2018-09-12

イドリブ前夜


数日前、アレッポ西部に住んでいる友人Mから、「関西地方の台風や、北海道の地震のニュースを見た、日本は大丈夫なのか?」とメッセージが来た。

彼の住んでいる町は、イドリブ県との県境に位置し、懸念されている政府軍による総攻撃の対象となっている地域にある。数日来、すでにその「前夜」とも言うべき攻撃が一部の地方で始まっている。昨日も病院が空爆されている映像を見た。アレッポへの総攻撃の際と同じだ。

一ヶ月前、ヨルダンからの帰路、トランジットのために降りたドバイ空港でネットを開いて、一番先に入ってきたニュースは、彼の町の隣町への空爆のニュースだった。

「僕の子供たちも恐怖でさっきまで起きていたけど、とりあえず今は寝たみたいだ。ただ僕と妻は眠れずにいる」とMは書いて来ていた。

きらびやかな空港の免税店を横目に歩く中で、空爆にさらされようとしている町からのメッセージが送られてくるのは、なんとも奇妙なものだ。人々はこの空港から世界各地に飛び立っていく。しかし、私の手の中には、どこにも逃げ場がなくなったシリア人の現実がリアルタイムで存在する。

一ヶ月前の、そんなドバイでの夜を思い出しながら、愚問と知りつつ、ニュースで見た最近の空爆などのことをM聞いてみた。

「ああ、このところの攻撃は、まだジスル・シュグールあたりへのものだからな。」

「僕たちの町?まあ、順番を待っているってところだな」

彼らしい、少しシニカルな答えがまずは返ってきた。

ただ、今回はそのあとが違った。彼は続けた。

「早くその攻撃ってやつが、始まってしまえばいい。そしたら何もかもから逃れることができる。こんな状況は、もうたくさんだ。」

「世界のどの国もシャッビーハと変わらない。テロ組織が各国に対して、過激な反応をする理由さえわかるような気がする。」

彼の名誉のために言うが、彼はこの世界で一番厳しい地域に留まる事を選び、小さなNGOで仲間と学校を支援している。アレッポにいた時も人道支援グループに入り、駆けずり回っていた。「アレッポにいた時は、武器をとらざるを得なくなった友人もいたが、僕にはそれはできなかった」と言っていた。

その彼が、今こんな事を言わざるを得ない。

「僕たちはもう、何を言って良いのやらわからなくなってしまった。国際社会はこの地域に対する相互理解ってものがあるって言う。だったら、なんで俺たちを殺す必要があるんだ?」

私たちは知っている。彼らは叫び続けていた。彼らの求めているものは極めて簡潔な言葉で表現されるもの。「自由」と「公正」。

それが別のものにすりかえられ、今まさに死を突きつけられている。しかし、彼らの中には、この二つが生きている。

彼は独り言のようにメッセージを送り続ける。

「とにかく、神様に感謝するだけだ。僕たちは人間として、人々が益を得ることをしなければならない。それ以外のことは、神様に任せるのみだ。」

「もし死んだとしても、僕たちの良心はリラックスできる。最終的には誰もが死を免れない。だけど。公正を求める中で死んだのであれば、犬死にはならない。」

少し間を置いて、「日本も地震とか、台風とか、大変だよね。神様のご加護がありますように。」とのメッセージが来た。そしてこれを最後に、ネットが切れたのか、停電になったのか、オンラインを示すサインが消えた。







2017-12-25

つなぎ合わせること


一ヶ月ほど前、長く通信が途絶えていたGからメッセージが来た。

Gはユーフラテス川沿いの村の住民である。この村はハッブーバ・カビーラといい、今ではダム湖に水没してしまっているが、当時の考古学の常識を覆す発見をもたらした遺跡があった場所である。遺跡の調査に伴い村人の多くが発掘作業に従事したが、彼女の亡父(アブ・ムルハフ)はその中でも超腕利きの発掘技術者であった。そして、彼と彼の家族は私たちの友人以上の存在であった。

この村一帯は、ここ数年ISに支配され、村人たちは普段の移動も自由には行えなかった。もちろん不自由は移動だけではない。公開処刑強制参観、宗教警察による理不尽な取り締まり等、IS支配下の生活の典型があの素朴な村々で行われていた。Gや彼女の妹は、そういったことを時たま、言葉少なに報告してくれていた。

