15日間断水。先生、神様に祈っていてください」イドリブのアリーハにいる教え子の、おそらく停電の合間に書いたのであろうメッセージが、残っていた。

2012-07-25

自由シリア軍


甥っ子のハムドゥーが現地の勤務時間にチャットをしてきた。おや、と思い、話し始めると、「今、考古局だけど、今日は、逃げてきたよ」という。

びっくりして、何があったのかと聞くと、街中の考古局の一支部にいたら、近くの地区(バーブ・アル=ハディード)で、バスが炎上しだしたという。銃撃も遠からずのところで始まり、また上空には軍機が飛んでおり、アレッポの半分くらいの地区で衝突が起こっている感じだという。しかし考古局のあたりは、別世界のように普通なので、まずはここに「避難」したらしい。

衝突に関しては、もう話したくないようだった。生活は、と聞くと、またガスの価格の話しになった。この数日、再び狂気の値上がりで、昨日、今日で4500ポンドになったという。つい1週間前に、3200ポンドだと聞き、仰天していたのに・・・。ラマダン月に入り、断食後の食事には、少なくとも火を使って料理したものを食べたいものだ。しかし、ガスがないと・・・。

この値段が上がった、あの値段が上がったという話しのあとで、「結局僕はなにをすべきなんだか。自由シリア軍に入るべきか?」などと言い出した。

何を言ってるの、と言おうとしたら、「M叔父さんも自由シリア軍に入ったんだ。」という。え、だって彼はトルコに逃げたんじゃ?と言うと、トルコに逃げたあと、警察を離脱したことを表明して、向こうで自由シリア軍に入ったと言う。

その他、彼の知り合いは、ずいぶんたくさん自由シリア軍に入っているらしく、一種の「自由シリア軍に入る雰囲気」が流れているようである。しかし、戦闘が激化する中、自由シリア軍に参加するのは、冗談ではない。まさしく、命の問題になる。日常生活をしていても、命の保障はないような事態になっているのだから。

彼らの「自由シリア軍」への参加の思いは、単なる思い付きではないと思う。国際社会とやらは、双方に武器を納めよ、と言う。そして、私は、血を流さないで、と言う。しかし、人々は現地の切実さの中で、やはり何か決断を迫られる。

これが、「戦闘が始まった」ことの本当の意味なのか。

ハムドゥーの言葉に返す言葉が見あたらなかった。

ぼうっとしていると、「今日はもう仕事にならないから家に帰る。またね」と言って、彼はオンラインから消えた。

2012-07-22

ついにアレッポも


ラマダン月が始まった。今年のラマダンは、シリアにとって、去年以上に厳しいものになりそうである。

まず、ラマダンの始まりが問題であった。サウジが20日にラマダンの始まりを発表したが、シリアは、イランと歩調を合わせて、21日に始まりを設定した。これに反対する人は、20日から断食を始めた。そうすると、20日に断食を始めたかどうかで、政府側、反政府側の活動家というレッテルを張ろうする向きが現れた、という。

教え子のWが、これを嘆いた。確かに、この行為は反対の表明ではあるかもしれないが、だからと言って、急に急進的になったわけではない。また逆もそうである。なんで、すべて二つに分けるのか。無用な分類であると。

しかしながら、20日から、アレッポでも、事態は急速に悪化しだしたようだ。

ある教え子は、30台の戦車が競技場前の通りを通っていった、という。また、先のWの父親の事務所は、アレッポでも一番状況の悪い地区にあるが、昨日事務所に行ったら、銃弾の痕が残っていたとも聞いた。そして政府軍が、アレッポ、サラーハッディーン地区にいる戦闘員たちに、24時間の猶予を与えた、という。

猶予、つまり、その間に投降しなければ、徹底攻撃ということだろう。

そして、先ほど、友人のSさんからのメッセージで、アレッポ空港が閉鎖され、パリからカイロ経由でアレッポに帰る予定の娘のGちゃんが、カイロで足止めを食らっていることを伝えてきた。

