甥っ子のハムドーが国外へ出たいと画策を始めたのは、もう3ヶ月前だ。ヨーロッパに居る親戚に、如何に国外へ出て、ヨーロッパに向けて動くか、それにはどのくらいお金が要るか、と言った事を尋ね、さらに周辺のアラブ諸国に居る知人や親戚に借金を申し込み、彼なりの結論を出したかのようだった。
しかし、彼は未だにアレッポ近郊の村に居る。9月中頃、彼が漸くトルコに出る算段をしていた頃、トルコ国境の町アザーズで自由シリア軍と「イラクとシャームのイスラーム国」の激しい衝突が始まった。
ハムドーからの通信は途絶えがちになったが、それでもぽつん、ぽつんと送られて来るメッセージには「状況は非常に悪い」、「母親や妹たちの世話におわれている」といったことが書かれており、彼がまだシリアを「出られない」でいることがわかった。
しかし、何が実際起こっているのか、不明だった。
2日前、その一端がわかった。この間に、ハムドーは2回も「イラクとシャームのイスラーム国」に捕まっていたのだ。「なんとか、逃げられた。でもまた捕まる可能性がある」という。
彼の拘束の理由は、義弟と自由シリア軍の一派との関係にあるようだ。義弟はこの騒乱の数年前にアレッポ郊外の田舎に自動車学校を作った。定年後を見越しての計画だった。
のんびりとした田舎で、アレッポから30分くらいで行けるため、主人とよく気分転換と称して遊びに行ったものだ。敷地の中には、バーベキューをするのに恰好の場所もあり、友人たちとバーベキューを楽しんだこともあった。
今年の初め頃、アレッポからハレイターンという村に移り住んでいた義弟たちは、度重なる空爆でさらなる移住を決め、息子夫婦、妹夫婦などと一緒に、自動車学校に移り住む事に決めた。この村は、まだ比較的平穏だったのだ。
義弟はダマスカス高等裁判所の顧問を務めていたいわゆる名士だが、昨年離反を表明した。その後、彼の所に自由シリア軍の旅団のいくつかがコンタクトをとるようになったらしい。そのうちの一つの旅団のメンバーは自動車学校に住むようになったという。
そこに、最近とみに「勢力」を伸ばしている「イラクとシャームのイスラーム国」が目をつけた。小競り合いが始まった。そして次第に衝突は激化し、後者は数日前、数人を戦闘で失ったらしい。そこで、「復讐合戦」を始めた。
ハムドーは親戚だということで付け狙われるようになった。義弟の二組の息子夫婦と子供は、住居である学校から抜け出られずにいる。義弟はこの衝突の始まる前にトルコに短期間ということで出かけている。
これは、アレッポ近郊で起きている様々な事件の一つにしか過ぎない。そして、それはニュースでは一行にも満たない出来事なのかもしれない。
しかし、血のつながりはないとはいえ、「弟」と呼び、「甥」と呼ぶ人たちが「登場」するこの一連の事件は、私にとって外信ニュースでもなければ、テレビドラマでもない。
僅か数年前、私はあの村の静かな秋の夕暮れを楽しんでいた。しかし、今はその夕暮れから遠くにあり、ぽつねんと不条理が忍び寄るのを感じるのみである。