その後、「IS掃討作戦」により、ISはこの地域から駆逐され、5〜6か月前からアレッポとユーフラテス川地域を結ぶ交通網もそれなりに復活したらしい。

Gはメッセージの中で、市民の交通網がスムーズになったことを受けてアレッポに数日前に出て来たこと、以前看護師として勤めていた医療機関にこの数年の「非従事」に伴う様々な手続きをしていること、アレッポには戦争で精神的に深刻な問題を抱えている人たちがたくさんいること、などを淡々と語ってくれた。

アレッポに人が戻ってきているのかとの私の問いには、彼女が知る範囲では、戦争に『無関係』(加担しなかった)と「認定」された人の一部は戻ってきているようだが、そうでない人は、もちろん今現在戻ってくるのは難しいし、帰ってきても特にアレッポ東部は壊滅的であるため住む家がないと言う。

「町には、ロシア人、イラン人はたくさんいるのにね。彼らの拠点はそこらじゅうにあるわ。」

「私はこの数日間、昔からの知り合いで、まだアレッポに留まっている人の家に泊めてもらっているの。西部のフォルカーン地区の周辺よ。ヤヨイの住んでいたあたりにも近いから、昨日あの辺りを歩いてみたの。あの辺りは破壊は免れているし、見た目は前と変わりが無いわ。」

「でも、あの家にいた人たちはもういない。お父さんと、ハミードおじさんはあの窓の中にいたのに。お茶を飲んで、考古学の話をしていたのに。今は、みんな、いない。そんなことを思っていると、涙が出てきた。」

「私の兄弟も何人かはドイツに行っちゃったし。デニヤ・・ヘイク(世の中は、そんなものなのね。)・・

アレッポが平静を取り戻しているというニュースを聞くたびに感じる喪失感。もし、今自分があの見慣れた街角を歩くことができたとしても、出会うのは誰だと言うのだろう。友人の家の、閉じた窓、洗濯物の干されていないベランダの光景は、なんと残酷なものだろう。そんな想いが巡った。


Gは続ける。 
「でも、私は、看護師でしょ。この戦争で心身ともに傷つき病んだ人たち、特に子供の看護をしたい。そのために、今は人道支援機関の病院や施設での職を探している。今やっている手続きは煩雑だけど、何か今後のツテになるかもしれないし。」

ただ、Gが嘆くのは、このような機関に入るためにでさえ「コネ」が必要であることである。彼女のような真摯な想いを持つ人材に、何がしかの機関が目をとめてくれるのを祈るしかない。

 ふと、彼女の父が、土中にある数千年前の泥レンガの壁を探り、歴史の一片一片をつなぎ合わせる作業を黙々と行っていたことを想い出した。彼は逝ってしまったが、彼の娘は、傷ついて砕けてしまった人々の心をつなぎ合わせる試みを、手探りで始めた。アブ・ムルハフ、彼女を守ってやって。


2017-11-20

犯罪者


もう一人の学生の話。

アレッポでの戦闘が激しくなってきていた2013年、アレッポ旧市街の一角に、文化財を自分たちの手で守ろうとしていた市民グループがあった。
このブログでも当時、少しだけ触れたと記憶している。

このグループには大学で建築を専攻していた者や歴史を勉強していた者だけではなく、地域住民有志なども参加していたが、その中には考古学科卒業生のYもいた。

彼らの活動の場所は、アレッポ旧市街の中心部である。戦闘も行われていた。実際、かなり危険な場所であった。そのようなところで、色白の気弱なYが、グループの主要メンバーとして働いていたのは驚きだったが、その頃の彼との通信を見直してみると、彼は実に果敢に、危険を顧みずに動いていたことがわかる。

歴史的建造物の前に土嚢を築いたり、ウマイヤドモスクにある美しい装飾の施されたミンバル(説教壇)を安全な場所に移したりと、彼らにできるだけのことを行っていた。

また当時から、アレッポ旧市街だけではなく、市郊外の遺跡でも激しい侵害が進行していたが、彼らはその現状に対して、少なくとも記録を残そうと試みていた。混乱が収まった時に、この資料が必要になるはずだ。Yはそう言っていた。

彼らは反政府側のグループとみなされていた。武装集団でもなんでもないのだが、常にマークをされていた。活動にたいしては、有志からのカンパもあったようだが、かなりの部分が手弁当であったようだ。

その頃、治安は悪化する一方だった。アレッポ旧市街での戦闘は止む様子もなく、ますますエスカレートしていた。

グループの活動も、危険にさらされ、停止せざるを得なくなった。メンバーのあるものは国を離れた。Yには妻子がいた。子供はまだ小さい。結果、彼もトルコへと逃れる道を選んだ。