教え子の女の子は、昨日は朝からずっと銃声や砲撃の音が聞こえるといって、家に閉じこもっているといっていた。

ついにアレッポでも。でも、まだ信じられない。

こめかみのところが痛い。昨夜から今日にかけてのアレッポからのニュースが、私を、まだ夢を見ながら、早くこの夢から覚めたいと思っている、そんな状態にしている。

聖なるラマダンに祝福あれ。

2012-07-17

帰還


一昨日、捕まって刑務所に入っていた2人の甥っ子が帰ってきたというニュースが来た。

伝えてくれたのは、やはり甥っ子のハムドゥで、よかったね、というと、「それが・・まあ帰ってきたんだけど、めちゃくちゃやせて帰って来たんだ」と言う。

「骨と皮っていうのはあのことだ。あいつらに比べたら、ヤヨイなんかずっと太ってることになるくらい。」なのだと。

そして、「もちろん会いに行ったけど、問題は、あいつら、なんだか腑抜けみたいになってたんだ。ボーっとしてなんだか、頭がヘンになったみたいな感じだった」という。

ショックだったが、それはそうだろう。短期間にそんなにやせて帰ってきたと言うことは、この一ヶ月ちょっとの間に、よほど厳しい環境にあったのだろうから。精神的にもダメージが大きいことも想像がつく。

帰ってきた二人のうちの一人は、高校時代、歴史に興味を持ち始め、夫がよく「講義」をしに彼の家に行っていた。

彼の家、すなわち義理の妹の家はアレッポ郊外の村にある。広い庭やベランダがあり、夏の宵には夫はそこで「戸外レッスン」をした。アレッポの夏は、昼間の暑さは厳しいが、夕方になると、素晴らしく涼しい風が吹く。ましてや、彼女の家は田舎家で、寒いくらいに風が吹くこともある。そういう時は、寒がりの私は、彼女の持ってきてくれる毛布に包まって、夫の「レッスン」を聞いた。

甥っ子たちは、元来非常に元気のいい、素朴な田舎の青年たちだ。力仕事もいとわない、強健な体を持っている。その彼らが、今、怯えたように、やせた体で、あの風の中にいるのを想像するのは、なにか悪夢を見ているようである。

それでも、義理の妹は、慣習的な意味もあり、帰還祝いの昼食会をするようだった。アラブの美徳でもあるのだが、彼女は人を「招待」をするのが好きである。大変なのよ、などといいつつ、呼ばれていくと、いつも食べきれないほどの料理を勧めてくれた。だけど、今回、彼女はどんな気持ちで招待の料理を作っているのだろうか。

おそらく、しばらくしたら、若者たちは体力を取り戻すだろう。精神的にも、落ち着くだろう。しかし、この一ヶ月間に起こったことを、そう簡単に忘れることは出来ないだろう。

彼らだけではない。今、シリアでは、彼らのような例は五万と起こっているに違いない。しかし、それは空恐ろしいことではないか?何かが揺れている。武力抗争の影で、もっと恐ろしいことが起こっている。

ハムドゥはさらに伝えてきた。「また、今日も村の人が2人死んだ。兄弟でね。石切職人だよ。車運転してたら、撃たれたらしい。ヤヨイも知ってる人たちだと思うよ」

「おじさんは、死んで、こんなこと見聞きしなくてよかったのかも知れない。あれで、よかったんだ。僕もほんとに明日がわからなくなった」近頃は、ハムドゥもすぐに弱音を吐く。

他の人に言えないのだから、私が聞くことで少しでも吐き出せるならと、思う。でも、停電が毎日8時間である今、チャットも最後には駆け足になる。


(追記)
ガスボンベはついに3200ポンド(約6000円)になってしまったという。つい2週間前は2200ポンドだと言っていたのに。ちなみに私が去年の4月、最後に買ったときは、手数料を入れて350ポンドだった。

