2013-04-29

「生活」の再開


このところ、すこし精神的に落ち込んでいた。

目にするシリアからの映像、ニュースは、ただ胸にずんと重いものばかり。そして友人たちの不遇に対して、私の動きのいかに力のないことか。



そんなとき、ベルギーにいる教え子のSと音声で話すことが出来た。



思わず、疲れているのよ、こぼしてしまった。彼は、身体的に?それとも精神的に?と聞くので、精神的に、と答えた。



彼は言った。「僕はもう、それ、通り越したよ」。と。



そして、「もう落ち込んでるヒマ、ないんだよ、先生。いっぱいやらないといけないことがある。何言ってるんだよ。」と一蹴された。



「革命は長引いている。僕はずっと支援活動をやってきたけど、支援してくれているスポンサーたちが疲弊し始めた。支援金や支援物資はまだまだ必要だけど、それ以外のことを考えないと行けない局面になってきている。人々は、まだシリアの中で生きてるんだ。」



「彼らに何か、収入の道をつけないといけない。僕は今計画を練っているんだ。ちょっとした家内工業のネットワークを作ろうと思っている。この前、この事業を一押しする資金を工面したり、その他の手続きをしようと思って、草案を作って、シリア国民連立の人たちに聞いてみたけど、彼らは政治で忙しいらしい。ちゃんと話が出来ない。」



「彼らはほっとくさ。でも、僕たちは、やるしかない。アレッポとイドリブの解放地区で、家に残っている女性の手工芸グループをいくつか作って、製品を国内、出来れば国外で売る。国内の友人と今、それで連絡を取り合っている。」



ちょうど私も友人と女性の手工芸で収入の道が開けないか、と考えていた所だった。何か出来るかもしれない。



緊急支援は必要だ。しかし、出口の見えない状況のなか、シリア国内に残っている人たちは、「生活」をしなければならない。



夫の眠る村、ビレーラームーン村では一時全ての村人が村を離れてしまっていたが、最近、少し混乱がおさまったらしく、人が再び戻ってきている、と先日久しぶりに話した甥っ子が言っていた。学校を再開しようと、今走り回っている、と。



時は止まらない。時は待ってくれない。今シリアで、人は混乱の隙間をすりぬけて、「生活」を探し求める。銃撃や砲撃の合間に埋まりかけた「生活」を掘り起こし、取り戻そうとしている。



Sは、通話の最後に、「この秋に2人目が生まれるんだ」と、少しはにかみながら伝えてくれた。

2013-04-17

モノトーン



このブログで書くべきか、どうかと迷う出来事が何度もある。昨日、届いた知らせもその一つである。

しかし、シリアの内戦を写し続ける写真家Nino Fezza の「語られなければ、ストーリーは存在しない A story doesn`t exist unless it is told」との言葉をうけ、私の受け止めたものを、やはり書かずにはいられない。

考古学科卒で、兵役にとられ、政府軍に入った若者の死を、昨日教え子の一人が伝えてきた。彼女の説明で、彼の死は、極めて奇妙な形で判明したことが分かった。

先日、自由シリア軍の者であると名乗る人物から、この若者の携帯を使って、彼の父親のもとに電話がかかってきた。この人物は、この携帯の持ち主を殺し、埋葬したと父親に告げた。父親は、どこに息子を埋めたのかと聞いたが、この人物は知らない、と答えたそうだ。

これが教え子の知る一部始終であり、それ以上のことは分からない。

若者は、政府軍にいた。そして彼を殺した人物は自由シリア軍にいた。戦闘中ではなかったようだ。だが、殺戮は行なわれた。そして、どこかに彼を埋めたあと、人物の手元に残った彼の携帯を通して、その事実が家族に伝えられたのだ。

彼女の書き送ってくれた一連のいきさつは、画面上の無機的な文字の羅列であった。文字のみを見れば悲しいまでにモノトーンなそれであった。しかし、そこには2人の生身の人間がおり、一人は、かつて私の授業を受けていた。そして、生き残った人物も、自分の手元に残された、主を失った携帯に何かを感じた。だからこそ、この人物はその事実を家族に伝えようと思ったのだ。

状況は否応なく2人を殺す者と、殺される者に分けた。それが、戦争なのだと、友人たちは言う。日本もかつて戦争を経験した。風化しつつあると言われながらも、私の世代は戦争を生身で経験した親に育てられ、未だに戦死した叔父の墓参りをする。

しかし、今、シリアでの死が、進行形の現実であるにもかかわらず、風化しかけているように感じるのは、私だけなのか。

テレビでは、ボストンマラソンの爆破事件が伝えられていた。


2013-04-10

ケイパーの木



長年の友人であり、アレッポ博物館の館長であるK氏が3週間ほど前から、家族を連れて日本に来ている。



今日、機会あって、彼とその家族に会うことが出来た。昨年の2月以来である。



挨拶もそこそこに、アレッポ博物館や遺跡の被害状況の話となった。彼は3月の来日早々、日本の西アジア考古学関係者を交えて、このテーマでプレゼンテーションを行なったが、私はあいにくパレスチナ出張中であったため、彼の発表を聞き逃した。



