書類を整理していたら、5年前の春に書いたシリアについてのメモが出てきた。
「・・・皆変革を願っている。腐敗も身に沁みて知っている。だからこそ期待はするが、後戻りへの恐れも十分にその背後にはある・・・」
5年前の2011年の3月下旬、私はシリアにいた。
この前年末より日本に帰国していたが、シリアで日本のテレビ番組現地ロケのコーディネートをするという用事もあり、シリアに戻った。
この少し前の3月15日にダラアで「人民蜂起」的な騒動 — その時はそんな風に考えていた –が起こっていたが、ダマスカスでも、アレッポでも街中ではそれほど緊張した空気は感じなかった。
この時は所用のため、すぐにはアレッポに行かずにダマスカスに数日滞在した。その間、タクシーの運ちゃんなどに「ダラアで騒乱があったようだけど、アラブの春の影響があるわけ?」などと水を向けたことが何回かあったが、運ちゃんは「いやいや、シリアでそんなことは起こりっこないですよ。シリア人は『分別』がありますからね」などと、全くノって来てくれなかった。
3月末にダマスカスで、政府の動員による政府支持のお仕着せデモがあったが、この類のデモは私がシリアに滞在した20数年間に普通に行われていたものである。この手のデモがあるたびに、デモに駆り出されても、途中でサボって家に帰ってしまう公務員たちを、気楽でいいわね、くらいの感覚で見ていたものだ。
この時に異常だったのは、夫の反応だけだった。久しぶりにシリアに帰るのでダマスカスまで迎えに来て欲しいと甘えたが、今回は何が起こるかわからないから、一人で帰って来て、とつれない。どうして?街はいたって平穏じゃない、しかも何か起こるのだったら、私にも何か起こるかもしれないのにそれでもいいわけ?と若干冗談めかして聞いたら、「冗談じゃないんだぞ」といつになく厳しい口調だったことを覚えている。
あとから聞くと、この前の数日、大統領がメディアなどに登場しなかったため、暗殺されたのではないかというまことしやかな噂が巷では流れており、首都への交通が遮断されるかもしれないと考える人々が少なからずいたらしい。
普段は鷹揚な夫だが、こと政権周辺のことに関しては、時に神経質すぎるほど警戒することがあった。何かがあったらシリアでは「冗談ではないのだ」ということが、夫の世代は身に沁みてわかっていた。
2000年バッシャール・アサドが大統領になった時、「自由な意見」の投稿が行える週刊新聞が刊行されたことがある。なんとなく、何かが変わりつつあるのかもしれないと皆が錯覚した時期だった。そこで「ドマリ」と名付けられたこの週刊新聞に、夫は考古行政に物申す記事を何回か書いた。この一連の記事はそれなりに好評だったようだが、その数ヶ月後、夫は政府に問答無用で拘束された。いろいろな経緯があり、幸運なことに夫は2日で解放されたが、やはり「冗談」は通じなかったのである。
上の夫の経験は、「冗談ではない」ことでありながら、それなりに収まった例である。しかし今私達は、「冗談ではない」状況が収まる兆しも見えずに進行しているのを目の当たりにしている。
しかしながら最近の「停戦」の中で、人々は再びデモを始めた。多くの仲間が失われ、多くの人々が国を離れたシリアの中で、残った人々はまた声を上げ始めた。
アレッポに残る友人は言った。「空爆がないって、こんなにゆったりするものなんだ。女の人も子供も、みんな久しぶりに公園でお茶を飲んでいる。そして、僕たちは、再び最初に立ち戻って要求を掲げる。この5年間シリアで起こったこと、その全ての後で、僕たちはもう一度声をあげる。」
事態が「シリア」から乖離しつつある中で、彼らの声はまさしく「シリア」の声ではないのか?