2012-07-07

奈々子の友達Sちゃんの決断


6月の初めだっただろうか、娘の奈々子が「お母さん、Sちゃんがホムスに仕事場を変えるらしいよ」と言った。え、と一瞬耳を疑った。

Sちゃんは、ホムスに両親の実家がある。数年前、奈々子が他の友達と一緒にベイルートに言った際、行き、帰り、その実家で世話になった。現在も、他の親戚も含めてまだホムスに残っているとは聞いたが、わざわざ今、この時期に彼女が行かなくても。

しかし、もう決めてしまったようだった。彼女は私たちが2月にシリアを離れるときに、シリアの現状を知ってほしいと、手紙を託してくれた。あのころから思いつめてはいたことは知っていた。しかしこの決断・・・・。ホムスの一部は壊滅的な状況だが、まだ街のなかでも大丈夫なところはあるのだろう。だけど、アレッポよりは、かなり状況は悪いのは周知である。

そのあと、彼女は、何日かたって、フェースブックに「ホムスに着いた」という知らせを出したらしい。それ以外のことはわからない。仕事といっても、まともに出来る状況なのか?

女医のSさんとスカイプをしたときに、彼女は言っていた。「勇敢なのか、気違い沙汰なのか・・・、でも彼女は敢行したのよね。」と。前の彼女なら、絶対に反対意見を言ったであろう。しかし、今はSさんでさえ、彼女の決断を頭から否定しない。事態がそうさせていることが、Sさんのある種の沈黙から読み取れる。

彼女を送り出した親御さんはどうなのだろう。Sちゃんの父は退役軍人である。Sちゃんが反体制デモに行くことを怒っていたという。しかし、今回、彼はどのようにして彼女を送り出したのだろうか。

お父さんたちの時代はずっと黙ってた。私たちまでで黙りはおしまいなのよ。2月に奈々子が会ったとき、彼女はそう言っていたらしい。

自分の娘の決断が、もし、このようなものにならざるを得ないとき、私は何を考えるだろうか。

今は、彼女の無事を祈るしかない。

2012-07-01

何処へ


先日、友人の女医、Sさんと2日続けてチャットできた。最初の日は、彼女の娘、Gちゃんが今夜パリに発つ、という日だった。夜中の2時の飛行機だけど、空港までが危ないわ、と心配していた。

次の日に聞くと、無事に旅立ったと言う。「これで彼女はとりあえず安全なところにいることになったわ」と安堵しているようだった。

でも、彼女を送っていった夜中は、近くの村を攻撃するロケット砲の光がよく見えたわ、と言っていた。音も結構だったから、なんとなく眠れなかったと。

そして、「私たち、移住することを考えているの」という。え?フランスに?と聞くと、娘と息子はフランスに、私たち夫婦はトルコに行こうと思っているのだと。「子どもたちはまだ将来があるし、そういう意味では、フランスにはとりあえずツテもあるし」

「私たち夫婦はフランスで、何が出来るわけでもないし」と続ける。でも、トルコに行くと、医者を続けることは出来ない、とも。

じゃあ、何をして生きていくわけ?と聞くと、「まずは、トルコ語でもマスターするわ。ま、そうは言っても、まだ決定したわけじゃないのよ」

彼らには、他の家庭よりは余裕がある、だからこそそんなことも考えるのかもしれないが、家族一緒にフランスで暮らすのは、やはり負担が大きすぎるのだろう。また、トルコであれば、近い。家のこともそれなりに気になるだろうし、帰ろうと思えば、すぐに帰れなくもない、そんな勘定もあるのかもしれない。しかし、問題は、彼女らまでが、国を離れることを考え始めているということだ。

ついこの前、夫の弟で、警察官をしているMが家族と一緒にトルコへ「逃げた」と聞いた。彼に関しては、「政府側」と見られ、身の危険を感じ出したという背景がある。

この話しをしてくれた夫の娘Oは、もう一生おじさんに会えないかもしれないと泣きそうだった。捕まった従兄弟達もまだ戻ってきていない。

教え子のことも気になる。エブラ語をやっているAにメッセージを残しておいたら、返事が来ていた。なんと、彼ら家族は再び、アリーハ(イドリブ)に戻ったらしい。やはりアレッポでは家賃の支払いなどが大変だったのだろう。しかもアレッポも近頃安全なわけではない。だけど、イドリブよりはましだろうに。

