2013-08-25

化学兵器



821日にダマスカスで化学兵器が使用されたらしい。


ネット上には、おびただしい数の犠牲者、特に子供たちの犠牲者の写真やビデオが一斉にアップされた。



あるビデオは、なんとか目を開けようとする2歳くらいの男の子に、父親と思われる人が必死で呼びかける様子を写し出していた。しかし、この男の子は、その呼びかけもむなしく間もなくぐったりとなり、息を引き取った。

https://www.youtube.com/watch?v=Kl3TZ1VKFS4&feature=player_embedded
 

犠牲者の正確な数はわからないが、1300人とも1600人とも伝えられる。早朝の数時間で、これだけの人々がサリンガスと思われる化学兵器によって亡くなった。



ダマスカスには、私たちの支援活動「イブラ・ワ・ハイト(針と糸)」に賛同して刺繍を製作してくれている女性たちがいる。彼女らは、すべてが男手を失った家庭の女性で、細腕で子供たちを育てようとしている。



気丈な彼女たちは、最初にイブラ・ワ・ハイトの活動への参加を決めたときも、「支援活動を通して売ってもらう製品だからと言って、変なものは作れない。誰にも笑われないような素敵な刺繍を作るわ。」と頼もしいメッセージを送ってくれていた。



実際、最初の便で私たちの手元に届いた作品は、その気概を十分に感じさせるものだった。そこで今回私たちは、彼女らに大物の壁掛けに挑んでもらう事にした。8月初頭に、そのうちの一つが出来たと、写真が送られて来た。期待に反しない、素晴らしい出来だった。



彼女らの今回の製品は、小型のものも含め、予定では20日前後に揃い、ダマスカスからの第二便として送り出されるはずだった。



そこに今回の事件が起こったのだ。ニュースを聞いた時は、脚が震えた。シリア国外から仲介をやってくれている友人Sに、彼女らの工房は、現場とどのくらい離れているのか、と聞いた。彼は、「ひょっとしたら、かなり近いかもしれない」と言う。



今日(23日)入っていたSからのメッセージは、未だに「通信機能のみならず全ての動きが麻痺しているよう」で、「何も情報がない」と伝えて来ている。



今はただ、彼女らの、そして彼女らの子供たちの無事を伝えるニュースを待つしかない。






















2013-08-09

イード・アル=フィトル(ラマダン明けの祭り)


再び、ヨーロッパに逃れたMSの話。



MSは無事ヨーロッパのとある国に着いた。今は政治亡命の申請をしているという。各国からの亡命志望者や、難民申請をする人たちを収容する施設にいるらしい。ネットがようやく使えるようになり、人恋しいようで、このところよくスカイプ通話を仕掛けて来てくれる。



離反以前、シリア国軍では大佐だった。革命勃発以来反政府の拠点の一つとなっているマアッラト・ヌアマーンの出身。マアッラト・ヌアマーンの土地柄は質実剛健というところか。シリアで、夫の親族が集まった時などに見かけはしたが、親しく話したことはなかった。夫は「遺跡の話なんかすると、他のヤツより結構興味を持って聞いてくれるんだ」と喜んでいた。しかし、私としては、彼に対してちょっと「強面な人物」という印象をもっていた。



革命以来、FBで繫がることになり、トルコの、離反士官たちが住むキャンプから、時折自由シリア軍関係の情報を伝えてくれた。そして、その都度、軍人らしく、極めて率直な意見をよく述べてくれた。



ある時、キャンプの内部の様子をビデオで見せてくれたことがある。テント生活を初めてから数ヶ月が経っていたが、テントは極めて殺風景あった。彼らの隣人に子供が生まれたと、隣人のテント内も見せてくれたが、赤ちゃんをくるんでいた毛布は、軍人のそれのような粗末なものであったことを今でも思い出す。



彼の妻G、つまり私の義理の姪は、常に彼と一緒だった。トルコのキャンプでも、彼が再びシリアに入り自由シリア軍として銃を再びとったときも、彼と行動を共にしていた。最初MSは、妻は残してシリア入りするよ、と言っていたが、Gは最終的に彼のもとにやって来たらしい。



彼らの間に子供は出来なかったのだが、それが故にかえって強い絆で結ばれているようだった。



しかし、今回、彼は妻を残してこざるを得なかった。密出入国という手段をとらざるを得なかった逃避行。それに伴う危険を、彼女に負わせるには行かなかった。落ち着いたら、呼び寄せるのだと言う。



