2012-08-30

慟哭


昨日、トルコにいる自由軍のMSと、途切れ途切れながら、音声で話すことが出来た。

話しが、再び山本美香さんのことになったとき、彼が少しナーバスになった。彼は言う。「彼女の死を我々も悼んでいる。冥福を祈っている。彼女の血を評価している。日本は彼女の死をずいぶん報道したみたいだし、世界もそうだ。しかし、日本は、流され続けている数万ものシリア人の血には関心がないみたいじゃないか。政府もそのことに関する声明を出したようだけど、我々の血には一言も触れなかった。仲間も彼女と一緒に死んだのに。」

「なぜだ。我々はいつも日本を好きだと思っている。もう一年半たった。だけど、この中で、我々の血に関して、関心がある発言を聞いたことがない。」

口を挟もうとしたが、「あなたに言っているんじゃない。わかってる。だけど、我々の仲間の中には、あの事件のあと、じゃあ、俺たちの血はどうなんだ、と苛立っているものがたくさんいる。あなたに言ってもどうしようもないかもしれない。でも、我々はすごく傷ついている。」

援助が、といいかけたら、彼はさえぎった。「援助のことを言ってるんじゃない。何で関心がないんだ。みんな、これだけ死んでいる。それなのに、世界がそのことに関心がない、と感じることが、どんなに傷つくことか。」

何かを言おうとしたが、彼の勢いに負けた。彼は、繰り返した、我々の血は人間の血じゃないのか、と。

その後、音声が途切れ途切れになり、切れてしまった。

わかっている、と繰り返した私。だけど、何がわかっているのか、わからなくなった。20年以上過ごした、シリア。大地は赤く、肥沃である。その土で育った麦を食べ、野菜を食べた。すべて私の血に、そして娘の血になった。それだけでも、彼らの血と交わっている、そう思ってきた。

しかし、現実に、今、私は日本にいて、頼りない話ばかりしているのだ。彼が私を責めたのではない。わかっている。だけど、彼の感情もまた事実なのだ。

数時間後に、FBを開くと、メッセージがあった。

「私は警察の将校職が染み付いていて、外交的な口が聞けず、申し訳なかった。あなたは私たちのうちの一人だって、思っていますよ。」

そうありたいと思っている。

2012-08-23

ラマダン明けイード


ラマダンがあけ、イードが始まった。イードの挨拶を、チャットのメッセージに書き込んだ。相変わらず、誰もオンラインにいないが、いつか届くだろう。

そして、イード3日目の21日早朝、日本人女性ジャーナリストの山本美香さんがアレッポで亡くなったというニュースを知る。衝撃だった。そして同じ日、仕事の関係で見た、ヴィデオに映し出されるアレッポの街の様子に、さらに頭が真っ白になった。

イードである。いつものイードなら一張羅を着た人々が、親戚や友人の挨拶周りで、うろうろとしているはずの通りには、今年は誰もいない。臨時に街角に設置されるブランコはなく、ただただ銃声の響く街。お年玉を持って、駄菓子屋に走る子どもたちがいるはずもない。

この状況では当たり前なのだ。しかしわかっていても、悪い夢を見ているようだった。

判然とはしないが、おそらくジャミリーエ地区付近ではないかと思われる街かどには、土嚢が積まれ、銃を撃つ兵士が映し出される。また、他のシーンに登場する街角の映像にも、見慣れたパターンの家が見える。確かにアレッポである。だけど、そこは、なんと違った世界になっていることか。

21日深夜、夫の娘Oがオンラインに来た。他の二、三人も。急いでとりあえずOにメッセージを送った。今日は、携帯を通じてのFBならば通信できるという。これもいつ切れるかわからないが、とりあえず彼女はいた。長くは語れなかった。でも、とりあえず確認した。それでよしとするしかない。

そうこうしているときに、自由シリア軍のMSがメッセージをくれた。その中には山本さんの遺体をシリアからトルコへと移送するために尽力してくれた、自由シリア軍の士官の名前があった。また、山本さんへの深い哀悼の意を表するシリア人ジャーナリストたちのことも書かれていた。

彼らがどのようにこの件で働いてくれたか、どんな言葉を交わしながら動いてくれたか、想像がつくような気がする。あまりにも悲しい出来事ではあるが、MSの短いメッセージの中に、いかなる状況にあっても暖かいシリア人の心が読み取れた。

