2012-04-29

考古学とシリア危機


アレッポ大学時代の教え子のうち、少なくとも10人以上が今、ヨーロッパの大学の修士や博士課程で勉強している。

ベルギーで金属器の修復に関して勉強をしているSもその一人だ。先日、私をフェースブックで見つけたらしく、連絡をしてきてくれた。

修士論文はすでに出し、今度は博士課程に進むと言う。博士論文の題目が決まらないから、相談に乗ってくれと言うので、出来る範囲内で、と交信を始めた。

彼は、大学入学当時からやんちゃ坊主的キャラクターを発揮していたが、そんなに出来る学生とは私も夫も思っていなかった。しかし、最初の試験で、他をかなりはなしてダントツの成績一位をとってしまった。

たまに生意気な口もきくので、夫はタマにキレていたが、行動力もあり、何より考古学を楽しんでいた。3年前に奨学金をもらうことになり、ベルギーに国費留学したが、その後、通信が途絶えていた。

昨年の夏ごろ、夫と話したとき「Sが近頃、外国在住の反政府派ってことでテレビのインタビューに何回か出てたぞ。」と言ったことがある。えー?でも彼ならありそうだよね、と言いつつ、私は彼が面倒に巻き込まれなければいいけど、と思ったものである。

そのSと昨日スカイプで長話をした。博士論文の話も勿論したが、最後にはやはり、今のシリア情勢の話になる。しかも彼はいわゆる「活動家」を自負しているのである。全部は言わないが、かなりいろいろなことを把握しているようであった。

つかまっている友人のことや、いろいろな話をしたが、そのあと彼は「先生、今僕が一番心配なのは考古遺物の盗難や流出なんだ。勿論、人命保護とか、難民の問題とか、そういうことが優先順位が高いのはわかっているけど。昨日もダラアにいる友達が、それらしき(盗難の)場面を見た、と言ってた。」と言う。

私も同感であるし、それこそ、考古学を曲がりなりにも勉強し、教えてきたものとして、ネットの報道などで遺跡破壊などの記事を見ては、呆然としているしかないのが歯がゆい。実際イラクで起きたようなことが起こらぬとも限らない。ただ、何をすればいいのか。

彼にしても同様である。ただ、彼には通信網があるようで、部分的にではあっても、何が起こったかを知ることはできるようだ。そして、もしそういう情報がはいったら、国際機関に訴えたりするようなことを手伝ってほしい、と言うのである。

思えば、イラク戦争のときも、バグダード陥落の前に、夫と知り合いに遺産保護を訴えるメールを送ったことがある。

Sとの話は、夫の遺志を再認識させてくれた。

2012-04-26

アズィズィーエの一角で


アレッポで、航空券やその他旅行の手配をするときは、20年来友人のJの代理店でやってもらっている。アズィズィーエという、アレッポでも一番の繁華街に店を構え、シリアのこの業界の中でも最も信用の置ける代理店の一つである。従業員は7-8人で、ほとんどがクリスチャンであるが、彼はムスリムである。

この2月にフライト変更手続きに行ったときは、シリアへの制裁の関係でいろいろ面倒なことが多かったが、それをいやな顔一つせずにやってくれた。一番大変だったのは、ダマスカスに代理店のある航空会社への変更料金の支払いである。

クレジットカードも使えない状況になっており、ドル現金をダマスカスに送るわけにもいかず、彼がとってくれた手段は、彼の店と取引のあるダマスカスの店で、ドルの「ツケ」のあるところを探して、その店のヒトに航空会社までドルを届けてもらうと言うものだった。

この操作をしていると、発券までにちょっと時間がかかりそうだ、と彼がすまなそうに言った。いいお天気の日で、「危険」と言われた町歩きも、ここならばそれほどでもないだろうと思い、私と娘でアズィズィーエを久しぶりに歩いてみることにした。

