2013-01-29

希望

アレッポ博物館の庭には、ヒッタイト時代の「2人の有翼の精霊」のレリーフ石が「展示」されている。博物館の前庭の片隅に置かれているため、たいていの入場者は気がつかないのだが、これは20世紀前半にアレッポ城内から偶然発見されたものである。

また、収蔵庫には、同じ頃、やはり偶然にアレッポ城から見つかった、紀元前18世紀頃のものではないかと推定される楔形文字の刻まれた建物の礎石の破片が保管されている。

私がアレッポ博物館に客員研究員として入って間もない頃、当時アレッポ博物館の学芸員であった夫はこれらの資料を誇らしげに見せてくれたものだ。

そして、1990年、アレッポでの最初の正月に、夫は私を、オールドスークから少し入った、アレッポの旧市街のアカベと呼ばれる高まりにあるキーカーン・モスクに連れて行ってくれた。このモスクの壁にはヒッタイトの絵文字の刻まれた石が使われている。この石はモスク建設に伴って、周囲が掘り返された際に出土し、その意味を知られることなく、壁に埋め込まれたようである。

夫は、この古代文字の彫り込まれた石を前に、このアカベの高まりの下には、ヒッタイト時代、あるいはそれ以前の遺構が眠っていることを熱っぽく語ってくれた。アレッポ博物館にある、上記の遺物ともあわせて、アレッポの古代は、今のオールド・アレッポの城壁内や、アレッポ城そのものの下にあるのだ、と。そして、それは、我々シリア人の手で掘りたいと。

その後、1994年に夫はアレッポ城内の短い発掘を行なったが、様々な策謀の結果、翌年には発掘はドイツ隊に委ねられる事になった。夫は激しく失望した。アレッポ城こそは我々シリア人が掘るべき場所なのにと。

いずれにせよ、その後、アレッポ城からは、紀元前二千年紀の 神殿のあとが見つかり、さらに紀元前3千年期の遺構の一部も確認された。ドイツ隊の手によってではあるが、ここにアレッポの古代が見え始めたのである。

 その後、2002年に夫は大学に移り、学生たちにその思いを伝えるべく、教鞭をとり始めた。そして、 次の年の初夏だっただろうか。夫は、件のアカベのキーカーン・モスクに学生を連れて行き、私に説明してくれた以上に熱く、この高まりに埋もれているであろう古代のアレッポを学生たちに語った。

学生を教育して、基礎を十分に作って、調査をすればいい。今からだ。その思いを彼も、私も、学生も、皆がシェアしていた。施設も制度も不十分だったが、そこには希望があった。


 
そして、今年1月15日。アレッポ大学が空爆され、80人以上が死亡する事件が起きた。将来を託される学生の多くが犠牲になった。試験の初日だった。こんな内戦状態の中でも、まだ試験を受けに来る学生がいたのだ。まだ、そこには、なにがしかでも、希望を捨てない若者がいたのである。

その希望をこの空爆は無惨に 打ち砕いた。

数日後、最近アレッポ大の考古学で教えることになった友人のメッセージが入っていた。「私はハミード先生やあなたが基礎を作ってくれた考古学科で今、教えています。ありがとう。私はシリアを愛しています。だから、何があってもこの国を守って行きたい。最後の瞬間まで。」

この思いがもう一度、希望を蘇らせてくれる事を祈りつつ。 そしてこの思いに加わることを願いつつ。

















2013-01-13

戦うということ


今回のヨルダン滞在では、シリアから退避してきている数人の若者たちに出会った。その中の一人、KHは、現在ヨルダンの工学系の大学に在籍し、エンジニアを目指して勉強している。

彼はもともとシリアの大学の工学部に在籍していた。しかし、そこでも反政府デモが起こり、治安部隊との衝突が日常化する中で、勉強を続けることが不可能となり、隣国の工学系大学に入り直したのだ。