「博物館の現状写真はいっぱいあるから、今見ればいい」と、彼は、パソコンをたち上げてくれた。



昨年秋、郵便局前の広場(サーダッラー・ジャーブリー広場)とアミール・パレスホテルで4台の自動車爆弾が爆発して、大きな被害が出たことがある。この二つの地区に挟まれた博物館では、この時爆風で窓ガラスが壊れたり、天井がめくり上がったりと、建物に大きな被害が出た。幸いなことに、主な展示品や遺物は、昨年春の段階でさる場所に移動・保管されており、大事には至らなかったのが不幸中の幸いである。



パソコンに、遺物のとり去られた空っぽの展示ケースが映しだされる。遺物がなくても、どこにおいてあった展示ケースかは覚えている。周囲一帯、ケースや窓のガラスの破片が飛び散っている。壁のタイルもはげ落ち、窓のブラインドはめくれ上がる。



移動できなかった石像やレプリカ像がこれらの残骸の中に見える。周囲を土嚢で囲んで保護してあるが、忘れ去られた残兵のごとく、それでも何か言いたげに佇んでいる。



私の20年間の想い出は、ここにあったはずだ。まだ3歳だった娘の奈々子を連れて、毎日通った。この移動出来ずに残っている大きな壷は、当時の奈々子の背丈ほどもあったっけ。写真を見ながら、そんなことが幻影のように浮かんでは消える。



古代オリエント第二室の突き当たりにある、巨大なアッシリアのエセルハッドン記念碑のところでは、すぐ脇に砲弾が飛んできたという。幸いなことに、直撃は免れたよ、とK氏は淡々と話す。



そんな一連の写真の中に、中庭を写したものがあった。中庭には土嚢で囲まれた玄武岩製の立像が写っていたが、そのよこに、ちらと緑が見えた。



ケイパーの木である。そういえば、いつも何気なくこの木はここにあった。入り口の所にある、数点のレリーフ石の向こうに、この木はいつも見えていた。しかし、入場者はこの木の存在など気に止めることもなく、展示されている数々の「重要」な遺物を見、そして去って行った。



そして、今。文字通り荒れ果ててしまった博物館の中で、この頼りなげな木だけが、丸っぽい葉の間にうす紫の小さな花を咲かせ、青々とその存在感を示している。






2013-04-03

蜘蛛の巣



シリアの友人たちは、皆、限界に来ている。精神的にも、物質的にも。

昨日の朝、FBを開けると、教え子のAからメッセージが来ていた。彼は家族のいるイドリブのアリーハに戻れず、数ヶ月をアレッポにある親戚の家で居候として過ごしていたが、メッセージから察するに、ようやく自宅にもどったようである。

お元気ですかと、型通りの挨拶のあと、イドリブの大学で、ギリシア・ローマの考古学を教えることになったと書いてきた。紀元前3千年紀の古代エブラ文書で修論を書いた彼にしてみれば全くの専門外である。

「他の先生たちはみんな国外に逃げてしまったために、こんな教科を教えることになってしまいました」

Aは、自分の専門領域の専門家のいるイタリアへの留学を希望していたが、奨学金がとれず、今は宙ぶらりんの状態になっている。
彼は、それでも一縷の希望を持ってパスポートを更新した。しかし、有効期限は1年しか与えられなかったらしい。

「来年の4月いっぱいでパスポートの期限は切れます。僕はまだ兵役に行っていないので。」
つまり、なにも手だてがないと一年後には、政府軍に入らねばならないのだ。

彼は続ける。「先生、イタリアの留学に関してはすごく手数をかけてしまいました。本当に、本当に申し訳ありませんでした。でも先生だけが頼りだったんです」

ここまで書いたとき、彼は感情を押さえ切れなくなったようである。

「だけど、今シリアでの生活はもう不可能になり始めました。何でもいい、なにか手だてはないのでしょうか?皿洗いでも、掃除夫でも、どんなことでもして働きます。もう父の年金では、文字通り食べることもままならなくなっています。物価は去年の3倍以上になっている。近頃は、お腹がすいたままで寝ることがよくあります。先生、ごめんなさい。こんなことを書いて。でも、誰かにこの苦しみをシェアしてほしいんです。」

「外国で勉強したい。奨学金がだめならば、働きながら勉強する。世界中のどの国でもいいから、シリアから遠い所に行きたい。」

この言葉をどう捉えればいいのか?彼は意気地なしなのか?彼の言っていることは「弱音」なのか? 

この状況下、ある者は自由シリア軍に入り、ある者は国外へ避難し、あるいはそれを余儀なくされ、難民となり・・。全てが、あまりに悲惨である。

そして、さらにそこには、シリアの変わり果てた国内で、彼のように、蜘蛛の巣に絡まった獲物のように、身動きのとれなった若者たちが存在する。