「妻のGが恋しくてしょうがないよ。」



昨日の通話で、彼が、ぽつんとつぶやいた。



「革命はまだ終わっていない。甘い事を言うべきではない。だけど、今は妻に会いたい。」



強面だと思っていた彼が、シリアでの最前線に加わっていた彼が、「奴隷船」のような乗り物でヨーロッパに渡ることを躊躇しなかった彼が、今、そうつぶやく。



そして、ヨーロッパの片隅で、一人ぼっちのイード・アル=フィトル(ラマダン明けの祭り)を過ごしている。








2013-07-27

方向転換




自由シリア軍でトルコ国境に近いイドリブのある町にいたMSがシリアを離れるという決断を下したのは、もう一ヶ月ほど前になる。



彼の妻、つまり私の亡夫の姪と、ある日スカイプがつながり、単独で姑家族のいるトルコのある町に逃れたという事が分かった。しかし、MSは彼女を自分の親元に預けたあと、海路密出国をし、ヨーロッパで政治亡命を申請すると言って出て行ったきり、何の連絡もないとのことだった。



2週間ばかり前、MSからスカイプにメッセージがはいっていた。「今、イタリアにいる」と。これでとりあえず、「無事」に少なくとも国外に出たのだということが分かった。



元シリア国軍の将校で、離反したMSは、今年の春、離反後一時居住していたトルコから再びシリアに入った。自由シリアを人生の究極の目的にした者が、トルコで何をしているのだ、シリアに再び入って、その目的を一にする者たちと合流しよう、とトルコ国境近いイドリブのある地域に入った。死ぬ気のシリア入りだった。



その頃彼は新参兵の訓練を受け持っていたようだ。一度その様子を伝えるビデオを送ってくれた。離反してトルコに居たときには、「自由シリア」への夢はあっても実際はロジ・広報関係をやっているだけで、不完全燃焼だ、再びシリアに戻って、戦線に出たい、そのような忸怩たる思いを持っていたようで、シリアに再び戻った時に来たメッセージには、生き生きとして活動している様子が書かれていた。



しかし、その後、彼の考えていた形で事は進まなくなって行ったようで、自由シリア軍を名乗る、あるいはそれに協力すると見せかけていた集団が、徐徐に彼のような誠実な者たちの領域を浸食し始めたようだ。



彼は何度か、そういった集団からの嫌がらせ、威嚇、彼らの不正な行動などを伝えて来ていたが、最終的に「命を狙われている」とまで告げるようになった。そして、「今は選択の余地がない。まずはヨーロッパに出る」という結論に達したようだ。



彼は離反将校であり、パスポートなど持っていない。どこへ行くにも密入国という形をとらざるを得ない。「彼はその為にいろいろなアレンジをしていたわ」と姪っ子は言っていた。



イタリアに着いたというメッセージを読んでいたら、彼から音声コールが来た。トルコを海路で出てから壮絶な逃避行のあと、一日前にイタリアにいる知り合いのもとにたどり着いた、という。一週間以上、ろくなものも食べていない、家畜のようにトラックや船の貨物室に身を隠していたという。



しかし、彼の最終目的地はイタリアではない。さらに若干疲れをとってから別の国に向かうとのことだった。



革命は無頼の輩たちに奪われてしまったのか、という私の問いに、彼は答える。「いや、まだだ。今のままだったら、誰のために、何の為に戦いを始めたか、という本質が闇に葬られてしまう。」



「これではいけないと今回出て来たが、死ぬのが怖くて出て来たんじゃない。僕だって、生き恥をさらすというのはどういうことか分かっている。僕は軍人だ。だから戦う。しかし、皆の為に戦っていたはずの戦いが、全く妙な、貶められた形になっている。戦いの方向を変えなければいけない。そのためにシリアを出た。本当に苦渋の決断だった。だけど、未だあきらめてはいない。」



「数日後にここを出る予定だ。目的の国に着いたらまた連絡するよ、今からイフタール(ラマダン中の一日の最初の食事)なんだ。」彼は極めて敬虔なムスリムだが、急進的でもなく、狂信的でもない。軍人だが、極めてリベラルな考えを持つ。シリア問題を「色分け」すると、彼のような色がかき消されてしまう。