現在は、国外からシリア国内にいる難民の人道支援をボランティアとしてやっており、援助物資などの調達、国内の支援グループとの連絡などを行う。

「僕たちはやり方を間違ったのかもしれない」彼はそう切り出した。

もの静かな若者で、23歳とは思えないほど、落ち着いたしゃべり方。エンジニアというのは中東ではエリートであり、彼もそれに到達するために一種のプライドを持って勉強をしている。隣国とはいえ外国で勉強を続けることが出来るクラスの家庭の子弟でもある。

彼もシリアにいる時は、反政府デモに参加していた、という。何かが変わらなければいけない、という共通の意識のもとに他の学生とともに自然にデモを続けていた。

「デモに参加し始めた時は、学生は皆、改革を求めて、平和的にデモをやっていた。治安部隊には、最初は威嚇されたけど、とりあえず僕たちはデモを続けた。」

「だけど、デモ隊に銃が打ち込まれて、友達が死に始めた。そのとき、僕たちの一部は武器を手にとった。それは、始めは防衛のための武器だった。」

「そこまでは、良かったのかもしれない。だけど、ある時からその防衛のための武器が攻撃のための武器に変わった。そこが、大きな転換点だったようだ。」

彼は続ける。「僕たちは、間違ったのかも知れない。僕たちは、知らなかったんだ。革命のやり方を。誰にも教わらなかったし、誰も教えてくれなかった。」

「活動をしながら、政治の本もたくさん読んだ。何かがわかると思って。だけど、そんな事をしている間に、何人も、何人も死んで行った。」

「改革は出来ると信じるよ。そして、改革されないといけないと思う。だけど、今やっているようなやり方は、間違っている。5年かけても、10年かけてもいいから、少しずつやっていけば、何万人もの犠牲を出さすにすんだはずなんだ。攻撃のための武器を持ったところで僕たちは焦り、そして間違いを起こしてしまったようだ。そしてそれが、犠牲者だけではなく、膨大な数の国内外難民を生んだ一因なのかもしれない。」

「あるとき僕は、仲間に僕たちのやり方は間違っていると言った。その答えは、自分たちに不利になるようなことは言うな、というものだった。」

「なんということだ。その受け答えはどこかで聞いた事があるじゃないか。僕はそう思った。僕たちは自由を求めてデモを始めた。だけど、行き着いた先はこれか?これじゃ、今の政権のやり口と同じじゃないか。」

「僕は失望した。仲間のある者は映画のワンシーンみたいに、敵に向かって行って死ぬのをよしとしている者もいる。でも。僕は、それは無駄な死に方だと思った。それじゃ、何にも変わらせることは出来ない。それもあって、大学に入り直し、まずは避難民の支援をやることにした。」

じゃあ、もう改革にはタッチしないの、という私の愚問に、彼は答える。「僕は今も戦っているんだ。何人友達が、そして親戚が、大切な人たちが死んで行ったと思ってるんだ。彼らのためにも、改革を求めない訳がない。戦いをやめたわけでもない。」

まだ支払わねばならない代価の重みは、背負って行くしかないんだ、と言って、彼は、まっすぐに私に視線をむけ、口をつぐんだ。

この言葉は、未だに、鮮明に私の耳元に残っている。

2013-01-05

アンマンの片隅で



「私たちのほうが、男たちよりよっぽど元気があるし、強いのよ。」

ヨルダンでは、アンマンの片隅にもシリアからの避難民の人たちがたくさん住んでいる。その中には様々な理由で、母子家庭として生活せざるを得ない女性がたくさんいる。慈善団体からの支援が、とりあえずあるものの、数人の子供をそれだけで育てて行く事は困難である。

このような状況のなか、昨年の9月頃から、彼女らの収入を確保しようと、シリア人と地元の有志が寄り集まり、手工芸品製造販売のグループを作った。ホムスか ら逃れてきた「肝っ玉母さん」ウム・イスマイールが先生となって、まずは3人の女性とともにビーズ細工や、壁掛けなどの飾りものを作り始めた。この輪は次 第に広がり、今では約30人の女性が緩やかにまとまり、細々ではあるが、手工芸品を製作している。

