2013-03-27

金のブレスレッド



「まだちゃんと決めてないけど、たぶんあと10日もすれば、トルコに避難することになります。」
 一ヶ月ばかり前、教え子のAが久しぶりに語りかけてきたが、それは今、シリアの誰もが考えるチョイスの実行を伝えるものだった。


 彼女と彼女の家族が数ヶ月前からパスポート取得の手続きを続けていたことは知っている。その頃は、町の治安状況から、パスポートセンターに思うように行けないと嘆いていた。しかし、最近になってようやく パスポートを受け取ったらしい。


トルコでは頼る人はいるの?と聞くと、誰もいないという。まずは、逃れて、とりあえず生活の場を設営して、それから、働き口をさがすと。



トルコで何をして食べて行くのか聞いてみた。彼女は小学校の先生であるが、異国であるトルコで先生が出来るとは思えない。彼女の答えは、妹と一緒に、どこかの店の店員にでもなるしかない。もしその口もなければ、手芸が得意だから、それでなんとかする、というものだった。なんとも心もとない「計画」のもとに彼女らは両親とともにトルコへ行き、両親を養うことになる。


  単刀直入にお金はあるのか、と聞くと、「ええ。あります。向こうで家を借りて、必要最低限の電気製品などを買いそろえて、23ヶ月くらいなら生きて行けると思うの。」という。それにしても、それはそれなりにまとまった金額だ。どうして都合したのと聞くと、彼女 は「私の金のブレスレッドを売りました」と言った。


 彼女は、大学生のときからアルバイトをしていて、それを家に入れていたようだが、あるとき、両親がその一部を、貯金だからと、金のブレスレッドにして彼女に贈った。 しかし彼女も年頃の女性である。貯金とはいえ、おしゃれの一つでもあるブレスレッドを手放すのをためらいはしなかったのだろうか?


 彼女は、その私の問いを、きっぱりと否定した。「私たちは、まだラッキーですよ。もう売るもののない人たちがいっぱいいるんですから。」


シリアでは、金製品を持つことは一種の貯蓄であり、それを必要な時に売るのは極めて普通のやりくり方法である。しかし、両親のいる家庭で、あえて娘が自分のものである金を売るのは、それなりに切羽詰まった状況を示している。

ふと、大学での考古学実習のとき、土器をチェックする彼女の腕に金のブレスレッドが光っていたことを思い出す。そのときは、実習とは不釣り合いね、と彼女をからかったものだ。

そのブレスレッドがこんな形で彼女の腕から消える日が来ると、誰が想像しただろうか。
















2013-03-16

祈り



2000年のバッシャール・アサド政権の成立後、周囲に何となく「自由」な雰囲気をにおわせる動きが出てきた。ある同人はドマリ」という週間新聞を刊行し始め、紙上ではそれなりの市民の意見が採り上げられた。

あるときこの新聞の記者から、夫も投稿を依頼された。夫は主に考古学関係の問題を取り上げ、好評であったことから、その後連載のような形で記事を書いていた。

その中では、どの国でも問題となる、開発と考古遺跡保存の間の問題を何回か取り上げ、考古総局を批判したこともあった。

何回目かの投稿のあと、夫は無期の拘束を意味する首相命の令状を受け取った。2002年の9月、植林事業で危ぶまれているという遺跡の現状を見に行き、家に帰ってきたところを拘束され、問答無用で、アレッポの拘置所に拘留された。

その日夫は、アレッポ大学の日本センター主催の講演会で発表することになっていた。この集まりには、在ダマスカス日本大使も列席されていたが、夫の不在とその理由に場内は一時騒然としたようだった。

その後、各方面からの助力で、夫は2日間拘束されただけで釈放された。釈放後、当時のシリア首相であったムスタファ・ミロの所に行くようにとのお達しがあったらしく、夫は首相のもとへと出向いた。

ムスタファ・ミロ首相は、アレッポの観光開発のための協議のために当時アレッポに何度も足を運んでおり、地元の考古学関係者とも何回か会合を持っていた。夫は当時すでに考古総局を離れてはいたが、在野の考古学者として意見を求められ、会合の度に声高に物申していた。そのため、首相も彼のことをよく知っており、「釈放」された夫をにこやかに迎えたという。