私は、彼のラマダン月とこれからの旅路が安かれと祈るのみである。




























2013-07-09

包囲




アレッポとイドリブに住む教え子たちが、自分たちの住む地区での包囲のニュースを伝えて来た。



彼らは、砲撃にさらされることを恐れて、数ヶ月前から政府軍制圧下の地区に移り住んでいる。政府軍制圧地域だと、検問が道の至る所にあるものの、少なくとも空爆や砲撃は来ない。



これらの地域で、彼らは親戚の家や知人の家を間借りし、また国外などに移住して空き家になっている場合は、家の管理も含めてそこに住んだりしている。



しかし、この数週間、これらの地区は政府軍制圧下ということで、自由シリア軍に包囲を受け始めた。中に住んでいる人々は様々で、勿論反体制派の人、自由シリア軍シンパの人も多い。しかし、そんな事とは関係なく、『作戦』として包囲作戦がとられている。



包囲。軍と軍との戦いの中では、あり得るオプションなのかも知れない。だがこの包囲の為に、一般の人々は身動きがとれず、また食料品、医療品などの必需品の供給路も閉鎖されてしまっている。イドリブの教え子は、まさしく「中世」の攻城戦だ、と形容する。



それらの包囲をかいくぐって闇で売られている野菜やパンは、わずか5km離れた非包囲地区の10倍にもなっているらしい。例をあげればトマトが1kg400ポンドだとか。騒乱前の価格、25ポンドとは全く比べ物にならない。しかも、供給量は雀の涙ほどもない。猛威をふるうインフレに加えて、包囲地区ではモノの価格は気違い沙汰のようである。



そんなアレッポの包囲地区に住む教え子のRを先日ようやくオンラインで捕まえたとき、彼女は開口一番、冗談を言った。「先生、アレッポで何が起こってるか教えて。きっと日本にいる先生たちの方が、私たちよりももっと状況が分かってると思うわ。だって、こっちじゃ停電でテレビも見られないし、ネットも使えないし。」



日々の食事に関しては、野菜は高過ぎて買えず、日常はとりあえず保存食で食いつないでいるという。「だけど、文字通り、本当に家に何もない人たちがいる。本当に切羽詰まっている。だから、今は物乞いをする人がものすごく多くなりました。昨日もバスの中で、横に乗っていた女の人が物乞いをしていたわ。」



彼女は続けた。「そして、悲しい話だけれど、盗みも増えているの。こんな事は、前はありえなかった。先生も知ってるでしょ?」



ホムスで支援活動を続ける娘の友人Sちゃんからも昨夜、メッセージが来た。彼女の所属する団体には、日本の人道支援団体NICCOから、今回支援金を送ってもらっている。彼女からのメッセージには、「ラマダン月に入るので、送ってもらったお金で基本的な保存食料以外に、お肉を少し買ってあげてもいいでしょうか?」とあった。



彼らは生活の中に、ほとんど選択の余地をなくしている。そして、生活は日一日と締め付けられる。そのなかで、物理的な包囲以上のものが人々の心にのしかかるのだ。
 

騒乱が起こってから三度目のシリアのラマダンは、人々を何重にも包囲しながら始まろうとしている。






2013-06-19

シリア・ポンド



この数日間のシリア人の間での最大の懸念事項は、G8でも、アメリカの武器供与でも、ヘズボラの参戦でもない。



シリアポンドの異常な値下がりである。



シリアポンドは、騒乱の始まり頃、すなわち2011年の春の段階で、1ドル=4647ポンドだった。昨年の2月、シリアに帰ったとき、1ドルは6667ポンドと格段に値下がりしていたため、びっくりしたが、これは単なる前奏曲に過ぎなかった。



今年の年明けごろ、1ドルが100ポンドになったと聞いてたまげたのを覚えているが、それ以来、さらに下がり続けていた。先月トルコに言った際に確かめた時は150ポンド前後、それが、つい一週間ほどまえ、160ポンドになった。



そして昨日(6月17日)、ついに1ドルが200ポンドになったといい、一部の噂では週末までには300ポンドにまで下がるだろうとの予測も出ているという。



それに伴う生活必需品の値上がり。特に食料の値段はじりじり値上がりしており、なんとか上げ止まっていた野菜などまでが、今また急騰しつつある。知らせてもらった値段を見てみると、改めて全ての食料で2年前の4−5倍で、さらに上がる気配をみせていると言う。