「マーケティングに問題があるのよ。とにかく自転車操業。だけど、今彼女たちは月に平均80ディナール(約10000円)くらい稼げるようになったわ。生活費全部は賄えないけど、今にもっと稼げるようになるって、ちょっと期待してるの。旦那が居なくてもなんとかやって行かせてやらなきゃね。」

ウム・イスマイールは私の知っているシリアン・スマイルを満面に浮かべた。

「最初始めた時は、ここに逃げて来ている女性たちが、こんなに真剣になってやるとは思ってなかった。だけど、彼女らのモチベーションは日に日に高くなっている。やってる本人がびっくりしてるのよ。」

彼女らは、普通自分たちの家で暇を見つけて仕事をし、出来上がった「製品」をウム・イスマイールや、他のシリア人、地元ヨルダン人のボランティアが集め、販売する。

私 が昨日ウム・イスマイールの所を訪れた時は、近所に住んでいるという一人の女性が、5歳くらいの息子を連れて一心に針を動かしていた。「たまにこんな風に うちに来て仕事をする事もあるのよ。」と、ウム・イスマイールは言う。ご近所さんやら、親戚やらが常に行き来する、シリアでよく見かけるコミュニティーの 付き合いがここでも生きている。

「ここでの違いは、ダラアから来た人もいるし、ダマスカスからいた人も居るし・・・つまり、いろんな所から来た人がいるってことね。」

「昔はダラアだとか、ダマスカスだとかって、同じシリアでも遠い所だと思っていたけど、ここに来て、みんなシリア人なんだって、初めて感じる事が出来た。みんな一緒なんだって。」

ウム・イスマイールは、続ける。「でも、状況が少しでも収まったら、もちろんホムスに帰るわ。家?潰されたって聞いてるよ。だけど、帰ったら、私はテントでも張って住むわよ。そんな事、全然平気。自分の土地に帰って住めるんだったらね。」

帰りがけに、じゃ、また今度はシリアで会おうねと、ハグしてくれたウム・イスマイールの腕は暖かく、逞しかった。

メディアは年が明けても暗いニュースばかりを伝えるが、雑然としたアンマンの裏通りに、思わぬシリアを見つけた。

心が少し軽くなったような気がした。


2013-01-03

新年の祝砲


「普通、祝砲は空砲で、一時間もしないうちに終わる。だけど、僕たちの新年の祝砲は一日中続いている。実弾でね。」

元旦にメッセージを開けると、銃撃や砲撃の「祝砲」で明けたアレッポの新年を伝える甥っ子ハムドゥの一文があった。「夜中じゅう銃声が響いていた。僕たちは、地下のシェルターで新年を迎えたよ」

ハムドゥの村は壊滅状態で、アレッポ市内から避難してきた元判事の義弟一家と、隣村に一緒に住み始めた。この義弟の家はアレッポのハールディーエという、大きなスークのある地区にあるが、スーク自体は、今、店はほとんどしまっており、昔の面影は、全く失せているらしい。

ただ、「みんな一緒に居るから、何となく少しだけ、安心な気がする。そんな新年だよ。」とハムドゥは続ける。

アレッポに残るクリスチャンの友人は、元旦の夕方に、「新年おめでとう。今、一人でアラクを飲んでいる」とメッセージをよこしてくれた。彼の家族は、全て東欧のある国に縁者を頼って逃れており、彼も春には家族に合流する予定だと聞いている。「一緒に飲みたいな」と返事をすると、「今はだめさ」とのタイピングを最後にオンラインから消えた。

国外に避難している友人は、「夢は大きすぎて、神様だけが実現できるもの。私たちは最良の状況を願うけど、最悪の状況への準備もしているわ。」という新年を祝う言葉を含まない「抱負」を告げて来た。

唯一の救いは、先頃修士論文を書き上げたAの受け入れの可能性を告げる、イタリアのある大学の友人のメッセージである。

今のシリア人にとって、新年は、昨日の次の日に過ぎない、と知ってはいても、一筋の希望を捨てずに彼らに寄り添いたい。そんな事を思いながら、アンマンでの一人の正月を過ごしている。