2012-05-25

資料集め


以前にも話題に出したベルギーに留学しているSは、博士論文を「シリアの青銅器の修復」で書くという。先日、チャットをしたときに、論文の章立てを書いて送ってくれた。なかなかしっかりした章立てで、「これじゃ、もう大学の時みたいに、からかえないなあ」と褒めてやった。彼はまんざらではなさそうだったが、「でも、先生問題は今シリアで、資料集めとか、たぶん出来る状況じゃないんだ。」と、本音を言った。

アレッポ大学で教え始めたとき、主人は、まずは「学生を連れて遺跡へ」行くことをこまめにした。みんな遠足気分で、特に春の遺跡は素晴らしかった。

手近なところでは、エブラ、海岸沿いではウガリト、ジャズィーラ(シリア北東部)では、マリ、テル・ブラク・・・などの有名どころは勿論一緒に行ったし、また調査中の遺跡に行くと、発掘者から直接話を聞けることから、学生も非常に興奮した。
 
アレッポ大学の考古学科は2002年に出来たばかりで、用具も、図書も、その他の組織もまだしっかり出来ていなかった。したがって、非常にやりにくいことはたくさんあったが、何より我々は遺跡に行こうと思えば、いつでも行けるという強みがあった。それだけでも、天国じゃない、と学生たちによく言ったものだ。

シリアでの遺跡の調査は外国隊が主流を占めるが、あんたたちの国の遺跡なんだから、今にあんたたちが主流になってね、とも。

そのうち、シリアにいる外国隊に学生を送り込む手はずを整えることが出来、何人かは、発掘隊で「修行」をした。ビザも何もいらない。私たちの国の遺跡なんだもの。そんな感じで、学生たちは、自国の遺跡を楽しみ始めたようだった。

あれから十年。今、シリア人の彼らが、自由に遺跡に行き、自由に遺物を見ることが出来ない状況になってきている。Sは反体制を掲げているからなおさらかもしれない。

しかし、今、たとえば博物館展示遺物は、非常時を想定して、かなりの部分を収蔵庫に入れてしまっていたりしているようであるし、以前のように、好きなときに遺跡に行ける雰囲気ではなくなってしまっている。

今、研究生をやっている女学生Dは、シリアでは勉強が難しいからせめてレバノンへ行きたいといっている。彼女は、チャルカス人(サルキシアン)で、ロシア国籍もあるから、外にでるには他のシリア人よりも簡単だ、という。しかし、いずれにしても、シリアを主題にして、それをレバノンでやるのだと。

遺跡は前と同じように存在するのに、この喪失感は何なのだろうか。

2012-05-17

集団埋葬


数年前にシリア北東部のテル・ブラクという遺跡で、5800年前の集団埋葬が見つかった。見つかった人骨は、頭骨のないもの、腕のないもの、さまざまであった。年のころは、十代後半から三十代にかけての壮年男性ものであり、おそらく集団間の戦いの結果死んだ兵士たちであろうとされている。

考古学をするものにとって、これは都市形成期の集団間の闘争という、非常に興味深いテーマを示してくれる。なぜ、集団の間に争いが生まれたのか、そしてそれが「人類史」の中で、どのような意味を持つのか、その背景の社会構造はいかなるものか。

そんなことを、私たちは考察する。そして、断片から当時を復元する。

そして、今。現代のシリア。

ユーチューブに投稿されたビデオは、半分以上の男性が死んだ村の、集団埋葬の様子を伝える。長い濠のような穴に、次々に白い布に包まれた男たちの遺体が運び込まれるのが映し出されている。生き残った男たちが、埋葬を済ますべく、動き回っている。

数千年の時空を超えて、やはり、同じように集団で葬られる人たちがいる。しかし、今、私たちは、それを分析はしない。背景を「復元」をしたりもしない。

ただ、この殺戮のあとに来るものを恐れている。恐れが、悲しみに変り、次には憎しみに変ることを。

「クラスメートだったヤツが、体制派だったら、もし平和になっても、しこりが残るよなあ。前みたいに平気で付き合えないよなあ、正直・・・。」と、反体制派を自称するSは、悲しげに言っていた。「もし、この闘争が終わっても、きっともとのシリアみたいじゃなくなるかもしれない、それがすごく怖い。」と。

大学にいたころ、実測練習用に、Sたちと大学の空き地に即席で「墓穴」を掘り、グループで実測をさせたことがあった。サボる学生、黙々と図を描く学生、他の学生の手助けをする学生・・・。

だけど、その中に、それなりのチームワークがあった。ムスリムだとか、クリスチャンだとか、アラブ人だとか、クルド人だとか、アルメニア人だとか・・・そんなことは、あのフィールドワークのまねごとには関係なかった。