外にでて、アレッポの中ではしゃれた店がある一角を少し歩いたが、ここでもかなり店が閉まっている。レストランも一部店じまいをしている。ただ、ホブズを売るベーカリーのところだけが、いつものような人だかりがあった。焼きたてのホブズのこうばしい匂いだけが、アレッポにいることを実感させてくれるようだった。

さらに歩いて、Mango(洋品店の名)の前に出た。つい数ヶ月前まで、素敵なショーウィンドーを誇っていたこの店も、今は中ががらんどうになっていた。

若干意気消沈しかけたが、奈々子が、このすぐ先に、おいしいサンドイッチ屋があるよね、と言ったので、気を取り直してサンドイッチを食べることにした。

普段なら、ひっきりなしに客の来るサンドイッチスタンドだが、今日は私たちしかいない。時間も12時を過ぎているのに。

レバーのサンドイッチと、飲み物を二つずつ頼み、店の前で食べる。このサンドイッチとジュース二人分の合計は日本円にして約300円である。日本の感覚からすれば、ずいぶん安いのだが、以前の価格からすると、かなり値上がりをしている。

飲み物の封を開けるのにてこずっていたら、店の前に椅子を出して座っていたアルメニア人と思われるオヤジさんが「かしなよ」と言って開けてくれた。シリアではこんなやり取りは、極めて当たり前である。だけどこのときは、このなんでもない気使いがやけに心に浸みた。

2012-04-24

コンピューターの便利屋


夫の弔問の期間が終わったあとも、「出遅れた」友人が何人か、家に来た。「正式」な弔問の際は、男女別だったこともあり、男性の友人と話が出来なかった。しかし、この遅ればせの人たちの中には、私もよく知ってる友人が混じっていたので、彼らとは、かえってゆっくりと話しをすることが出来た。その中に、コンピューターの便利屋のようなことをしているSもいた。

夫は、根っからのアナログ人間で、書き物をいまだに、全て、手書きでやっていた。教え子のA は自分の勉強になるからと、一部その手書きの原稿を、タイプしてくれていたが、夫は相当書き溜めていたので、とてもおっつくものではなかった。

あるとき、「やっぱりこれは全部タイプしておかないとなあ。」と言って、コンピューターの便利屋、Sを連れてきた。アレッポには、とても近代的とはいえない街区もまだ残っているが、そこに小さな店を構えて商売をしている男性であると言うことであった。

コンピューターやインターネットは近年シリアでも必需品になりつつあるが、このような機械とは無縁の生活をしている層もまだ多く、その人たちのために、タイピングをしたり、メールサービスをしたり、コンピューターの修理や調整をしている店が結構ある。彼の店はそんな店の一つらしい。

Sは、前に一度政治犯として捕まったことがあるような経歴だと言うことで、夫が言うのには、「そういう輩は、本をとりあえず読んでいるから、アラビア語の間違いが少ない。だから、タイピングでも、妙な間違いが少ないはずだ。」と言うことで、彼を選んだようである。

夫はまずは、「アッシリア王碑文」のタイピングを頼んだ。元から相当な量で、タイピングだけでもかなり時間がかかり、さらに専門用語も多かったので、見直しやらなにやらで、さらに時間を食った。結構な仕事量だったが、ようやくメドがたった。

あるとき、アレはどうなったのかと夫に聞いてみた。夫は、若干不機嫌にSが逃げた、と言った。え、どういうこと?と聞くと、なんでも、治安当局に追われて店を閉めて、消えたらしいと言う。え、じゃあ、あの原稿のコピーは?と聞くと、何回か前の校正のCDはあると言っていたが、最終版ではないようだった。

その後、夫にその話しをすると不機嫌になるので、ずっと、うっちゃっておいた。

昨年の夏ごろであったろうか。夫と話したとき、Sが捕まった、と聞いた。「あいつは、もとから捕まりそうな言動をしてたからな。」と言っていたが、詳細はわからなかった。

そのSが、弔問にやってきた。元からやせた人だったが、さらに痩せて、前より白髪が大幅に増えている。天気の良い冬の日だったので、ベランダに椅子を持ち出して、話をした。

