2012-10-24

兵士

10日ほど前、教え子のSが日本にやって来た。日本の大学院入学の手続きを行うためだ。彼は、激しい攻防の続くイドリブ県出身だが、まずレバノンにいる兄弟のところに身を寄せ、ベイルートの日本大使館でビザをとり、来日した。

イドリブからベイルートまでの陸路が大変だったようで、最も近いシリア沿岸部を通ってのルートは、検問で「イドリブの住民」という理由で通行不許可、まわりまわって、ようやくベイルートに入ったようだった。

先日、東京に出てきた彼に出会う機会があった。1年半ぶり、昨年の春にアレッポで会って以来だった。FBで状況は何度か確認していたものの、実際日本で「生きて」会うことができたことが何より嬉しかった。彼も、とりあえず、日本で考古学が続けられるめどがついたことにほっとしてはいたようだったが、手放しで喜べないことは、お互いに認識している。彼は、両親はまだシリアに残っているのだから。

食事をしながら状況を聞いたが、一ヶ月ほど前に亡くなった彼の従兄弟の話を、賑わう東京の繁華街で聞くことは非常に奇妙で、罪悪感さえ覚えた。

彼の従兄弟は、数ヶ月前に兵役期間が終わり、帰郷するはずであった。しかし、兵役期間は有無を言わさずに延ばされ、兵糧を運搬する車の運転を任されていたという。一ヶ月ほど前、その兵糧用のトラックに仕掛けられた爆弾が爆発し、中にいた彼は一瞬のうちに亡くなった。

彼は、「政府軍」にいた。しかし、望んで「政府軍」であったわけではない。そして、本来ならそこから解放されていたはずの時期に爆死してしまった。

Sは言う。彼が日本に発つ前に、シリアからメッセージが来た。そのメッセージには、従兄弟の従軍していた期間の給料として、6万シリアポンド、約6万円が従兄弟の両親のもとに送られてきたことが書かれていたという。

これが、「政府軍」で働いた報酬なのだ。従兄弟の血の代価なのだ。Sはそれだけ言って、少し水を飲んだ。そして続けた。

これから、どうなるのか、誰にもわからない。だけど、この政権は変らなければならない。国際社会とやらは、現政権が変っても、もっと悪い政権がその場所に納まるかもしれない、と言う。それでもいい、変ってくれ、と従兄弟を失ったSは言う。もっと悪いなら悪いで、僕たちが責任を取る。ただ、変ってくれ、まずはそこから始まるんだ、と。

報道は「政府軍」と「反政府軍」の攻防を伝える。しかし、これが政府軍の兵士の現実であり、現政府に反対するものの感情なのだ。

Sは10月末に一旦日本を離れ、再び年明けに来日する予定である。どんな状況であれ、われわれは、シリアの遺跡をもう一度調査するであろう、若い世代に賭けたいのだ。

2012-10-14

ズフラート(ハーブティー)


風邪をひいてしまった。咳が止まらないので、何か薬はないかと探していると、昨年シリアで買ってきたズフラートが出て来た。ズフラートとは、ハーブティーの一種で、シリアでは普通に飲まれているが、咳にいい、と風邪の時はよく勧められたものだ。

お湯を沸かしてズフラートを煎れ、飲んだ。この「花のお茶」は喉の奥にゆっくり沁み、体を温めてくれる。両手でカップをもち、お茶の湯気を吸い込みながら、先日、トルコ国境リーハニーエ周辺の、シリア側の村で自由シリア軍のロジ隊と働いているOの言葉を思い出した。

シリアからトルコに20万人近い避難民が流れているのは周知であるが、最近、トルコ側は、その対応に苦慮しており、受け入れを制限し始めている。そのため、多くの避難民が今Oのいる村や、その周辺で足止めを食らっているというのだ。

ここに来る避難民の多くはアレッポからの人たちであるという。昨今のアレッポ状況の極端な悪化で、避難民は増え続けているが、彼らはトルコに抜けることができず、この村に宿営せざるを得ない。

この彼らのために自由シリア軍のロジ隊は、数箇所でキャンプを設営しつつあるが、そのために必要な、極めて基本的な物資に事欠いているという。テントそのものも追いつかず、オリーブの木の元で暮らしているような家族もいるのだ、と。