山本さんの冥福を心から祈るとともに、彼らにも、やはり深い特別な思いを送りたい。彼ら全てに祝福あれ。

2012-08-16

トルコの離反者キャンプとアレッポの不気味な沈黙


数日前に、ふとしたことから主人の姪っ子の消息がわかった。彼女は、警官で今は離反してトルコのアンタキアの自由シリア軍司令部にいる彼女の夫とともに、離反者専用のキャンプにいるらしい。彼女の夫は、今回、反政府のひとつの砦であるマアッラト・ル・ヌアマーン出身で、この町に住んでいたが、数ヶ月前に所属の警察署を離反し、トルコに逃れたという。

甥っ子のハムドゥが、彼がヤヨイと話したがっているから、と彼のスカイプ・アカウントをくれた。コンタクト・リクエストを出したとたんに、承認の返事が届き、いきなりコールがあった。

彼は、まず姪っ子が声を聞きたがっているからと、姪っ子にかわってくれた。久しぶりに聞く彼女の声である。そして彼女は、「Mおじさんと家族もここにいるのよ」と伝えてくれた。

M?義弟のM?では、彼らはどういう経緯かはわからないが、どこかで合流したのだ。あいにくその日は、Mはイスタンブールに行っていていなかったが、とりあえず彼の消息もわかり、それなりに安堵した。

彼女は、「キャンプの生活は非常に厳しいけど、今はどうしようもない。でもアレッポが懐かしくて仕方ないわ」と言っていた。彼女らは、特に立場上、当分はシリアに戻れないだろう。

その後、彼女の夫MSと話すと、彼は、現地で司令部の広報担当をしているという。「離反はしたけど、前線には行きたくない。でも、現況のために、何かをすべきだ。だから広報を選んだんです。」という彼に、給料なんかもらってるの?と下世話なことを聞いた。

彼が言うには、給料などない。ただ、キャンプにいるので、食住は無償、あとはシリアから持ち出した貯えを少しずつ使って、必要なものを手に入れているそうだ。

「アレッポからの情報も、結構頻繁に入るし、気になるだろうから、また聞きたいことがあれば答えます。ちなみに昨日来たアレッポ城の写真を送りますよ」とダメージを受けたアレッポ城の写真を送ってくれた。

夫の一族は、夫の影響か、職業や日常生活は考古学などに縁遠い割には、遺跡に関して、それなりの理解を示してくれている。彼も、FBに自由シリア軍の兵士が遺跡を破壊せぬよう、という主旨のポストをしていた。

あれから数日。ネットのニュースは、アレッポへの大規模攻撃を伝えるが、詳細は不明である。

問題は、この2日というもの、アレッポの知人、友人が誰もオンラインに来ないことである。甥っ子が3日前にチャットを仕掛けてきたとき、少し用のあった私は、またあとでね、と応答した。

しかし、それ以来、みんなが沈黙している。電話も携帯、地上電話ともつながらない。心配なので、まだレバノンにいるSさんに聞いてみた。彼女もやはりアレッポとの通信を試みていたが、同じく、誰ともつながらないという。

アレッポで何が起こっているのか?不気味な沈黙の日々が続く。

アレッポ、ハムダニーエ地区の砲撃を受けた建物。
教え子のSが住んでいた。彼は、とりあえず無事で、今田舎に帰りついたらしい。

2012-08-07

アレッポ城


昨日(5日)来、アレッポ城が砲撃を受けているというニュースが伝わって来ている。最初にそれらしきことが、FBに載ったときは、まさかと思った。その後、夕方FBを開いたら、自由シリア軍がアレッポ城に立て籠もっているがために、政府側が彼らに、そして城に攻撃を仕掛けている。自由シリア軍よ、城から出てくれ、という内容の投稿があった。

そして、その夜中。ベイルートに一時「避難」した友人のSさんとスカイプで音声通話をしたとき、その第一声が「アレッポ城に何が起こっているか知ってる?」というものだった。

このニュースが間違いであってほしい、と思っていた私は、彼女の話に、改めて愕然とした。彼女もアレッポの友人から聞いたらしいが、その友人は、その目で砲撃が行われているのを見たというのだ。