ポツリ、ポツリと夫の思い出話をしながら、「政治犯」の彼が「アッシリア王碑文」だとか「アッシュル・ナシルバル」などという名前を口にする。「ハミード先生に会わなかったら、こんな昔の王様の名前なんかに一生付き合うことなかったな。」と遠くを見ながら言う。でも、タイプしながら、面白かったよ、と。

冬の日を浴びて、Sの顔はやけに白く見えた。

どういう風に捕まったの、と聞いたら、ある日、治安の人間が店にやってきて、コンピューターも何もかも、ぶち壊して、俺を引きずっていったんだ、という。「その後は、毎日刑務所の地下で、朝夕「鞭打ち」の定食を食らってたんだ。半年以上かな。」「でも、主義主張、変えたわけじゃないんだぜ。」と力なく笑った。

気になっていた夫の「アッシリア王碑文」の最終版のことを聞くと、「コンピューターは壊されたし、CDもめちゃくちゃにされたけど、ちゃんとコピーが別の場所にとってあるよ。」と言ってくれた。すこし、ほっとした。

そこに、彼の小さな息子が呼びに来た。よければ、残った分もタイプするから、と本棚のほうを見やりながら、そう言い残してSは帰っていった。

本棚には、手書き原稿のつまった二つのダンボール箱と数個のかばんが、前と同じ位置に今もある。

2012-04-18

アフマド・ムスタファ


アフマド・ムスタファはシリアの中でも最も古い友人の一人だろう。彼は、トルコ国境に近いユーフラテス川沿いの、小さな村、テル・アバルの住人である。

テル・アバルの村には、夫と私が発掘をした、紀元前6千年紀から4千年紀にかけての遺跡があった。「あった」と過去形で書いたのは、今は遺跡の大半が、ダム湖に沈んでしまったためである。

1989年、彼がまだ12-3歳のころ、私たちはこの遺跡の発掘を始めた。シリア隊の貧乏発掘で、村の少年たちを雇って掘っていたところ、ちじれっ毛の、細っこい男の子が、やはり雇ってほしい、と来た。アフマド・ムスタファだった。やらせてみたが、あまり力もなく、即刻クビにしてしまった。

次の年の発掘が始まったとき、彼はまたやって来た。前の年よりも背がかなり伸びていて、少したくましくなったようだった。再び、彼の「力量」のテストをした。今回は合格だった。

それ以来彼は毎年発掘に参加し、毎年「腕前」も上がり、背も伸びた。最終シーズンの1993年には、ほぼ人夫頭のような仕事振りであった。専門知識があるわけではないが、遺跡や遺物に非常に興味を持ち、楽しみながら仕事をしていた。

我々の発掘は終わってしまったが、彼は発掘の仕事が好きでたまらず、次の年からは、隣村(テル・アフマル)のベルギー隊の発掘に雇ってもらい、さらには、別の村のイタリア隊で働くことになった。

現金収入の少ないシリアの僻地の村であるから、発掘隊の人夫になるには、結構「競争率」が高いので、彼はわざわざアレッポの私たちのところまで、外国隊への推薦状を書いてもらいに来たことがある。

彼は、イタリア隊で働き出してから、10年近くになり、片言のイタリア語もしゃべることが出来るようになった。そして、結婚し、子どもも出来た。小銭も少し出来たのか、牛を買い足し、村で暮らすにはまあまあの収入もあるようになってきた。

コンピューターも買ったという。いつか、デジカメを買うから、店に連れて行ってほしい、と私のところに来たことがある。子どもの写真を撮るの?と聞いたら、それはそうだけど、遺跡の写真も撮るのだという。思わず笑ってしまったが、彼は悪びれず、だって、遺跡ってすごくいいもんだよ、と言った。

