「あのニュースを聞いた時、一番最初に思い出したのはあなた達よ。」
2月22日、シリアにあるトルコの飛び地であるスレイマン・シャーの廟のトルコ人警備兵を避難させるために、トルコが電撃作戦を行なった。このニュースが流れた数日後に、フランスに避難しているシリア人の友人Sさんが、スカイプで話しかけきてくれた。
この作戦のことは日本ではあまり話題にならなかったが、この地域でかつて発掘をしていた私としては、人ごとならぬニュースであった。オスマン朝の開祖オスマン1世の祖父、スレイマン・シャーの廟は、ユーフラテス川にかかるカラ・コザック橋を南から渡ったすぐの所にある。橋を渡るたびに、トルコ国旗が水辺の廟の横にはためき、警備兵らしき人影が見えることもあった。
「ここだけはトルコ領なんだ」と、シリアでの発掘初日、アレッポから遺跡のある村へ行くバスに揺られながらユーフラテス川にさしかかった時、主人が廟の方を指差しながら教えてくれた。1989年の7月初頭だった。その後、一度だけ中に入れてもらったこともある。どのような手続きをしたかは忘れてしまったが、それほど面倒なこともなく、入らせてもらったように記憶している。
元々この廟はさらに下流のジャアバル城の近くにあったのだが、1973年のタブカダム建設でその地点が水没することになり、上流のカラ・コザック村の近くの現在の場所に移築された。その後、90年代後半、ティシュリーン・ダム建設の際も水没が危ぶまれ、さらなる代替地を探した時期もあったが、最終的にダム湖の水位がこの廟にはすれすれで届かないということがわかり、そのまま現在の場所に残ることになった。
この廟の対面のカラ・コザック村にはテル(遺丘)があり、スペイン隊が紀元前3千年紀の遺構を掘り出し、ほんの少し川をさかのぼったジャアデ・ムガーラでは、フランス隊が新石器時代の遺跡を調査していた。
その後、ダムが完成して、多くの遺跡が調査をされないままに水の底に沈んだ。私達の掘っていたテル・アバルも上層を残して水に沈んだが、その近くで、一部発掘を手がけていたテル・コムロックは、島のように残った。
その後、「島」になった遺丘の周辺で、発掘当時のワーカーだった考古学の大好きなアフマド・ムスタファが自分の牛を数頭放牧し始め、崩れかけた私たちの日乾し煉瓦の家を修繕して休憩場所にした。そして、私たちは、時々、その想い出の場所に出かけ、今となっては汀になってしまった場所を散策した。そこではダムの水で土が洗い流され、発掘の時には掘り当てられなかった遺物が散らばっていた。
この島に、ある春の一日、Sたちと行ったことがある。主人は、道々得意になって遺跡や地域の歴史を話した。Sさんも、彼女の夫Nさんも、汀に転がっている遺物を見たり、その年代を尋ねたりして、すごく興奮してくれた。皆、あの汀で子供のようにはしゃいだ。
「私は手術をほっておいてでも、もっとあなた達と一緒に遺跡に行けば良かった、なんて今になって思ったりする事があるわ。ハミードさんの話も、もっと聞いておけば良かった。」女医であるSさんは、あの頃本当にいつも忙しかった。
「あなたたちのお陰で、あのカラ・コザック橋を渡ったら何があるかを知る事ができた。あなた達がもっと遠くのテル・タモル(ハッサケの近く)のあたりで発掘していた時も行っておけば良かったわ。今、ニュースでテル・タモルの名前を聞くと、あなた達を思い出す。あなた達のお陰で、あの地域も私には縁のない田舎町ではなくなった。あなた達を通して、シリアを知ったと思う事もあるわ。」
過分の思い入れで、気恥ずかしくなってしまったが、それでもそういう風に行ってくれる友人の言葉が心から嬉しかった。と同時に、それらの地域の名前を聞くのは、戦闘の場としての報道の中となってしまった、そのことが、特にシリア人である彼女にとっていかに残酷なことであるかを、痛いほど感じた。
遺跡破壊に関しては、ISILが最近派手に「やり始めた」ために、再び注目を集め始めている。しかし、それに限らずこの4年のシリアの騒乱の中で、文化財への侵害は継続してきている。
掘り起こしたシリアの歴史は、私達の感傷とともに、記憶の中に埋め戻すべきものではない。世界に散らばってしまったシリア人の手に、取り戻す術を、今こそ考えなければならない。