2014-06-29

ハッブーバの村


ハッブーバ・カビーラの村は、ユーフラテス川岸にあった。1970年代、この村からセンセーショナルな古代植民都市の跡が発見され、古代史を大きく塗り替えたことは、以前にこのブログでも少し触れたことがある。その後、ユーフラテス川をせき止めたタブカ・ダムによりこの村はダム湖の底に沈み、村人たちは付近の土地を代替地としてあてがわれ、そこに移り住むことになった。



ドイツ隊の行なったハッブーバ・カビーラの発掘の際、作業員として働いたムハンマド・ミフターハ氏は、その後ドイツ隊にかわいがられて発掘技術、考古学を独学で学び、以来2010年に56歳で急逝するまで、各国隊の現場で活躍した。



彼と初めて会ったのは、私がシリアに行って1週間経つか経たないかの6月中旬頃であった。その日、頭に赤いクーフィーヤを巻き、口元に伝統の入れ墨を入れた彼は、アレッポ博物館の学芸員室でゆっくりとお茶を飲んでいた。彼は私と当時アレッポ博物館の学芸員であった夫をハッブーバの村に招いてくれた。ハッブーバは私の研究対象の時代でもあり、ぜひとも行きたい場所であったので、二つ返事でその招待を受けた。



その1週間後、彼の住んでいる新しいハッブーバの村を訪れた。殺風景な村で、村人は皆、水没前の、ユーフラテス川にほど近い、緑の豊かなもとのハッブーバの村をなつかしんでいた。



ハッブーバ周辺はアレッポ県の中でも鄙の地であるが、70年代以来、各国隊の発掘がこの地域で盛んに行なわれたことから、村人には作業員として働いたものも多く、外国人に対してオープンな雰囲気があった。特にミフターハ家にはムハンマド氏の仕事の関係で、常にヨーロッパ人の客人が絶えなかった。



彼の奥さんは当時、6人目の子供の出産をひかえており、「日本語の名前を考えて」と冗談で言われたが、私は「水無月」にちなんで、女の子なら「ミナ」はどうかな、などと結構真面目に答えたものだった。その後、女の子が生まれTと名付けられた。彼の子供たちはみんな利発だったが、Tはその中でもさらに落ち着いた雰囲気を持つ女の子であった。



時は流れ、Tは父の影響を受け、アレッポ大学の考古学科に入った。父についてアレッポ城内の発掘や、シリア北東部の遺跡の発掘などにも参加し始めた。考古学だけでなく、父のムハンマド氏は仕事の中でドイツ語を習得していたが、娘のTも独学で英語を流暢に話すようになっていた。



「女の子でも全く構わない、ヤヨイ、また色々世話してやってくれ」自分の後継ぎを得て内心まんざらではないのが、ムハンマド氏の言葉の端々に見てとれ、私も嬉しかった。



そんな矢先、2010年秋、ムハンマド氏が、アレッポ城内遺跡での作業中に心不全を起こし、急死した。あまりにも唐突な死だった。その後、シリアでの紛争勃発後、Tは困難を乗り越えなんとか大学を卒業したと聞いたが、通信は途絶えがちになっていた。



先頃、非常に久しぶりにTとネット上でやり取りする事ができた。



彼女によると、ハッブーバの村は今、過激派のイスラーム国(ISIS)に制圧されているという。ラッカをはじめ、ユーフラテス川地域にISISが展開しているとは聞いていたが、鄙の地であるハッブーバにまでその支配が及んでいたとは・・。



Tは、いかに生活が彼らによって歪められているかの一部を説明してくれた。彼女らいわゆる大学生、大卒生グループは、紛争の進展の中で停止していた村の小学校をボランティアで再開していた。FBでその近況などがアップされる度に、僻地であるが故に、アレッポ等の都市部よりも逆に活動がうまく動くかも知れないと期待していた。



しかし、約半年前に村にやって来たISISは、学校を強制的に閉鎖した。なぜだと聞いても、これは「ハラーム」であるとの一点張りであったらしい。



村の女性たちは黒いアバーヤ(ガウン様の上着)とニカーブの着用を強要される。「隣の家に行くにも、女性のISISメンバーがいて、監視しているの」。生活の隅々までがんじがらめになっているが「まだ他の地域の惨状にくらべたらマシだわ。それにネット環境もめちゃくちゃだけど、でもこんな風に結構使える事もあるし・・。」



そして彼女はネットが使える時は必ず我々の「イブラ・ワ・ハイト」のFBページを見ていると言ってくれた。そして「私たちに何かできることはないかしら?」と聞いて来た。私は、はた、と思った。我々の刺繍はもともとユーフラテス川流域のまさしくこの地域の伝統刺繍である。彼女の村の家々でも見かけたことがある。



話すうちに、彼女も我々の刺繍が自分の地域のものであるという事を知っており、最初は村の家に残っているものを写真に撮って送ろうか?などと言っていたが、「そうだ、N姉さん、刺繍が上手なの。ああいう古いのはやった事がないけど、知り合いのおばさんとかに聞けばやり方がわかるし、私たちがやってみてもいいかしら?」と言い始めた。



勿論、それに越した事はない。私たちの活動では、民間の伝統を保っていくという側面が非常に重要な要素である。しかし彼女らが活動するには危険が伴うのではないだろうか?しかも、もし製品が出来たとしても、それを送れるのだろうか?



「不定期だけど、出来ると思う。親戚のおじさんがたまにトルコに出る事があって、その時に託けることが出来ると思う。知り合いの女の人たちは今、この状況の重苦しさの中で鬱屈しているの。勿論収入の問題もあるけど、みんな精神的にまいっている。」



彼女の村のケースは、今我々と恊働して刺繍をやってくれている他の女性グループとは、また違った困難が伴う。しかし、Tは「やってみたいの。やらせてみて。」と望みを私達に託している。



あの穏やかな、オープンな村に、力で自らの「考え」を押し付けようとする集団。



そのなかで、Tは、しなやかにそれに立ち向かおうとしている。