しかし、彼の言葉に、いまさらながらに気付かされた。これが、学問以前に遺跡で働くものに必要な感情なのだ。

彼は、歴史を語るわけでもなければ、博士論文のために遺跡を掘っているわけではない。しかし、掘る作業を通して、「好き」になってしまったのだ。そして、アレッポに来るたびに、近辺の村の考古事情を話してくれた。どこそこの村には、こういう感じの土器がいっぱい落ちているところがある、だの、どうも・・村の墓は盗掘されたあとがあるみたいだの、と。

彼の情報は、それなりに貴重だった。テル・アバルの村で、ダム湖の波に洗われて新石器時代の遺跡があることがわかったのも、彼の一報がもとだった。

その彼が、夫の葬儀の数日後にやって来た。夫の家の戸口のところに、真っ赤に目を泣き腫らした彼がうずくまっていた。二人で、夫の突然の逝去を再び嘆いたが、ふと、この状況でよくあの田舎からアレッポまで来ることが出来たものだと思い、道々どうだったかと聞くと、道中は検問が厳しい以外は、何でもないと言う。

「だけど」とかれは続けた。「僕の村も、隣村も、イタリア隊の発掘していた村も、毎日のように、殉教した兵士が運ばれてきて・・・近頃、葬式がやけに増えたよ。」

考古学の発掘をやっていたときは、墓を歴史のために掘っていたが、今、村の住民は、自分たちの子息の墓を掘ることを余儀なくされている。

2012-04-15

早い春の一日


帰国を早めるため、友人の旅行代理店に行った日は、抜けるような青い空の広がる冬の一日だった。

教え子のWが、「車を使うのであればいつでも連絡して」と言ってくれた言葉に甘えて、迎えに来てもらい、旅行代理店へと向かった。

冬の透明な日の光が車に差し込んでいる。数年前のちょうどこの時期に、サンシモン遺跡に行ったときも、こんなシンと澄んだ日だったことを思い出し、Wに、「あの時、みんなで、サンシモンに行ったのも、こんな日差しの日だったよね。」というと、彼も思い出してくれた。

当時ヨルダン勤務だった私が、休暇をとって帰ってきたとき、夫が、朝起きていきなり、「いい天気だ。サンシモンに行こう。学生を連れて行って、みんなでバーベキューしよう。」と言い出した。まだ寒いんじゃないの、と思ったが、学生に連絡すると、「せっかくヤヨイ先生が帰ってきてるんだから、行きたい。」と言ってくれた。

12人ほど集まり、ポンコツのセルビスカー(シリアの乗り合いミニバス)をどこからともなく調達し、途中のデールト・アッゼの町で肉と野菜とホブズ(平たい、シリアでは主食のパン)、ヨーグルトを買い、サンシモン教会跡近くについた。この一帯は、ビザンチン時代の教会跡、宿場跡が石灰岩地帯に延々と広がっている「死せる町々」と呼ばれる地域である。

夫は「サンシモンじゃなくて、この下の、教会跡が絶好のバーベキュー・スポットなんだ」と言う。くずおれた教会の壁がうまく風をさえぎって、バーベキューの火をおこすのにちょうどいいという。

考古学者にあるまじき遺跡の乱用だね、と冗談を言いながら、そのバーベキュー・スポットとやらに赴き、学生は「原始炉」の設営を始めた。

私と夫は、「先生」の特権で、「原始炉」が出来るまでの間、そのあたりを散策した。近くは、ごろごろとある石灰岩を丹念に除き、農地にした場所である。この地方特有の赤い土に、冬の雨をうけて萌え出した雑草が這っている。その中に、クロッカスの類だろうか、山吹色の小さな花をつけている草があった。

春にはまだ早いのに、けなげに、しかし凛と花を咲かせている。背景の赤土が、つやつやとした山吹色をより際立たせている。じんとくるほど綺麗だった。花の横に、夫の影があった。