1ドルが200ポンドになったというシリア人の友人のFBへの投稿を読んで、これから予測通りに、加速的にシリア・ポンドの価値が下落したらどうなるのだろう、と思っていた矢先、夜中に娘の友人でホムスに住むSからメッセージが飛び込んで来た。



「緊急に支援が出来ませんか。今日のシリアポンドの急落だけではなく、週末までにさらに急落するという噂もあり、ラマダン月用の食料を、私たちの支援している貧しい人たちに今買っておかなければ、すぐに予定の半分の支給分すら確保があやしくなっています。お願いします。」



そうなのだ、このレートの下落は、一番貧しい人たちの生活をまさしく奪って行くのだ。



今日(6月18日)の昼すぎには早くも1ドル=225ポンドになったと、ラタキアの友人がメッセージを送って来た。あたかも足下の砂をすくわれているようではないか。



戦闘のかげで、さらに不気味に、何かが崩れつつある。


2013-06-11

ミンバル(説教壇)



Dは、ひょろりと背の高い、もの静かな学生だった。童顔で色白、考古学科にはいったものの、野外作業には僕は向かない、と自分で言っていた。



ベルギーの考古学発掘隊にシリア人学生の参加が可能になった時、クラスから何人かの学生を募った。Dは、興味はあるけど、炎天下の発掘ではきっと皆について行けないからと、早々に辞退した。



そんな「ひ弱な」彼だったが、考古学実習の授業で遺物の実測図を描せると、抜群のセンスを持っていた。他の学生が、消しゴムで消しまくって方眼紙をくしゃくしゃにしているのを横目に、彼の実測図は、線もシャープで、少しの助言だけで、すぐに間違いも直った。発掘は野外作業だけではない。彼はそれなりに使い物になるんじゃないの、と夫と話し合ったものだった。



それから数年後のある日、アレッポ博物館で彼に再会した。彼は、卒業後、数回外国発掘隊で実測図を描く仕事をしたことを、はにかみながら話してくれた。「勿論野外の作業はしないんだけど」と言う彼の女の子のような微笑みは、学生の時のままだった。



その後、彼との連絡はずっと途絶えていたが、先日、彼が、アレッポのウマイヤド・モスクに残されていたミンバル(説教壇)を、安全な場所に移動するという作業を指揮したという話を聞いた。確かに、シリアの考古遺跡保存を訴えるFBのページで、数人の人がミンバルを運ぼうとしているビデオを見た。しかし、あの作業は彼が仕組んだものだったわけなのか。モスクはミナレットが破壊された後も危険な状況にさらされていると聞いている。あのひ弱なDがそんな大胆なことを?



確かめてみようと、久しぶりに彼のFBのアカウントにメッセージを残しておいた。すると、数日後に返事があり、さらにチャットにも応じてくれた。彼の家はアレッポ旧市街の近くで、未だにそこに住んでいる数人の有志で作ったグループを中心に、旧市街の歴史的建造物などに残る古文書や文物の一部を安全な場所に保管するなど、実際的な活動をしている、という。



誰がリーダーなの?と聞くと「僕ですよ」という返事が帰って来た。「記録を残すのに、機材がないから携帯のカメラで写真を撮るだけだけど、一つ一つちゃんと記録してます。何でも記録とれって、そう教えてくれたでしょ?」



「でも、実はすごく怖いんです。だって、僕は政府の職員でもなんでもない。だから、これも反政府運動と考えられるかもしれないし、捕まってしまうかも知れない。だけど、今、大事な文化財が日々、盗まれたり、壊されたりしている。スナイパーがいたり、砲撃があったりで、地元の者じゃないと、だれもこの地区にわざわざ来ることが出来ない。ここに住んでる僕たちが守るしかないじゃないですか。僕は考古学を勉強したんだし。僕がこのグループの『学術面』のリーダー、他のメンバーはマネージメントを受け持って、ちゃんと組織を作ってやってるんですよ。」



彼の色白の優しい顔が浮かんだ。細い腕をした、あの気弱な彼が今、文字通りシリアの歴史を守っている。








2013-05-26

アトメ(シリア国内避難民キャンプ)



 今回のトルコ滞在中に、シリア国内の避難民キャンプを訪れる機会を得た。予期しなかった訪問である。



トルコのレイハンル(リーハニーヤ)の町はずれから歩いて国境を越え、シリア側で待ち受けてくれていた車でアトメ・キャンプに向かった。アトメ・キャンプは、シリア・トルコ国境添いにある、「キャンプの体裁をとる」7つのキャンプの内の一つで、その中では最も大規模なものである。ちなみにこの地域はいわゆる反政府側の「解放区」となっている。