その後も、FBで数人がこの件に激しい失望感をもって触れているのを見た。詳細はやはり不明だが、アレッポ城にまで騒乱の手が伸びたのは本当らしい。

アレッポ城はアレッポ市民の象徴的存在だ。周辺のオールド・タウンも含めて世界遺産にもなっている。いや、世界遺産云々という話はよそう。その「栄誉ある」タイトルでさえ、空しい気がする。そして、Sさんが言った言葉が、なによりもこの出来事へのどうしようもないやるせなさと、今起こっていることが含む矛盾を物語っている。

彼女は言った。「フランスが統治していたときでさえ、アレッポ城を攻撃したことなんかない。なのに、今、私たちが、私たちの手で、私たちの象徴を壊してるのよ。誰でもない、私たちが・・」

彼女は、今回ベイルートに着いたときのメッセージとして、「アレッポでは、私たちの体が砲撃を受けている。だけど、ここでは心に砲撃を受けているような気がする」と書いてきた。とりあえず安全な場所にいるからと、手放しで喜ぶ避難民は誰もいない。みな、あとに残した家を、街を、そして国を思う。そして離れれば、離れるほど、その気持ちは強くなる。

日一日と状況は悪くなっている。危険度も増している。アレッポの、いわゆる閑静な地区であったメリディアン地区でさえ、一昨日あたりから砲撃の対象になり始めている。この地区に住む友人は、昨日緊急の用で外出し、戦車の間を縫って、程遠からぬサビール地区にある実家に行ったが、当分自宅に戻れるめどはつかないと、Sさんに伝えてきたという。

アレッポが麻痺している。アレッポの優しい風が、今は崩された建物の粉塵を舞い上げている。イフタールは、アザーンではなく、銃声を聞きながら食べる。

それでも・・・、彼女は、ベイルートでの用が終われば、やはりアレッポに帰って来るに違いない。

2012-08-04

人々は強く


アレッポでの本格的な「戦闘」が始まったとき、スッカリという地区にいる友人が、現地時間の早朝にチャットをしてきた。スッカリはサラーハッディーン地区と同様、アレッポの中では一番、激しい闘争に巻き込まれている場所である。

彼は、その時、自宅から若干離れた友人の家にいたようだが、激しい銃声、砲声で夜は眠れず、かといって家にも戻れない状態であったらしい。チャットの途中で、スッカリの自宅にいる彼の母親から電話がかかって来た。母親は「今は帰ってきちゃダメ」と言っているらしい。

でも、ということは、お母さんたちが大変なことになっているんじゃない!というと、今、このあたりはもうどこもかしこもだめだからね、と結構落ち着いている。しかし、かなりの確率で、かなり危険な目に会う、と覚悟をしている。実際、「死ぬかも知れない」という表現を使った。普段なら冗談にしか聞こえない言葉が、今は真実になってしまっている。そうこうするうちに、ネットが切れたのか、停電になったのか、彼はオンラインから消えた。

その日のニュースは、アレッポでの激しい戦闘が一面を飾っていた。集中的に戦闘が行われているサラーハッディーン地区には、一般人はもうほとんど残っていないと伝える。

そして2日後。彼がオンラインにいた。今、ハラブ・ジャディード地区の友人の家に家族全員で避難している、と伝えてくれた。よかった、とりあえず、逃げたんだ。「走ったよ。とにかく走った。走るしかなかった。」と言っていた。多くは語ってくれない。でも、彼のこの言葉は十分に戦慄的だった。

同じ日、女医のSさんは、自分のもうひとつの持ち家を、サラーハッディーンから逃げてきた人たちに解放したという。また、FBをみたら、彼女や他の数人が、どこの学校が「避難民」を一時「収容」しているか、どの病院が救急の用意があるか、などを掲示していた。

おそらく、ネット以外でもこういったニュースがなんらかの形で伝えられ、自助努力がなされているのだろう。政府が「なけ」れば、自分たちでやるしかない。こんなどん底で、人が動いている。

ダマスカスでも、戦闘が激化したあと、やはり友人が、救急病院、薬局、避難所などを詳しくFBに載せていた。

出口はまだ、一向に見えない。

だけど、シリアには、まだ人がいる。信じるしかない。