ふと我に返ると、旅行代理店の前に来ていた。中に入ると、友人が、変らない暖かい笑顔で迎えてくれた。彼の笑顔と、この日差しが、私の知っているシリアそのものなのだ。

2012-04-11

大学での抵抗運動


アレッポが全体にまだ平穏だったころも、アレッポ大学内では、学生と治安要員たちとの衝突があることは聞いていた。

私が2月にアレッポに行ったときも、工学部に通うSさんの息子Hが、そのころ工学部で起こっていた衝突や、事件に関して話してくれていた。大学に行ったら、研究室のドアや窓が壊されていたこと、学生がバリケードを張り、治安側とやりあったこと。催涙ガスをあびせられたこと・・・。勿論、検挙者もあった。そのころは、学内では主に工学部が運動が盛んだったようである。

数日前に、考古学の学生であったSとチャットをしたら、彼もその日、大学でのデモに参加したと言っていた。と言うことは文学部でもやっているのか、と言うと、今はどの学部でもやっているとのこと。

勿論治安部隊がやってきて、彼は、催涙ガスを浴びたらしい。目が開けられないだけではなく、息も出来なくなってしまった、と言うが、まだそれだけでマシだったと言わざるを得ない。ほとんどの学生はその後構内から追い出されたようだが、一部にはやはり拘束されたものもあるようだ。

彼は、昨年夏に大学は卒業したが、兵役逃れの意味もあり、大学のディプロム課程に進学した。「殺すのも、殺されるのもイヤですよ・・・しかも何のために?同じシリア人を・・・」

彼は、イドリブの出身だが、このところ、やはりアレッポに家を借りて住んでいる。一週間後には母親とともにベイルートにいる兄の家に行くという。サウジアラビアで働いている別の兄がベイルートに来るので、そこで合流すると言うのだ。

そして、「実はサウジで働けないかと、兄貴に聞くつもりなんです。」と打ち明けてくれた。彼は日本に留学して考古学をやりたいと前々から言っており、イドリブでの日本隊の発掘にも参加していた。まじめで、有望な学生であった。しかし、この状況ではどうしようもない、と見切りを付けかけたようなのである。

「また、落ち着いたら、勉強始めたいですけどね。」という言葉がすごく悲しかった。

今日(10日)、ネットを開くと、レバノン国境付近でレバノン人カメラマンが銃撃を受け殺されたと言う記事が出ていた。

とっさに陸路レバノンへ行くと言っていたSを思い出した。どこへ行くにも、もはや安全は保証されないのだ。

2012-04-09

避難生活


今日(4月8日)、久しぶりに教え子のAとチャットすることが出来た。彼は、イドリブ県のアリーハに住んでいるが、先日来、このアリーハの町での攻防が激しくなっているとの報道が続いており、消息が非常に気になっていた。

状況は?と聞くと、アリーハの町は危険で住める状態ではなくなっているので、10日前から、家族と一緒にアレッポに小さな家を借りて住み始めたという。

アリーハの町では、銃撃戦、爆破、その他あらゆる混乱が起きているようである。

「僕の家族はとりあえず大丈夫ですけど、すごくいっぱい死んでいるんですよ。」と彼は極めて直接的な表現を使った。

アレッポの借家はいくらかかってるの?と聞くと月15000ポンド(約3万円)と言う。余裕のある家ではない。彼と父親が働いてはいるが、物価も上がっている折、かなり厳しい出費であることに間違いはない。

しかし、彼らはまだアレッポで家を借りられるだけマシであるという。イドリブからは多くの難民が今トルコへと逃げ出しているのだ。また、アレッポに出てきても、家が借りられず、路頭に迷っている人たちも増えてきているようだ。

もう少し詳しく様子が聞きたいと思い、スカイプは?と聞くと、この数日ダメだと言う。携帯も、私が2月にアレッポにいたときは、彼がアリーハの町に帰ると使えないことがほとんどだった。空港から最後に挨拶を、と思ってかけたときも、ついに通じなかった。