彼は書いていた。「パンを買いに行くにも命がけです。毎日死者のでない日はない。街のそこら中がめちゃくちゃになって、そこら中で銃や爆発音が聞こえます。だけど、他に選択の余地はないので、自宅に戻りました。神様に祈っていてください」と。

胸のつまるような思いがした。

このメッセージを読んだあと、旅行代理店のJさんからスカイプ・コールが来た。他の家は、ネットの具合が悪くて、チャット以外はほとんど出来ないが、彼のところは、商売柄、常にボイス・コールが出来るようだ。

彼に、女医Sさんの話をしたら、「ああ、その話なら知ってるよ。だって、彼女僕のところで娘さんのチケット買ったんだから。そのとき、そんな話もしてたね」と言ってくれた。

あなたはどうするの?と言うと、「僕は勿論残るよ。勿論仕事もあるけど、それ以上に僕はこの社会に存在するという責任がある。みんな事情があって外に出て行く、それは仕方がないけど、みんないなくなったら、シリアの社会がなくなるじゃないか。僕の場合は、ここにいるということが、今のご時世、僕のシリアに対する責任だと思ってるんだ。だけど、出て行く人を非難はしないよ。彼らなりの十分な理由がありすぎる。みんな好きで出て行くわけじゃない。」

「1965年以降、シリアの社会は、ゆがめられてきた。この年号の意味するところ、わかるだろ。あれ以来僕らは疑心暗鬼で生きるようになった。勿論、それ以前と変らない部分もあったわけだけど、社会の隅々がゆがみ始めた。「疑う」ことでね。我々の間に不信を植え付けた(政府の)責任は重大だ。僕は65年以前を知っているが故に、それをより強く感じる。」

「でも、僕たちはそれなりにやってきた。そして、今。出て行かざるを得ない人は、そうするより他ないんだ。これが、この40年間の一つの結論なのかもしれない。」

彼も、何か吐き出したかったのか、いつもより饒舌だった。スカイプでこんなこと言っていいのかしら、とも思ったけど、彼は関知していないようだった。

そして、「きのう、刑事警察のとこ、ほらここから100メートルのところで結構な爆破事件があって、クリスチャンのおばあさんが亡くなった。かわいそうに。だけど、アレは、その前後のことから考えて、やらせだね。はっきりしてるよ。」と。

アレッポの20世紀前半のことを知りたかったら、これこれという本を読めばいい、と数冊の本の題名を私に教えてくれ、いつになく長いスカイプ・コールを終えた。

2012-06-23

自暴自棄


ラタキアにいる友人に、先週激しい攻撃があったというハッフェの街のことを聞いてみた。この数日静かだというので、なぜだろうと思うと、もうほとんど誰も町に残っていないからだという。

町を逃げるときに置いてきぼりを食った、足腰の立たないような老人たちのみが残っているようだと。逃げるときには、彼らうをつれていくような余裕が全くなかったらしい。

残ったその老人たちはどうするのだろう、と聞く間もなく、シリア軍、ロシア軍、中国軍、イラン軍が共同軍事演習をするというニュースを見たか?と彼が聞いてきた。

確か、ネットでそのような記事を読んだが、シリアとロシアは報道を否定していたような気がするがというと、彼は続けた。でももしほんとにそうなったら非常に危険だ。何が危険かって言って、ロシアとか中国が危険なんだ、という。

今、家族を失い、将来を絶望している人たちが増え続けている。その人たちは、もう何も怖くない。ロシアや中国に何かを仕掛ける可能性だってある。当地の共感者を使って、騒動を起こすこともありえる。そうならないことを望むけど、そういう極めて悲観的な可能性だってあるんだ、と。

現実的ではないのかもしれないが、そこまで追い詰められている人が出てきているのは確かなのだろう。

この前は、夫の甥っ子二人が仕事から帰る途中に連れ去られたと聞いた。もう一週間ほど前になる。今日はハムドゥが久しぶりにオンラインにいたので、その後どうなったかを聞いてみた。誰に連れ去られたのかも、そのときはわからなかったので、それも確かめたかった。

ああ、あの二人?と、ハムドゥは私が知っているのにびっくりした様子だった。そして、まだ刑務所にいるらしい、と答えた。

「刑務所!刑務所って!?」ユーチューブや他の忌わしい映像が、一瞬頭に浮かぶ。

「ああ、でも、こんなのはもう普通だよ。まだいいほうだ」と続ける。刑務所拘置が普通?いいほう?