彼らが去ったのち、アレッポ旧市街は、無慈悲な破壊行為を受け続けた。

昨年末の政府軍による制圧以降、空爆や戦闘のおさまったアレッポでは、ウマイヤドモスク修復の計画も持ち上がっていると聞いた。知り合いのTが、そのためにアレッポに戻っているというニュースも耳に挟んだ。いまだに他地域では激しい人道侵害が続いている中で、「修復事業」がどのようなコンセプトで行われるのか、違和感を禁じ得ないが、少なくとも戦闘のおさまったアレッポでは、そのような動きもでてくるのは当然といえば当然かもしれない。

そんな時、ずっと連絡が途絶えていたYから、FBに「ちょっと質問があるんですけど」と、メッセージが飛び込んできた。Yは、国をでたあと、トルコで大学院に入るチャンスを得たようで、イスラム期の建築史を学んでいた。質問に答えながら近況を聞くと、その後大学での研究は順調に進み、もうすぐ博士号が取れるはずだ、という。

そこで、先のウマイヤドモスク修復計画の話を知っているかと聞いてみた。もし、「修復」というのがまともに行われるのであれば、彼こそ、まさしくこの計画の一部に入るべきだ。そう思った。アレッポでの旧市街の修復や復興は、地元の人なしではあり得ない。

彼は言った。「ああ、そんな話があるの、聞いています。でも僕は戻れない。だって、僕はあの頃の、アレッポで文化財を守ろうとしていた活動のおかげで、『犯罪者』ってことになってしまっている」


あのミンバルを守ったのは、君なのに。

2017-10-29

泥レンガの壁


アレッポ大学考古学科講師時代の学生たちのうち、何人かはこの紛争の中、ヨーロッパにあるいは近隣諸国になんとか逃れ、勉強を続けている。

最近、そのうちの一人A はイタリアのローマ大学でPh. Dをとった。9月のある日、何気なくFBを見ていると、満面の笑顔で花束を持ち、友人達と写真におさまっているAを見つけた。初めて見る背広姿のAだった。

「おめでとう!」とその写真にコメントしたとたん、スカイプが鳴り始めた。いつも少しはにかんだように話す彼だが、今回も「なんとかなったみたいです。」とこの一大事を恥ずかしげに報告してくれた。

Aはアレッポ大学で考古学を学んだのち、同大学院でセム語を専攻していたが、紛争が激しくなった2013年の後半に命からがらシリアを出た。慣れない異国の地で、当初は文字通り空腹を抱えての生活を送っていた彼。今回のPh. D取得は、まさしく苦学の末の学位である。

彼の研究対象はシリアのエブラ遺跡から出た古代文書である。イタリア隊の発掘により1970年代に楔形文字で書かれた文書が大量に出土し、一躍有名になったこの遺跡は、彼の出身地イドリブ県にある。亡くなった夫はこのイタリア隊の研究者たちと懇意であったため、Aをはじめ何人かの学生をこの遺跡の発掘に送り込んだこともある。

その時、私も夫も至極単純に期待した。将来彼はこの遺跡で、シリア側の研究者として調査をすることになるだろう、と。自分たちの国の歴史を外国人研究者に任せておくことはない。夏の抜けるような青い空を背景に、明るい褐色の壁の遺構が浮かび上がる。泥レンガで造られた建物は、その背景となった歴史を誰かに語しむべく発掘されたはずだった。

しかしシリアでの争いは、エブラ遺跡さえも餌食にした。他の遺跡と同様、ここも盗掘の対象となり、激しい侵害を受けている。イドリブ博物館の収蔵されていた粘土板文書コレクションも、現在どうなっているのか不明である。

久しぶりにゆっくり話すことのできたAに今後のことを聞いた。学術的な方面でイタリアに残る術はないのかと思ったのだが、彼の答えは、あまり芳しいものではなかった。イタリアは経済的にもそれほど余裕がない、彼のように学位をとった学生はうようよいる。また学術機関ではなく、何か別の仕事を探すにしても、あまり期待はできない。可能性として、1年ほど前にベルギーに出て難民認定を受けた家族に合流して、自分も難民申請することも考えていると。

歴史を語る術を身につけたことと、彼の人生の選択肢は別物である。

私たちがあの夏の日に見た夢は、まだあのくずおれた壁の中に残っているのだろうか。