2012-06-23

自暴自棄


ラタキアにいる友人に、先週激しい攻撃があったというハッフェの街のことを聞いてみた。この数日静かだというので、なぜだろうと思うと、もうほとんど誰も町に残っていないからだという。

町を逃げるときに置いてきぼりを食った、足腰の立たないような老人たちのみが残っているようだと。逃げるときには、彼らうをつれていくような余裕が全くなかったらしい。

残ったその老人たちはどうするのだろう、と聞く間もなく、シリア軍、ロシア軍、中国軍、イラン軍が共同軍事演習をするというニュースを見たか?と彼が聞いてきた。

確か、ネットでそのような記事を読んだが、シリアとロシアは報道を否定していたような気がするがというと、彼は続けた。でももしほんとにそうなったら非常に危険だ。何が危険かって言って、ロシアとか中国が危険なんだ、という。

今、家族を失い、将来を絶望している人たちが増え続けている。その人たちは、もう何も怖くない。ロシアや中国に何かを仕掛ける可能性だってある。当地の共感者を使って、騒動を起こすこともありえる。そうならないことを望むけど、そういう極めて悲観的な可能性だってあるんだ、と。

現実的ではないのかもしれないが、そこまで追い詰められている人が出てきているのは確かなのだろう。

この前は、夫の甥っ子二人が仕事から帰る途中に連れ去られたと聞いた。もう一週間ほど前になる。今日はハムドゥが久しぶりにオンラインにいたので、その後どうなったかを聞いてみた。誰に連れ去られたのかも、そのときはわからなかったので、それも確かめたかった。

ああ、あの二人?と、ハムドゥは私が知っているのにびっくりした様子だった。そして、まだ刑務所にいるらしい、と答えた。

「刑務所!刑務所って!?」ユーチューブや他の忌わしい映像が、一瞬頭に浮かぶ。

「ああ、でも、こんなのはもう普通だよ。まだいいほうだ」と続ける。刑務所拘置が普通?いいほう?

そして、いつもは楽天的な答えをする彼が、いつになくこう書いてきた。「今日は、僕だってこうやってヤヨイと会話してるけど、明日になったら死んでるかも知れないからな。」なにを言ってるのよ、と返事をしようと思ったら、「ほんとになにがいつどこで起こるかわからなくなった。正直なところ、これが現実なんだ」と。

こんな調子のハムドゥは初めてだ。いつも、鷹揚に構えていた彼の口からこんなことを聞くとは。

アレッポ北部近郊の村々では、毎日砲撃があり、かなり壊滅的になっているという。ハムドゥの村、すなわち夫の眠っている村からも程遠くない。

夫の耳にも、砲撃の音が近づいているのが聞こえているのだろうか。

2012-06-14

シリアの6月


私が初めてシリアに降り立ったのは1989年の6月16日の夕方だった。飛行機から出た瞬間、「暑い国」という先入観に反して、心地よい涼しい風を感じ、えらく驚いたのを今でもはっきり覚えている。

その後、かなり厳しい昼間の気温を実感することにはなったが、夕方にはたいてい涼しい風が吹き、昼間の暑さを忘れさせてくれた。シリアの6月は、一年の中で私の一番好きな月である。

シリアの6月は何と言ってもさくらんぼ。甘酸っぱいさくらんぼをキロ単位で買い、天水で育てた太短い、味の濃いきゅうりと一緒に大きな皿に山いっぱい盛る。6月も中旬を過ぎるとそれに杏が加わるが、これもナマで食べてよし、ジャムにしてもよし。

杏ジャムは、シリアでは天日で作る。6月も末になると、そこらじゅうの家のベランダに、杏の入った、ガーゼで覆いをした大きな盥が「展開」する。10日から2週間くらい、たまに混ぜながらジャムとして熟成するのを待つのである。

果物だけではなく、6月にはいろいろ素敵な出会いもたくさんあった。たとえば、この時期には、例年、フランスのウガリト文書解読チームがアレッポ博物館に2週間ばかり滞在し、博物館所蔵の粘土板文書を研究する。

チーム代表のデニス・パールディーと夫が親しかったことから、よくチームを家に招き、食事をしたり、研究の成果などを聞いたりしたものだった。6月生まれの奈々子の誕生日を彼らと一緒に祝ったこともある。最高の誕生日だった。

彼らはアレッポでの研究が終わると、ウガリト遺跡の発掘に参加するために、地中海沿岸の町、ラタキアへと向かう。勿論彼らだけではない。シリア人の中でも、期末試験の終わる6月から、子どもたちをつれてラタキアへ向かう家族は少なくない。港町特有の解放感もあることから、夏のラタキアは人気スポットであった。