そして、いつもは楽天的な答えをする彼が、いつになくこう書いてきた。「今日は、僕だってこうやってヤヨイと会話してるけど、明日になったら死んでるかも知れないからな。」なにを言ってるのよ、と返事をしようと思ったら、「ほんとになにがいつどこで起こるかわからなくなった。正直なところ、これが現実なんだ」と。

こんな調子のハムドゥは初めてだ。いつも、鷹揚に構えていた彼の口からこんなことを聞くとは。

アレッポ北部近郊の村々では、毎日砲撃があり、かなり壊滅的になっているという。ハムドゥの村、すなわち夫の眠っている村からも程遠くない。

夫の耳にも、砲撃の音が近づいているのが聞こえているのだろうか。

2012-06-14

シリアの6月


私が初めてシリアに降り立ったのは1989年の6月16日の夕方だった。飛行機から出た瞬間、「暑い国」という先入観に反して、心地よい涼しい風を感じ、えらく驚いたのを今でもはっきり覚えている。

その後、かなり厳しい昼間の気温を実感することにはなったが、夕方にはたいてい涼しい風が吹き、昼間の暑さを忘れさせてくれた。シリアの6月は、一年の中で私の一番好きな月である。

シリアの6月は何と言ってもさくらんぼ。甘酸っぱいさくらんぼをキロ単位で買い、天水で育てた太短い、味の濃いきゅうりと一緒に大きな皿に山いっぱい盛る。6月も中旬を過ぎるとそれに杏が加わるが、これもナマで食べてよし、ジャムにしてもよし。

杏ジャムは、シリアでは天日で作る。6月も末になると、そこらじゅうの家のベランダに、杏の入った、ガーゼで覆いをした大きな盥が「展開」する。10日から2週間くらい、たまに混ぜながらジャムとして熟成するのを待つのである。

果物だけではなく、6月にはいろいろ素敵な出会いもたくさんあった。たとえば、この時期には、例年、フランスのウガリト文書解読チームがアレッポ博物館に2週間ばかり滞在し、博物館所蔵の粘土板文書を研究する。

チーム代表のデニス・パールディーと夫が親しかったことから、よくチームを家に招き、食事をしたり、研究の成果などを聞いたりしたものだった。6月生まれの奈々子の誕生日を彼らと一緒に祝ったこともある。最高の誕生日だった。

彼らはアレッポでの研究が終わると、ウガリト遺跡の発掘に参加するために、地中海沿岸の町、ラタキアへと向かう。勿論彼らだけではない。シリア人の中でも、期末試験の終わる6月から、子どもたちをつれてラタキアへ向かう家族は少なくない。港町特有の解放感もあることから、夏のラタキアは人気スポットであった。

しかし、今、他の発掘隊と同様、ウガリト発掘隊も現地調査を昨年来停止している。アレッポ博物館での研究も中断されたままだ。

ラタキアでの開放感はもう今では遠い昔のようだ、とラタキアにいる友人が先日メッセージを送ってきた。街での治安取締りの厳しさは増しているらしい。そして、なんだか、近々、物騒なことになりそうなんだ、と言う。そしてその予感は、不幸にも当たってしまった。

メッセージを受け取った次の日のニュースで、ラタキアにほど近いハッフェの街が包囲されているということを知った。日本時間の昼前、シリア時間ではまだ夜の明けていない時間にその友人がオンラインにいて、私がPCをあけた瞬間にメッセージを送ってきた。