「もうすぐ、寒くなります。もしこのままの状態が続いたらどうなるのか?」

彼らは勿論一般市民だが、負傷して、ここまでたどり着いたものもたくさんいる。しかし、その手あてのための薬や設備は勿論、十分であるわけがない。また宿営状況が悪いことから、病気も多く、特に最近では、結核と思われる病気がはやり始めたらしい。彼がいうには、「そのこともあって、今日、トルコは100人の避難民の患者の入国を受け入れましたよ」という。

「私たちは精一杯やっている。なのに、事態は硬直したように、のろのろとしか動かない。状況は極めて悪い。何が起こりつつあるのか、どうしてこんなことになってしまっているのか、といつも自問自答するしかない。」呻くようなメッセージだった。

私が咳をしていたら、黙ってズフラートを煎れてくれた、優しいシリアの人たち。今、彼らは何をもって、彼らの体を温め、心を休めることができるのだろうか。そして、私は、何をもってそれを手助けできるのだろうか。

2012-10-02

アレッポ・スーク炎上と沈黙の戦い


シリアでの、そしてアレッポでの戦闘は続いている。

しかし、ここ数日間に届いている知らせは、私にとっては今までで、最も衝撃的な映像を伴っている。ジュダイデ地区のダール・ザマリヤ破壊とアレッポのスーク炎上の映像である。

ダール・ザマリヤはアレッポのジュダイデ地区に多く残る18世紀の歴史的建造物のひとつである。15年ほど前から始まったオールド・アレッポの活用計画の中で、外国の援助なしに地元の資本が中心となり、古い建築を修復し、地元の建築士たちが実際の図面をひき、それまで荒れ放題だった古い建物を蘇らせた。これは単なる修復ではなく実益も伴った事業で、この地区では数軒の古建築がしゃれたレストランとホテルに生まれ変わったのである。

また、アレッポのスークは、中東最大のスークとも言われる。初めて訪れたひとは、雑踏に驚いて迷路と思うことが多いが、実際は一種の条里制とも言うべきヘレニズム時代のアゴラの上に立てられている。間口の狭い店がびっしりと並び、所々にモスクやキャラバン・サライ(隊商宿)があり、香料屋から流れる匂いはもとより、石鹸、食糧品、その他の雑多な品物からの独特の香りは、外国人にとっては異国情緒をかもし出す重要な要素だ。

しかし、アレッポのスークは地元民が今でも日常生活の必需品を買いにくる、生きたスークである。なんでもあるのだ。近隣の村からも村人が買い物に来る。彼らは服装や、頭に巻くものの違いなどで、大体どの地方から来たかが、おおよそ見当がつく。民俗学博物館よりも、風俗がよくわかるのが、アレッポのスークだった。

この二つのアレッポを代表する場が、破壊され、燃えた。



燃えた、と過去形で書いたこの瞬間、イドリブからアレッポに出てきているAがオンラインに来た。聞いてみると、たった今、現地時間9月30日午後5時現在でもスークの方角から煙が上がっているという。(そして、そのことを伝えながら、Aは「あ、今、爆撃音がして、家が震動しました」とも書いてきている。)

最初にダール・ザマリヤ破壊のニュースを見たとき、教え子のWにそのことを言うと、「確かにショックです。でも、今頃は、何を聞いても、他の多くの破壊の内の一つに過ぎないと思ってしまう。なんだか、感覚が鈍ってきたみたいなんです。」と言う。「感覚が厚いワニの皮にでも包まれてしまったような、そんな感じ。いや、と言うよりも、感じようとするとつらいから、感じないようにしているのかもしれない。」

彼の一言、一言がずっしり重かった。そして、現在、おそらくほとんどのシリア人は、彼と同じような思いを共有しているのだろう。なるだけ、感じないようにするのだ、でなければ、気が狂ってしまう・・・彼はそう続ける。

「でも、先生、こんな生活の中で、いいことも見聞きします。それって言うのは、中には、この厳しすぎる現状の中で、無言で堪えて、日常を保っている、保とうとしている人たちがまだいるんです。どこに行っても、まだ仕事を普通にやろうとしている人がいるし、普通の生活を続けようとしている人がいる。彼らは沈黙の戦いを続けているんです。」

「僕は、こんな感じで、そういう人ほど強く生きてないと思う。だけど、少なくともそういう人がいることも、伝えておきたいんです。」

私にできることは、さらにその声を伝えることしかない。