あの即席の「墓穴」が今となっては、奇妙に象徴的に思い出される。

2012-05-10

手紙


いまさらながら思うのだが、今年の二月のシリア行きは、つらい里帰りだった。

シリアは今まで、私たち母子にとって、「行く」所ではなく、「帰る」ところだった。しかし、今、状況は簡単に「帰る」ことを許さない。

娘の奈々子にとっても、つらい「帰国」だったであろう。夫の葬儀が終わったあと何日かして、彼女は高校時代の友達Sちゃんに会いに行くことになった。悲しい出来事があった後とは言え、久しぶりの再会である。うれしげにGちゃんと連れ立って家を出て行った。

Sちゃんは、両親とともにアレッポに住んでいるが、もともとホムスの出身である。両親の実家はホムスにあるし、親戚もたくさんホムスに住んでいる。

ホムスの惨状は、誰にでも普通に伝わって来てはいるが、Sちゃんは、ホムス出身と言う背景もあり、間接、直接に「忌まわしい」事故の話が他の人よりも、生々しく伝わってきているようだ。

今回の騒乱で、ホムスは最も激しい抵抗運動を続けているが、アレッポに住む彼女自体も反政府のデモに出かけたり、集会に行ったりしている。彼女の父親は退役したが、もともと軍人である。娘のそのような行動を好ましく思っていないが、同時に、彼女の身を案じてもいる。

奈々子たちの久しぶりの再会も、彼女の最近の反政府活動や、ホムスで起こっている極めて具体的な、生々しい闘争に関する話や、市民の苦しい日常生活の話で占められた。奈々子も、少なからず、Sちゃんの話に衝撃を受けたようであった。

つい一昨年の夏には、彼女ら仲良しグループは、ささやかな卒業旅行で、ベイルートまで遊びに行った。ホムスを経由して、ベイルートへ行き、帰りはホムスのSちゃん一家の実家に泊まって、笑いさざめいていた。

そのときの話題は他愛もないものであったに違いない。その彼女らが、今は、日常茶飯事になってしまった殺戮について、そして反政府運動について話している。

日本に行く私たちに、Sちゃんはホムスの現状を伝えるメッセージを送るね、と言ってくれた。そして、実際、手始めに数枚のメッセージを奈々子に託してくれたらしい。

数日後ダマスカスで、日本に「行く」飛行機に乗り込んだ際、奈々子が、「お母さん、これ」と、彼女が暇つぶしに読もうと思っていた本から、紙切れを取り出した。Sちゃんからの手紙だった。よくチェックに引っかからなかったものだ。これには、生ナマしいホムスの様子が書かれているのだ。

奈々子は、再び手紙を本の中に挟みこんだ。

窓から、シリアの褐色の大地がどんどん遠ざかって行くのが見えた。

2012-05-03

紛争の長期化ということ


シリアでの抗議行動が始まってからおよそ14ヶ月が経つ。昨年の3月末にダマスカスで聞いた声は「シリア人は分別を持っている。下手な行動は起こさない」というものだった。あの時はみんな落ち着いていた。

春が過ぎ、夏が来て、秋、冬・・・状況は悪化し、そして二度目の春も半ば以上を過ぎて、まだ出口は見えない。

一口に1年だ、14ヶ月だと時間の長さをいうのはたやすい。しかし、友人との話しのなかに、確実に「だけど」という逆接の接続詞が増えてきた。「元気?」と聞けば、「元気」だとか「まあまあね」と言った答えが返ってくるが、今はそれに「だけど・・」という一節が加わる。

「今年は冬の雨が多かったから、草花が咲き乱れて・・・」と伝えてきてくれた友人も、「だけど、それでも気が晴れない。こんなにたくさんの人が死んでいて」と続ける。

心配する私に「何とかやってるよ」という友人。「心配しないで。」と言いつつ、「今のところ、私の周りでは何もないわ」と言う。

そうなのだ。今、彼らにわかるのは、自分の周りはとりあえず、何とかなっていると言うことなのである。それ以上のことに、何をコメントすればいいのだ、という彼らの気持ちは、何も言わなくても伝わってくる。

娘の友人のGちゃんは、フランスでの医学部のディプロム第1次試験に受かって、第2次試験に向けて勉強中だという。「まあ、いいニュースでしょ?」と言うので、「もちろん、そりゃそうじゃない」と返事をしたが、彼女はそれほど喜んでいる風ではない。

昨年彼女がフランスで勉強をしていたときも、「シリアのことが心配で、フランスにずっといたいわけじゃないわ」と言っていた。今回、もし第2次試験に受かっても、状況がこのままなら彼女は喜んでフランスへ行く気にはなれないだろう。

彼女の両親は、彼女の将来を思って外に出したいのだろうが、出す側も出る側も、重いものを胸のうちに抱えたまま、になってしまうのだろう。

「将来」の話が、彼らと出来ないし、するのをためらってしまう。これが、長期化ということの一側面なのだ。なんと、得体の知れない、実体のない、しかしヒトを傷つけるものなのだろう。

だけど、それでも、彼らの話しのそこここに、前に進みたい気持ちがにじんでいる。

今、私に出来るのは、今日は元気?という挨拶だけなのだろうか。