非常に親しい友人であるウサマが、アレッポ周辺で何者かに誘拐された。スペイン人ジャーナリストの取材に同行していた際の出来事である。もう、2週間がたとうとしている。
ウサマは学校の先生である。仲間と共に、教育の場が戦乱で失われた子供たちのために、複数の学校を立ち上げ、そこで教えたり、学校の運営などにも関わったりしていた。
もう2年以上前に、このブログで「死の通過点」と名付けられている一画がアレッポにあることを書いた。ここの通りを横切るものは、スナイパーに常に狙われる。ここでは、辻から辻に移動するだけのことが、生死の境となる。彼の学校はこの場所からほど遠からぬ所にある。
爆撃などを避けるために、教室は地下に設置され、有志の先生たちが授業を行っていた。当初から、いろいろなものが不足していた。それでも知人などから寄付を募り、集められるだけの学用品を集めていた。また、子供たちが勉強に興味を失わないように、授業だけではなく、ちょっとしたリクリエーションなどもやっていたようだ。
今年の冬には、寒い中、子供たちが学校に通う時に着るジャケットがないと言っていた。そこで、私たちイブラ・ワ・ハイトの収益から、ジャケット分のお金を送ったが、その後、子供たちの「シュクラン(ありがとう)、イブラ・ワ・ハイト!」という元気なお礼のビデオメッセージを録画し、送って来てくれた。
停電の続くアレッポでは、地下の教室は暗い。学用品や、衣服などの他に、発電機がいるということで、これにも若干のお金を送ったことがある。
学校にはもう一つ、問題があった。先生たちの給料である。
学用品などは、比較的援助を仰ぎやすい。しかし、先生たちの給料の支援をしてくれというのは、なかなか彼らには言いづらいことだった。平時ならば当然のことが言い出せず、個々の生活のために最終的に辞めて行かざるを得ない先生もいたようだ。だが、彼らを責めることはできない。
そんな中でウサマは、なんとかして学校を続けて行かなければならないと、強い決意を持って動いていた。そして、自分なりの解決策として、外国人ジャーナリストたちの取材同行の仕事を請け負い、若干の現金収入を得ることにした。幸い、彼にはいろいろなネットワークがあり、今まで何度かジャーナリストの取材同行に成功していた。
彼がこのような仕事を請け負っていたのは、単にお金のためだけではない。アレッポの状況を、そして彼や子供たちを取り巻く現状を外の世界に知らしめるために、ジャーナリストは大切な役割を果たしてくれる。そういった思いが彼をこの仕事に駆り立てていたことも確かである。
いずれにせよ、この仕事を彼は飄々とこなしていた。ただ、今回はいつもよりも弱気だったような気がする。ジャーナリストを迎えに行く前の日、彼は「無事に仕事が完了するように神様に祈っていて」、というメッセージを送って来た。このメッセージに、彼の一抹の不安を見たような気がした。
その数日後、彼はジャーナリストたちと一緒に撮った写真をフェースブックに投稿した。まるでピクニックのような感じを受ける写真に、案ずることはない、首尾は上々じゃないの、と楽観したのを覚えている。
しかし、私の楽観はまさしく楽観でしかなかった。誘拐の報を聞いて、トルコに住む彼の兄に連絡をとったが、彼のもとにもなんの情報も入っていない。地元のネットニュースなどにある程度の情報は流れたが、詳細は不明のままである。
今年の5月には彼の関係している学校の一つに樽爆弾が落とされ、生徒が数人亡くなった。潰された教室の瓦礫の中には、生徒たちに配布するはずだったシャツが、まだ袋に入ったまま挟まっていた、とウサマは言っていた。
「瓦礫からシャツを引っ張りだした。でも、これを着るはずの子供は、もう死んでしまった」。
不条理が続いている。そして今度は、この不条理と戦って来たウサマまでが、その渦の中にまさしく巻き込まれている。
(参照)
Human Rights News Daily
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