アメリカの軍事介入を巡って、世界が急に喧しくなって来た。
8月21日の化学兵器の攻撃のあと、ネット上のビデオは、化学兵器で、生きているようなあどけない表情をして死んで行った子供たちの遺体を次々と映しだした。
子供たちだけではない。あそこでまともにガスを食らった人は、どんな屈強な若者でも死んでしまったのだ。
なのに、世界はまだ、誰が化学兵器を使ったか、誰が死んだか、誰がどう苦しんだか、誰が嘘をついているのかだけを取り沙汰する。
でも、それは別に驚く事でも何でもない。今までも同じだったのだ。朝食の用意が出来ていた普通の家庭の朝が、いきなりの空襲で廃墟のそれになっても、だれも話題にしない。
そして、一連の戦闘のなかで、猟奇的な出来事だけが取り上げられ、それが全てを物語るかのように解釈される。
「化学兵器」の事件のあと、アレッポで、イドリブで、ダマスカス近郊で空爆はさらに激化している。つい数日前トルコのレイハンルにいる友人の親戚がイドリブから出て来て、アリーハとサラーケブ(いずれもイドリブ県の町)で激しい戦闘になっていると伝えていた。
アレッポの友人は、もう10日ほどネット上に現れない。ダマスカスの刺繍工房の指揮をとってくれていた女性も、「女性たちの消息がわからない」というメッセージを最後に、彼女自体の消息が分からなくなっている。
ニュースは、アメリカで、そしてヨーロッパの街頭で、軍事介入の反対を叫ぶ人たちを映しだす。
それを見ながら、いつか夫が教えてくれたエブラ文書(紀元前3千年紀)の一節を思い出した。エブラ王のもとに使者が来た。その使者は、ほど遠からぬ国が、戦闘準備をしていることを王に伝えた。使者は王に言う。早くこちらも準備をしなくてはいけません。「アルヘシュ、アルヘシュ(エブラ語で、『早く、早く』)」と使者は呼びかける。夫は喉音をきかせて、この「アルヘシュ」を繰り返した。
あの時。夫には今が見えていたのだろうか。