しかし、今はあの時の比ではないようだ。あのころは彼は少なくとも、アレッポとアリーハの間を行き来していた。

2週間ほど前に、亡くなった夫を記念したシリアテレビの番組に出ることになっていたと聞いていた。彼は夫がずっと目をかけて、エブラ文書の個人教授をしてきていたので、一番弟子と言うことで、インタビューを受けることになっていたのだ。それはどうなったのかと聞くと、断ったと言う。テレビに出て、顔がうつるとやばいのだと言うことだった。デモに出ているようだった。

実際、一週間前にいとこが捕まってしまったという。アレッポのど真ん中で捕まったと・・・。

こんな混沌とした状況の中で、彼はとにかく修士論文を書き始めたらしい。「いいのを書いて、先生と亡くなったハミード先生に喜んでほしい」と言う彼の言葉に目頭が熱くなるのを感じた。

2012-04-08

Sさんの涙


夫の逝去に伴う弔問の3日間が終わった数日後、世話になっている友人のSさん宅でお茶を飲んでいると、Sさんが深刻な顔をして入ってきた。

「ヤヨイ、帰国を早めたほうがいいわ。ひょっとしたら、フライトがキャンセルになるかもしれないわよ。」と言う。私も、カタール航空がフライトを停止したと言うニュースは聞いていたが、他の航空会社に関してはまだ何も起こったとは聞いていなかった。

まだもう少し気持ちが落ち着くまでシリアにいたいと思っていた私は、そうね、と気のない返事をした。

すると、彼女は少し、強い口調で続けた。「ヤヨイ、今は非常時なのよ。私には十分過ぎる重荷があるのがわかる?先の見えない状態で子どもたちのこと、自分たちの生活のことを考えなきゃいけないの。しかもあなたたちのことも、ここにいたら私の責任だと思うのよ。何かあったら、私の責任だと思ってるの。その責任がすごく重いの。葬儀は終わったのよ。なるべく早く動く決心をして。」そして、涙声になって、ソファに崩れるように座った。 

私も、奈々子も、Gちゃんもいたが、みんなびっくりして彼女のそばに寄った。あの気丈なSさんが泣いている。いつも冷静に、どんなときでも冗談を言いながらサラリと物事を納めてきた彼女が。

「疲れてるのよ。今は前みたいじゃないのよ。」

帰れるところがあるなら、ここにいることはない。状況はそこまで来ている。なのに、私は心の隅で甘えていた。何も言わずに暖かく迎えてくれたけど、彼女にはかなり負担だったのだろう。

「こんなときに、会うことになってしまって・・・。でも、いつか、前みたいに楽しく会える日が来るわ。だから、今は・・・。」と、気を取り直した彼女が言った。ごめんね、が言葉にならなかった。

あれから約2ヶ月が経つ。時折のチャットの際も、彼女はまだ元気がない。

「情勢が良いほうに動く確信はあるわ。いつかはわからないけど。でもテレビのニュース番組は見ないことにしてるのよ。暗くなるだけだから。」数日前に彼女はこう言ったが、これは彼女の家からほど遠くないところで銃撃事件のあった日の翌日だった。

2012-04-04

義弟Mの話


停電の暗がりの中で、お茶を飲みながら義弟Mの話を聞いた。

彼はホムス県内のシン地区の勤務を昨年から行っている。この地区は、ホムスのなかでは一番「戦闘」の激しい地区からは若干外れているが、しかし、生々しい様々な事例に遭遇せざるを得ない。

また、警察官である彼の立場は現在、極めて微妙である。と言うのは、所属だけを見れば政府側になるからである。しかし、彼は現政権の過ちを十分に知っており、立場を忘れてモノを言えば、現政権に嫌悪感を抱いている。