何か凄まじいことがハッフェで起こっているが、地元のものにも詳細はわからない。友人と同姓同名の人物が死亡したといううわさを聞き、人違いとわかったものの気が気ではなく、一睡も出来ず、こんな時間にPCの前に座ってるんだ、という。

古代には、エジプトとヒッタイトにはさまれながら、これらの二大強国をしたたかに「いなす」という知恵をもち、繁栄を保ったウガリト王国。そのウガリトを擁したシリアが、それから3000年以上を経た今、内部の抗争への解決手段を見出せないでいるのだ。

2012-06-05

二つの追悼式


6月4日と6月6日に、ダマスカスとアレッポで、夫の追悼式典が行われる。5月の頭にこのニュースが来たとき、今の状態では行けないなあと思っていた。

皆が集って、夫を偲んでくれる場にいられないのは、寂しかったが、それもいたし方ないと思っていた。会にはメッセージを書き送って、読み上げてもらおうと思っていた。

最初の予定では、両方が5月30日に行われる予定だったが、5月27日ころにFBを開けたら、ダマスカスの会が6月4日に変更になっていた。そして、ほぼ同時にアレッポの分も、6月6日に延期されたことを知った。

ここで、心が動いた。まだ、間に合う。行きたい。行かなければ。行こう。熱に浮かされたようになった。

確かに、今、私が行かなくても、誰もなんとも言わない。ハミードさんは帰って来はしない。今は非常事態なのだ。私が行くことで、シリアの友人に迷惑がかかることもありうる。そういう意味では気違い沙汰だ。

こんな想いが頭の中で渦巻いた。そんなときに、ハミードさんが学生に囲まれてピースしている写真を見てしまった。あのピースは彼の「思い」であり、私の「思い」だったことを思い出した。そして行動にでてしまった。何も言い訳できない。

今は考古学どころじゃない。でも、シリアの彼らに未来は来ないのか?未来に投資しようとした私たちは、今すぐのご利益ではなく、未来にかけたではないか?それを示したい。自己満足かもしれない。

そんな思いを抱きつつも、在京のシリア大使館に行き、ビザを申請したのが5月30日。その帰り道に大使館からの電話があり、翌日の木曜にとりに来るよう言われたので、6月2日のフライトを予約した。その夕方のニュースで、シリアのホウラで起こった虐殺への抗議意思表明として、日本がシリアの在日外交官の国外追放を決めたことを知った。しかし、ビザは翌日受け取ることが出来た。

ダマスカスでの動き方、アレッポへの移動等、シリアの友人を通してばたばたと行った。このようなことは普通、アレッポ旅行代理店のJに頼むが、この数日彼はオンラインにいない。おそらく国外出張なのだろう。メッセージはとりあえず残しておいたが、時間もなく、仕方がないので、他の数人の友人と連絡を行って、アレンジをどうにか終えた。

日本人の友人にも、話しを聞いてもらった。自分でもこの決断が怖かったので、背中をもう一押ししてほしかったのもある。

そして、1日の夜中2時ごろ、このブログの前半を書き終えたとき、代理店のJからスカイプ・コールがあった。彼はウィーンに出張していたが、アレッポの彼の息子との電話を終えたところだという。

「メッセージは見た。だけど、今回はシリアに来るのはよしたほうがいい。今の今、息子と話したけど、政府側がアレッポだけでも2000人規模を動員して、弾圧に当たっているらしい。息子は今、事務所を閉めて帰る道で、政府側が無差別に発砲しているのを見たと言っていた。政府は今、やけっぱちになってるんだ。何が起こるか、本当に本当にわからない。」

ダマスカスは?と聞くと、「ダマスカスはアレッポよりマシだけど、アレッポが今蜂起した以上、ダマスカスにも飛び火する可能性は大きい。」

「やめたほうがいい。あなたのご主人への追悼の気持ちはわかる。だけど、彼だってあなたを危険な目にあわせたいとは思わないよ。」彼の声は緊迫していた。

しばらく沈黙したが、「ありがとう。中止します。」のどもとにある、熱いものを飲みこんで、そう伝えた。