しかし、今、他の発掘隊と同様、ウガリト発掘隊も現地調査を昨年来停止している。アレッポ博物館での研究も中断されたままだ。

ラタキアでの開放感はもう今では遠い昔のようだ、とラタキアにいる友人が先日メッセージを送ってきた。街での治安取締りの厳しさは増しているらしい。そして、なんだか、近々、物騒なことになりそうなんだ、と言う。そしてその予感は、不幸にも当たってしまった。

メッセージを受け取った次の日のニュースで、ラタキアにほど近いハッフェの街が包囲されているということを知った。日本時間の昼前、シリア時間ではまだ夜の明けていない時間にその友人がオンラインにいて、私がPCをあけた瞬間にメッセージを送ってきた。

何か凄まじいことがハッフェで起こっているが、地元のものにも詳細はわからない。友人と同姓同名の人物が死亡したといううわさを聞き、人違いとわかったものの気が気ではなく、一睡も出来ず、こんな時間にPCの前に座ってるんだ、という。

古代には、エジプトとヒッタイトにはさまれながら、これらの二大強国をしたたかに「いなす」という知恵をもち、繁栄を保ったウガリト王国。そのウガリトを擁したシリアが、それから3000年以上を経た今、内部の抗争への解決手段を見出せないでいるのだ。

2012-06-05

二つの追悼式


6月4日と6月6日に、ダマスカスとアレッポで、夫の追悼式典が行われる。5月の頭にこのニュースが来たとき、今の状態では行けないなあと思っていた。

皆が集って、夫を偲んでくれる場にいられないのは、寂しかったが、それもいたし方ないと思っていた。会にはメッセージを書き送って、読み上げてもらおうと思っていた。

最初の予定では、両方が5月30日に行われる予定だったが、5月27日ころにFBを開けたら、ダマスカスの会が6月4日に変更になっていた。そして、ほぼ同時にアレッポの分も、6月6日に延期されたことを知った。

ここで、心が動いた。まだ、間に合う。行きたい。行かなければ。行こう。熱に浮かされたようになった。

確かに、今、私が行かなくても、誰もなんとも言わない。ハミードさんは帰って来はしない。今は非常事態なのだ。私が行くことで、シリアの友人に迷惑がかかることもありうる。そういう意味では気違い沙汰だ。

こんな想いが頭の中で渦巻いた。そんなときに、ハミードさんが学生に囲まれてピースしている写真を見てしまった。あのピースは彼の「思い」であり、私の「思い」だったことを思い出した。そして行動にでてしまった。何も言い訳できない。

今は考古学どころじゃない。でも、シリアの彼らに未来は来ないのか?未来に投資しようとした私たちは、今すぐのご利益ではなく、未来にかけたではないか?それを示したい。自己満足かもしれない。

そんな思いを抱きつつも、在京のシリア大使館に行き、ビザを申請したのが5月30日。その帰り道に大使館からの電話があり、翌日の木曜にとりに来るよう言われたので、6月2日のフライトを予約した。その夕方のニュースで、シリアのホウラで起こった虐殺への抗議意思表明として、日本がシリアの在日外交官の国外追放を決めたことを知った。しかし、ビザは翌日受け取ることが出来た。

ダマスカスでの動き方、アレッポへの移動等、シリアの友人を通してばたばたと行った。このようなことは普通、アレッポ旅行代理店のJに頼むが、この数日彼はオンラインにいない。おそらく国外出張なのだろう。メッセージはとりあえず残しておいたが、時間もなく、仕方がないので、他の数人の友人と連絡を行って、アレンジをどうにか終えた。

日本人の友人にも、話しを聞いてもらった。自分でもこの決断が怖かったので、背中をもう一押ししてほしかったのもある。

そして、1日の夜中2時ごろ、このブログの前半を書き終えたとき、代理店のJからスカイプ・コールがあった。彼はウィーンに出張していたが、アレッポの彼の息子との電話を終えたところだという。

「メッセージは見た。だけど、今回はシリアに来るのはよしたほうがいい。今の今、息子と話したけど、政府側がアレッポだけでも2000人規模を動員して、弾圧に当たっているらしい。息子は今、事務所を閉めて帰る道で、政府側が無差別に発砲しているのを見たと言っていた。政府は今、やけっぱちになってるんだ。何が起こるか、本当に本当にわからない。」

ダマスカスは?と聞くと、「ダマスカスはアレッポよりマシだけど、アレッポが今蜂起した以上、ダマスカスにも飛び火する可能性は大きい。」

「やめたほうがいい。あなたのご主人への追悼の気持ちはわかる。だけど、彼だってあなたを危険な目にあわせたいとは思わないよ。」彼の声は緊迫していた。

しばらく沈黙したが、「ありがとう。中止します。」のどもとにある、熱いものを飲みこんで、そう伝えた。