しかし、今回、好むと好まざるとに限らず目の前の「革命」を初期の段階から「取り扱う」しかなかった彼は、「問題は政府側か反政府側かということではないと思うんだ」としみじみと言う。「だってヤヨイ、あんただって、僕が世に言われているような血も涙もない政府側の殺人鬼だなんて思わないだろ?」と言って、ある出来事を話してくれた。

ある日、彼がホムスのある地区の警備に行った際、武装集団が道の両側の建物から銃を乱射してきた。彼と数人の同僚は車の下にもぐりこむしかなかった。そのときは、200発ばかりが撃ち込まれたようだが、警備側は約50発を撃ち返したのみだったという。マフムード自身は1発だけ撃ったというが、その一発も人に向けてではなく、街灯に向けて撃ったのだと言う。自分たちの居場所が街灯に照らされて相手側に知られるのを防ぐためである。「勿論、人は撃ちたくないよ。」と淡々と語り、現場と報道がかけ離れていることを訴える。

それでも警察官でいるの?と言うと、「だって、どうすればいいんだ。警察官全部が悪者じゃないし、僕は僕なりに必要な任務をしてるんだ。やめてどうなるんだ。しかもかえって、やめたことで命を狙われたりしないとも限らない。悪意を持って仕事してるわけじゃない。」
 
 そして、「理性のない武装集団がこの革命の名を借りてなぜか、革命家のような顔をしている。それが気に食わないよ。不条理がまかり通り始めている。」と彼は憂える。

彼は職務として、ホムスの状況を見ざるを得ないわけであるが、同じ家で、上階のフラットに行こうと階段を上っていた際に、狙い撃ちに合って亡くなった人の例や、ある朝起きて外に出たら、どこで殺されたかわからない人の死体が投げ捨てられていた例など、茶飯事になっているという。

惨殺死体の処理なども彼らの仕事らしく、そのたびに吐き気をもよおすらしい。「毎日、見るに忍びない死体ばっかり見てたら、肉だけじゃなくて、食欲も何にもわかないさ。」

昨年、闘争が始まった段階で、子どもたちはアレッポに疎開させ、今は妻と二人でホムスに留まっている。しかし、状況が日増しに悪くなっていっていることから、今回帰ってきたのを機会に、妻はアレッポに留まり、彼は単身赴任となるらしい。

義弟M


2月11日。

爆破事件の翌日。爆破事件の余波は、この日の明け方まで続いていたようで、朝の話題はアレッポのあちこちで夜中じゅう続いた勢力間の掃討合戦(?)の話しであった。

この日も公園のところには銃を持った者たちがいた。ちょうど夫の男性側の弔問客を迎えるテントが見える位置にいるようだった。アレッポでは中流の家で不幸があった場合、弔問客(特に男性)を受け入れるために大きなテントが張られる。普通の弔問テントで「集会」ではないのだが、人の集まる場所であると言うこともあり、見張りをしているような気配だった。

この日は弔問客を迎える最後の日である。この3日間、ただ弔問客を迎えるだけの日々であったが、かなり疲れを感じたので、別の部屋で休んでいた。目を覚ますと停電になっていた。時間は夕方7時過ぎであった。今日は停電が早いなと思っていると、ホムスで警察官をやっている夫の弟Mが帰ってきた、という知らせを受けた。

急いで出て行くと、Mが停電時用の暗い明かりの中に座っていた。夫の姉妹たちも集まっていた。彼は、夫と20歳近く離れており、まだ30代後半である。この数年会う機会がなかったが、再開がこんな形で来ようとは。

「ヤヨイ、あんたはまだいいよ。日本から来て兄貴の死に目に会えたんだから。僕は目と鼻の先のホムスにいるのに間に合わなかった。」と彼はむせび泣いた。停電で、顔があまり見えなくて良かった、と思った。夫と結婚をしたとき、兄貴に日本人の嫁さんがきたことを最初に子どものように喜んでくれたのは、このトシの離れた弟である。その彼の泣き顔を見るのはつらかった。

