2016-11-10

Slow Death、ゆっくりと忍び寄る死

الموت البطيء

ホムスから、待ちに待った刺繍が届いた。2年越しの、願いがようやく叶った。
どれをとっても我々が見本として送ったモチーフには程遠く、布の端は無造作に「処理」されている。

昨年より幾度かこの刺繍の写真が送られて来ていたが、あまりの稚拙さに、実際なんと感想を送って良いものやら、戸惑っていた。しかし、童画のような刺繍の色合いに、そこはかとなく彼女らの茶目っ気を感じた。


ただ、同時に、彼女らの刺繍には、黒い糸で表現されたホムスの時計台や、土にまみれたパンと涙、降り注ぐ銃弾、包囲された「アレッポ」が混じる。

ホムスは2年前に政府軍により「解放」された。アレッポへの激しい空爆のニュースは、現在ニュースでもしばしば報道されるが、「解放」されたホムス近郊の町が未だに「包囲」されていることは、話題に上らない。

Bは、果敢にこの包囲された地域ワイルに支援物資を入れようとしているが、常にそれが成功するわけではない。以前にも書いたが、彼女は一度拘束され、今でもマークされている。

最近の彼女は私へのメッセージで、人々への「不信」「疑心」を嘆く。
「不安が常につきまとっている。いつも、誰かに自分を見張られている気がする。」

明日という日は来る。しかし、その日が良いものになるとは、誰も信じていない。自分たちが向かう方向を考えることすら、自嘲的な行為となる。自分が今まで信じてきたものを暴力的に否定する、不条理な力に迎合するしかないのか?彼女はそういった輩を、この数年の間、なんと多く見て来たことか。

包囲された地域での物質的欠乏は、激しい。だが、今それ以上に激しいのは、以前のコミュニティーが基本として持っていた信頼・安心感の欠乏である。

「包囲」の中で、「死」はゆっくりと忍び寄る。

彼女は途切れ途切れのメッセージの中で、自問し、抗う。彼女らの童画のような刺繍の中にもその葛藤が見え隠れしている。






2016-08-01

ホムスの刺繍、再び。


ホムスで人道支援をしながら、我々の刺繍の活動に関わろうとしているBのことについては何度か書いた。

彼女は、ホムス・ワイルを嘆き、アレッポを嘆く文字を刺繍布に縫い込む。小さな布切れに彼女の慟哭を表現する。

私たちは彼女の刺繍に、「愛」や「平和」、「希望」の文字を望んだ。しかし、彼女は刺繍のひと針ひと針に嘆きを込めることしかできない。「愛」や「平和」は私たちの気休めでしかない。今では誰も耳を傾けない不条理への訴えが、ほつれた糸の端に見え隠れする。

彼女は、この刺繍をメッセージとして、なんとか私に届けようとしている。世界が殺し合いの映像を通して様々な憶測をするなか、彼女の刺繍は紛れもなく今のシリアに生きる女性の声を代弁する。

つい先ほど、彼女からメッセージが来た。拘束されるかもしれない、とメッセージは告げる。彼女の包囲地区への支援は、一方では「反政府運動」というレッテルを容易に貼り付けることのできるものなのだ。

ラマダン明けイードに私たちが送った少しばかりのお金で、多くの人が久しぶりに肉を食べることができた、と喜ぶ彼女に、このような「レッテル」を貼ろうとすることの愚かさを、今更ながら私は憎む。

「送ろうとしていた刺繍は、信頼する人に預けたわ。何かがあった時のために。」と彼女は言う。

最後に送られてきた写真は、「アレッポ」と刺繍した小さな布片のそれ。未だに稚拙で素朴すぎる刺繍は、彼女の痛みそのものなのだ。





2016-03-19

5年ののち


書類を整理していたら、5年前の春に書いたシリアについてのメモが出てきた。

「・・・皆変革を願っている。腐敗も身に沁みて知っている。だからこそ期待はするが、後戻りへの恐れも十分にその背後にはある・・・」

5年前の2011年の3月下旬、私はシリアにいた。
この前年末より日本に帰国していたが、シリアで日本のテレビ番組現地ロケのコーディネートをするという用事もあり、シリアに戻った。

この少し前の315日にダラアで「人民蜂起」的な騒動 — その時はそんな風に考えていた が起こっていたが、ダマスカスでも、アレッポでも街中ではそれほど緊張した空気は感じなかった。

この時は所用のため、すぐにはアレッポに行かずにダマスカスに数日滞在した。その間、タクシーの運ちゃんなどに「ダラアで騒乱があったようだけど、アラブの春の影響があるわけ?」などと水を向けたことが何回かあったが、運ちゃんは「いやいや、シリアでそんなことは起こりっこないですよ。シリア人は『分別』がありますからね」などと、全くノって来てくれなかった。

3月末にダマスカスで、政府の動員による政府支持のお仕着せデモがあったが、この類のデモは私がシリアに滞在した20数年間に普通に行われていたものである。この手のデモがあるたびに、デモに駆り出されても、途中でサボって家に帰ってしまう公務員たちを、気楽でいいわね、くらいの感覚で見ていたものだ。

この時に異常だったのは、夫の反応だけだった。久しぶりにシリアに帰るのでダマスカスまで迎えに来て欲しいと甘えたが、今回は何が起こるかわからないから、一人で帰って来て、とつれない。どうして?街はいたって平穏じゃない、しかも何か起こるのだったら、私にも何か起こるかもしれないのにそれでもいいわけ?と若干冗談めかして聞いたら、「冗談じゃないんだぞ」といつになく厳しい口調だったことを覚えている。

あとから聞くと、この前の数日、大統領がメディアなどに登場しなかったため、暗殺されたのではないかというまことしやかな噂が巷では流れており、首都への交通が遮断されるかもしれないと考える人々が少なからずいたらしい。

普段は鷹揚な夫だが、こと政権周辺のことに関しては、時に神経質すぎるほど警戒することがあった。何かがあったらシリアでは「冗談ではないのだ」ということが、夫の世代は身に沁みてわかっていた。

2000年バッシャール・アサドが大統領になった時、「自由な意見」の投稿が行える週刊新聞が刊行されたことがある。なんとなく、何かが変わりつつあるのかもしれないと皆が錯覚した時期だった。そこで「ドマリ」と名付けられたこの週刊新聞に、夫は考古行政に物申す記事を何回か書いた。この一連の記事はそれなりに好評だったようだが、その数ヶ月後、夫は政府に問答無用で拘束された。いろいろな経緯があり、幸運なことに夫は2日で解放されたが、やはり「冗談」は通じなかったのである。

上の夫の経験は、「冗談ではない」ことでありながら、それなりに収まった例である。しかし今私達は、「冗談ではない」状況が収まる兆しも見えずに進行しているのを目の当たりにしている。

しかしながら最近の「停戦」の中で、人々は再びデモを始めた。多くの仲間が失われ、多くの人々が国を離れたシリアの中で、残った人々はまた声を上げ始めた。

アレッポに残る友人は言った。「空爆がないって、こんなにゆったりするものなんだ。女の人も子供も、みんな久しぶりに公園でお茶を飲んでいる。そして、僕たちは、再び最初に立ち戻って要求を掲げる。この5年間シリアで起こったこと、その全ての後で、僕たちはもう一度声をあげる。」

事態が「シリア」から乖離しつつある中で、彼らの声はまさしく「シリア」の声ではないのか?