車が「シリア」の中を走る。オリーブの畑。赤い土。刈入れが半分ほど済んだ麦畑。ひなびたモスク。1年以上離れていた感覚は不思議になかった。見慣れた風景が、自然に私の前に流れていた。



案内してくれる医師をアトメの村でピックアップするために、一旦車が止まった。「車を戸口に止めないでよ」と、家の中からおかみさんが出て来たが、私たちを見つけた途端に笑顔になり、「アハラン・ワ・サハラン(ようこそ)」と言って家の中に入って行った。しばらくして、彼女は水と、ビワ、キュウリ、さらにはクッキーまで持って出て来てくれた。キュウリの青臭い香りが、とてつもなく懐かしい。



彼女に村の状況はどう?と聞くと、アトメ村自体は近頃落ち着いているが、周辺の村では、まだ空爆もあること、彼女の親戚も沢山亡くなったという事を淡々と語ってくれた。





アトメ・キャンプは、周壁や門などがいっさいない。アトメの村をすぎて2〜3分進むと、小高い丘の上にテントが密集しているのが見えた。あそこに行き着くにはまだもう少しかかるかな、と思ったあたりで、道の両側にテントがぽつぽつ見え始めた。おや、というような私の顔を見て、案内をしてくれた医師が「もうキャンプの中に入っていますよ。」と伝えてくれた。



ヨルダンのザアタリ・キャンプの厳重な門構えを知っていたので、この唐突なキャンプの始まりは、意外であった。



UNHCRのテントもあるが、ほとんどがもっと小型の無地のテントで、中にはビニールシートを木に簡単に結わえただけのようなものもある。さらに行くと、キャンプ内のメインストリートに出た。両側にテントがあるが、その並び方は、ザアタリのように整然としたものではなく、丘に向かって不規則に密集している。テント間には、地面を掘っただけの浅い排水溝が無造作に這っている。





医師の案内で、このキャンプ唯一の医療診療所に行った。粗末なプレハブの建物で、数人の子供が診察や治療を受けていた。この中の、間口一間半ほどのスペースが薬局だが、背面にしつらえられた棚にまばらに並ぶ薬品がこのキャンプにいる35000人(5月22日現在の概数)のための薬の全てであるという。



他のキャンプと同様半数以上が子どもで、キャンプ内の衛生状態が悪いため下痢症状を訴える子どもが多く、皮膚病(リーシュマニア)も蔓延している。また婦人では、クラミジア感染症なども目立つ病気のようである。「厳しい冬をやっと越えたんですが、今度は夏が来る。この衛生状態のなかで、夏はどうなるのか。」案内の医師は途方にくれたように言う



重症者や、ひどいケガなどの場合は、以前はトルコに運ばれていたが、今はそれが難しく、アトメの村にある病院にとりあえず収容されるらしい。



「キャンプの運営資金は主に、在外のシリア人有志や、内外の慈善団体の寄付に頼っています。ヨーロッパからの支援は全くありません。国際機関とやらの援助は極めて限られている。」と、医師は吐き捨てるように言った。



キャンプに入る前に会った別の医師は、さらに辛辣に語ってくれた。「この地域は解放区だが、国際的に宙ぶらりんの状態と考えられている。その故なのか、国際社会は援助を本気で考えていない。国際機関は『人道支援』を謳っているけど、『人道支援』はどんな状況でもあるべきじゃないのか?我々にしてみたら彼らは、利害関係だけで動いているように見える。もっと率直に言えば、この状況を彼らはビジネスのネタにしているだけだ。医療に関して言えば、唯一『国境なき医師団』が実質的に、しかも無私の姿勢でやってくれている」



キャンプのとある一角では、テントとテントの間の隙間の地面に直にマットレスをしいて男の子が寝ていた。「この子は下痢が続いていて、ずっと体がだるいんだ。」と寄って来た子どもが教えてくれた。すぐ横には、木の枝にロープを巻き付けただけのブランコがあり、妹を遊ばせてやっている子どもがいる。