夫が倒れたとき、彼はすぐにでも飛んで来たかったが、非常に厳しい都市間の移動制限のため、葬儀の3日後の今日までアレッポに来ることが出来なかったという。ホムス-アレッポ間は普通、車で2時間から2時間半である。

しかし、2月現在「激戦」が続くホムスへの陸路は大変危険で、ほとんど寸断状態にある。数ヶ月前から人々はアレッポ、あるいはダマスカスへ行く際には、地中海沿いの町ラタキアへとりあえず行き、そこから空路で移動するようになっている。

しかし、この空路も、皆が殺到してチケットが思うようにとれないらしい。Mのところにようやく来たチケットも、予定より1週間以上遅いものであった。

「日本から来たヤヨイに先を越されたよ。こんなことってあるかよ。」と再び彼は言った。嗚咽を抑えているのは、暗がりでも痛いほどわかった。

2012-04-02

爆破事件の日の午後


爆破事件のあった日(2月10日)は、久しぶりの快晴であった。しかし、爆破事件は、この明るい日を一瞬のうちに暗い日に変えてしまった。

爆破現場のテレビ中継を見たり、みんなであれこれと話しをしているうちに、金曜礼拝の時間が近づいてきた。モスクは家から歩いてすぐのところにあるし、爆破事件もあったことだから、とにかく家にいたほうがいいと皆で言い合っていたところに、夫の息子が入ってきた。

「さっき、黒覆面して銃を持ったやつらが7-8人、ピックアップに乗って近くの通りを通っていったらしいぞ。親戚のxxが見たって。しかも『la illah illa allah』 (アッラーの他に神はなし)って書いた黒い旗を持ってたって言うぞ。」と言う。「それってアル=カーイダの旗印じゃない。」と誰かが言う。みんな、そうだ、そうだという。

真相は別として、なんともイヤな状況になってきたと思った。勿論、アル=カーイダが爆破事件の直後の緊張の中で、旗をおったてて皆の前をこれ見よがしに通っていくなどという愚を犯すとは思わないが、幼稚な手段であれ人心を迷わせるような輩がいると言うことであろう。

しかし、うわさはさらに流れてくる。

「バーセル・ロータリーあたりで、今銃撃戦が始まったらしい。」「空港へ行く道のロータリーでも、撃ち合いになっているみたいだ。」「ムハーファザのところでもやってるみたいだぞ。」と、次々にニュースが入ってくる。ムハーファザといえば、ここからもそれほど遠くない。男たちは、野次馬的なものも含めて、さらにいろいろと情報を交換し合っているようだった。

そのとき、義妹が、「ヤヨイ、来てごらん。」と私を窓のほうに呼んだ。何?と聞くと、家の前の公園の入り口を指して、「ほら、あそこ。シャッビーハ(治安機関に雇われた集団)。銃を持ってるのわかるでしょ?」と言った。

確かに、武装した4-5人が公園の入り口のところに立っている。彼女は、「今日は多いわね。いつも金曜日にはモスクのところとか、公園にもいるけど、今日はやっぱり多いね。」と言う。

シャッビーハは、もっと、それとはわからないいでたちをしており、銃を持たされているのは「正規」の治安要員だ、と言うことを後から聞いたが、みんなこの類の取り締まり要員を一般にシャッビーハと俗称してしまっているようだ。

いずれにせよ、いつも食糧を買出しに来ていたこの地区に、銃を持った者がいるのである。
爆破事件は勿論衝撃的なことであるに違いないが、生活圏に銃が入り込んだこと自体に、なんとも形容しがたい思いを抱いた。

いいお天気だったので、公園には子どもも数人遊んでいるのが見えたが、その横に銃を持った男たちがいる。

「金曜日になると、やつらはそこらじゅうに張り込んでいるんだ。」と言っていた夫の話を今さらながらに思い出していた。