「なんで、あんたはいつもそんなに声高なんだ。そうかっかすることはない。考古行政は考古総局に任せておけばいいんだ。いっぱい職員がいる。そうじゃないか、考古学のザイーム(重鎮)さんよ。」と、そのとき首相は言った。

夫はそれに、若干皮肉を交えて答えた。「私は、礼拝(サラー)は宗教省だけのものじゃなく、我々市民、一人一人のものだと思ってましたけどね。」

考古学に限らず、それぞれの分野に属するものには、それぞれの「祈り」「礼拝」がある。それぞれが、その「祈り」を口に出すことが出来るはずだ。それは、当然の権利であり、義務であり、政府のみに独占されるものではない。そのことを、夫は上のような、単純なたとえで訴えた。

首相は、声を出して笑った。そして「わかったよ。精進を期待しているよ。また会おう」と言い、戸口まで連れ立って送り出してくれたらしい。

その後、シリアで、それぞれの「祈り」は自由に口に出せるようになったか?
シリアで革命が起こったとき、各方面が、デモ参加者の言う「自由」の意味理解をいぶかった。しかし、それはそんなに複雑なものではなく、ある意味で、夫の単純なたとえのなかに表現されているように思う。それは、普通の市民の共有していた単純な疑問でもあった。

また、315日がやってきた。革命勃発から2年たった今、「祈り」は銃声の中でかき消されている。

2013-03-12

転機



アレッポで家族のようにつきあっていた女医の友人Sさんは、非常に多忙であったことから、長年、ハサンという男性を週一回掃除のために雇っていた。

彼はどちらかと言えば貧しい層に属する人である。しかし、働き者で、心底正直者であったことから、Sさんは安心して、家を留守にしても彼に鍵を託し、掃除を任せていた。

私も何回かSさんの家でハサンに出会ったことがあるが、仕事も丁寧で、ぞんざいな口をきくのを見たことはなかった。仕事をすることに感謝し、誠実に生きてきた人のようであった。

昨年の夏、Sさんがアレッポを出る少し前、そのハサンが電話をかけてきたと言う。その電話で彼は、自由シリア軍に入る決意をSさんに告げた。内戦で兄弟、親戚が次々と亡くなって行く中、その不条理に向き合うために彼に残った選択は、自由シリア軍に入ることだった。

彼は戦闘を好むような人物ではない。家族を愛し、自分に与えられた仕事を真面目に行い、慎ましく生きてきた、シリアにどこにでもいる愛すべき人物だ。
その彼が、あえて前線を選んだ。

「彼は、あのとき私たちに『別れ』を告げた。その後、彼がどうなったかは知るべくもないわ」

そしてこれと前後する時期に、あれほどシリアを、アレッポを愛したSさんが、国外に出る決意をした。

医師という、社会的にも高い評価を受ける職業のSさんと、そのSさんの家の掃除夫を勤めるハサン。この2人の位置は、社会的には極めてかけ離れたものだ。しかし、2人がそれぞれの選択をした時期は、ほぼ重なる。

昨年の夏、それはシリアの「革命」の一つの転機だったように思う。

「長引きすぎたわ。」とSさんは、先日避難を続けているパリでつぶやいた。「革命を理論的に担おうとした層の多くは、国外に逃れざるを得ない状況に追い込まれ、ハサンのような形で人が戦いに向かうようになったとき、「革命」は個人のレベルに降りてきたのよ。」

Sさんは続ける。「『革命』前は、私たちはリラックスし過ぎていた。国際社会に取り残されているのに、リラックスを続け、進歩した気になっていた。それはいつまでも続くものではあり得ないことだったのよ。いつかは、なにかが崩れるべきだった。でもそれがこんな形で起こるとは予想していなかった。」

「ヤヨイが昨年アレッポを離れるとき、いつここに帰って来れるのかしらと嘆いていたけど、その嘆きが私たちのものになるなんて、その時は思いもしなかった。」

彼女は、しかしその嘆きを振り回さない。望郷の念をパリの早春のなかにしまい込み、「国境なき医師団」に参加している。