ブランコが揺れるたびに、木の葉の間から見える青い空が揺れる。子どもの笑い声は屈託ないように聞こえる。しかし彼らの空は今、この切り取られたような空間にしかない。


*アトメは Qatma قطمة ですが、方言の音を当てています。









2013-05-19

針と糸




亡くなった夫は、たまに熱に浮かされたように何かに夢中になる事があった。シリア刺繍の収集もその一つである。あるとき、ラッカという町に住む友人Tが、素朴な刺繍の施されたクッションカバーの数々を夫に見せてくれた。この友人がユーフラテス川沿いの村々から集めたもので、ここ50年来の作品だと言う事だった。



刺繍は、一つ一つのモチーフが奇抜であったり、とりとめがなかったりで、重厚な「伝統工芸」のイメージからはほど遠い。しかも、粗末な木綿地に、有り合わせの糸で刺し込まれているだけである。しかし、そのユーモラスで、どこか暖かいその文様は、物々しい「伝統工芸」としてではなく、シリアの片田舎のあっけらかんとしたデザイン感覚を素直に表現している。



夫は、それからTの所に行く度に、しつこいほど収集を薦め、時には彼の集めたものを借り受けてきた。しまいに、Tはそんなに気に行ったのなら、いくらでももって行けばいいと、コレクションをかなり譲ってくれた。



夫は大喜びで、アレッポ郊外のジャバル・ハス(ハス山)という地区にある村の農家にそれらを飾った。この農家は、コッバというドーム状の屋根をもつ、日乾し煉瓦で出来たシリア北西部特有のつくりで、半壊していたのを夫が「復元」し、借り受けていたものだ。



刺繍コレクションをここに「展示」してから、夫は友人や客人が来る度にこの家に連れて行き、忘れられつつある「シリアの民間の伝統文化」を熱っぽく語るのだった。



「民間の伝統文化」というものがあるとすれば、それは薄暗い博物館の奥に鎮座するものではなく、自分たちがこうやって手にとって見て、製作を続けていくことができるはずのものなんだ。そんなことが夫は言いたかったのだろう。



そんなこんなを刺繍で飾られたコッバに座って友人と語り合ったのは、まだわずか3年前のことだ。なのに今は、あの刺繍のコレクションがどうなっているのかさえ分からない。暑い時期にはコッバに開けられた小さな窓から涼しい風が吹き込んできて、無造作に壁に止められていた刺繍の布を揺らしていたっけ。



そんな光景が眼間に蘇る度、あの刺繍のことがずっと気がかりだった。



そんな折、シリア刺繍に興味をもってくれる日本人の女性YSさんに出会った。彼女は積極的にシリア刺繍の活用のために動き回り、ついに彼女のおかげで、シリア人女性に刺繍を通じて収入の道を開く活動グループを立ち上げることが出来た。また教え子のSのシリア現地でのネットワークを使い、写真に残っていた夫の刺繍コレクションからモチーフを選び、試作品も作る運びともなった。



「グループの名前は『イブラ・ワ・ハイト』(アラビア語で、「針と糸」という意味)って、どうですか。家をなくしても、難しい道具がなくても、針と糸があれば、何かができる、そんな希望を託して」とYSさんは提案してくれた。私たちの想いにぴったりのこの素朴なネーミングは、シリア人の友人たちからも、至極受けがいい。



ロシアは新たな武器をシリア政府軍に供与し、アメリカは反体制派への武器援助をほのめかす。戦闘は、仮面舞踏会のように、相手が何者かも分からぬまま続けさせられている。



しかし一方で、人々の生活への渇望を誰も止められはしない。



「針と糸」をそのための武器にしたい。手仕事の実際をシリア人の友人と調整するため、今私はトルコに向かっている。



*イブラ・ワ・ハイトに関しては
https://www.facebook.com/Iburawahaito
 



















2013-05-06

死の通過点





10日ほど前、「死の通過点」と題するビデオを友人がfbにアップしていた。http://www.youtube.com/watch?v=VNyJwVHuyCQ&feature=youtu.be



今、アレッポの町の辻々にはスナイパーが配置されており、町のブロックからブロックへと移動する時、人々はひた走って道を渡る。若者も、女性も、子供も、老人も。



最初は、人々が避難をしているところだと思った。しかし、よく見てみると、人々はナイロン袋をもったり、荷運びの車を押したりで、シリアで普通に見かけた日々の動きがそこにある。ただ、違うのは間近に響く銃声。



ある者は、「早く早く」と連れに呼びかけ、子供は荷車をほっぽり出して、安全な方向に飛び込んで行く。ある者は撃たれ、周囲は彼を建物の陰に引きずり込む。撃たれた人の様子を見ようと駆け寄り、さらに撃たれる人。弾にあたったか、道に座り込む人。



このビデオを見た次の日に、トルコの国境の町に数日前に逃れて来た友人と話す機会があった。彼はビデオに写っている地区に住んでいた。ビデオのことを話すと、彼は平然として言った。「ああ、あれ?毎日だよ。用があって町に出るときはいつもあんな感じで通りに出る。」



彼は半年以上前からパスポートを申請していた。しかし発行は遅れに遅れ、さらに旅券事務所への道は命がけだった。アレッポ大学の日本センターで日本語を勉強していたが、この数ヶ月は、何カ所かの「通過点」はクリアできるものの、大学までは「到達する」ことが出来ず、「授業はほとんどサボっちゃったよ」と笑う。



数日前、ようやく発行されたパスポートを手にしてのトルコへの入国は、かなりスムーズに行ったらしい。とにかく無事でよかったねと伝えようとしたとたん、なんと「また明日アレッポに戻るんだ」と言う。



あまりにも意外で、冗談かと思った。しかし、「向こうで家庭教師をして子供たちに英語を教えてやってたんだけど、まだ全部予定が終わってないんだ。最後まで見てやんないと」と続ける。
 

また、あの「通過点」に戻って行くのか。なぜ?



彼と彼の家族は、昨年、アレッポの中でも安全な場所を求めて移動をし続けた。しかしながら、最後に行き着いた場所は、もとの彼らの家であった。もとの彼らの地区であった。彼の家族も一旦トルコに出たが、またアレッポに戻った。



「トルコにもまた来るさ。だけど、あそこが僕たちの町なんだ。家も幸いなことに、半分潰れたけど、まだ残ってる。」



次の日、彼はアレッポに戻って行った。またあの「通過点」にさしかかり、「生」の側へ渡ることを試みているのだろう。

2013-04-29

「生活」の再開


このところ、すこし精神的に落ち込んでいた。

目にするシリアからの映像、ニュースは、ただ胸にずんと重いものばかり。そして友人たちの不遇に対して、私の動きのいかに力のないことか。



そんなとき、ベルギーにいる教え子のSと音声で話すことが出来た。



思わず、疲れているのよ、こぼしてしまった。彼は、身体的に?それとも精神的に?と聞くので、精神的に、と答えた。



彼は言った。「僕はもう、それ、通り越したよ」。と。



そして、「もう落ち込んでるヒマ、ないんだよ、先生。いっぱいやらないといけないことがある。何言ってるんだよ。」と一蹴された。



「革命は長引いている。僕はずっと支援活動をやってきたけど、支援してくれているスポンサーたちが疲弊し始めた。支援金や支援物資はまだまだ必要だけど、それ以外のことを考えないと行けない局面になってきている。人々は、まだシリアの中で生きてるんだ。」



「彼らに何か、収入の道をつけないといけない。僕は今計画を練っているんだ。ちょっとした家内工業のネットワークを作ろうと思っている。この前、この事業を一押しする資金を工面したり、その他の手続きをしようと思って、草案を作って、シリア国民連立の人たちに聞いてみたけど、彼らは政治で忙しいらしい。ちゃんと話が出来ない。」



「彼らはほっとくさ。でも、僕たちは、やるしかない。アレッポとイドリブの解放地区で、家に残っている女性の手工芸グループをいくつか作って、製品を国内、出来れば国外で売る。国内の友人と今、それで連絡を取り合っている。」



ちょうど私も友人と女性の手工芸で収入の道が開けないか、と考えていた所だった。何か出来るかもしれない。



緊急支援は必要だ。しかし、出口の見えない状況のなか、シリア国内に残っている人たちは、「生活」をしなければならない。



夫の眠る村、ビレーラームーン村では一時全ての村人が村を離れてしまっていたが、最近、少し混乱がおさまったらしく、人が再び戻ってきている、と先日久しぶりに話した甥っ子が言っていた。学校を再開しようと、今走り回っている、と。



時は止まらない。時は待ってくれない。今シリアで、人は混乱の隙間をすりぬけて、「生活」を探し求める。銃撃や砲撃の合間に埋まりかけた「生活」を掘り起こし、取り戻そうとしている。



Sは、通話の最後に、「この秋に2人目が生まれるんだ」と、少しはにかみながら伝えてくれた。