10年ほど前の9月の朝、いきなり夫が、エル=コウムへ行こうと言い出した。シリア沙漠中央部のエル=コウムには、銅石、新石器、旧石器の諸遺跡がある。
夫のいきなりの「遺跡に行こう」コールには慣れていたので、じゃあ、行くかという事になった。
エル=コウムへのルートは、アレッポから、ラッカの手前のマンスーラの町に行き、そこから南に下る。交通手段としては、アレッポのガラージュ・シャルキー(東部方面行きバス乗り場)でラッカ行きのセルビスに乗り、マンスーラで降り、そこからピックアップをつかまえて南下する。しかし、このピックアップは「普通はロータリーあたりにたむろしている」はずの代物に過ぎず、行程はそれなりに運を天に任せるものだった。
マンスーラ行きのぼろセルビスは、国道をひた走る。セルビスは椅子の数から言えば補助席も含め12人乗りだが、運転席の後ろ側の出っ張りにも3人を座らせるため、なんと運転手を含め15人が乗る。この時は私と主人の他に当時高校生だった娘も一緒だったが、すし詰めなのに、皆で外国人の私たちに「良い席」を譲ってくれた。他の乗客の多くが、ガラビーヤを着てクーフィーヤを巻いた男性で、その中の一人の妻と思しき女性も、赤ちゃんを抱いて乗っていた。女性の手は、日焼けしてごつごつしていたが、赤ちゃんにおしゃぶりを含ませる所作には、優しさがにじんでいた。
女性は、頭に東部地域に特有のスカーフを、独自なスタイルで巻いているが、ヘンナで赤茶色になった髪の毛が少しはみ出て、バスの窓から吹き込んで来る熱風に揺れている。男性も女性も、口元などに伝統の入れ墨をしている人が多い。女性は、上等なものではないが、よそ行きの風の長い上着を着ている。この上着は黒が基調で、縫い込まれたキラキラと光る金糸が、彼女のよそ行き感を示している。
窓の外を飛ぶように流れて行く景色は、乾いた麦わら色と、真夏よりは若干あせた空色の二色で塗られている。街道沿いでは、セルビスをつかまえようと、物憂げに手を上げる人を時折見かける。セルビスのカセットプレーヤーからは、こもったような音でアラブの歌謡曲が流れていた。車はマンスーラに近づいていた。
私はぼんやりと窓の外を眺めるでもなく眺めていた。その時、「ドン」という鈍い音と共に、乗客全員が前につんのめった。セルビスのフロント・ガラスが砕け散り、車は急停車した。何が起こったかは一瞬には判断がつかなかったが、皆「当たった」「バイクが当たった、なんてこった」と口々に言いながら、ぞろぞろと車からおり始めた。私たちも彼らについて車の外に出た。
出た途端、車のすぐ脇に、一人の青年が倒れているのが目に入った。そして、後方を見ると、5−6メートル先にもう一人の青年とバイクが吹っ飛んでいた。二人乗りバイクがセルビスに衝突したのだ、ということが分かった。死んでる?倒れた青年は生気がなく、黒っぽいガラビーヤが襤褸布のようになっていた。あまりにびっくりして何をしてよいやら分からないでいると、驚いた事に、2人の青年たちはほぼ同時にムックリと起き上がり、よろよろ歩き始めた。乗客の男性や、集まってきていた周辺の村人らしき人が、彼らを抱え、通りすがりのピックアップをとめて、一番近くの病院に行くようにと運転手に頼んだ。青年たちは、ピックアップに横たえられ、ピックアップは乾いた土ぼこりを舞い上げながら去って行った。
僅か数分間の出来事であったが、私にも娘にも非常に衝撃的な数分間だった。自分たちには何も被害はなかったが、倒れた青年を見た時、生死の境目にある何かを彼の体に感じ、同時に足がすくんだ。ぶつかった時の「ドン」という鈍い感触も、単なるモノのぶつかった感触とは全く違うものだった。
その後、私たちは、通りがかった別のセルビスに乗込み、既にこの事故の色々な情報を得ていた乗客の話を聞きながら、先ずはマンスーラまで行き着いた。そこで「幸運にも」ピックアップをつかまえて、エル=コウムまで行く事ができた。遺跡群は素晴らしく、発掘隊の丁寧な説明も受け、突然の遺跡行きは「成功裡」に終ったが、この旅は、私の中で、セルビスの横でぼろのように倒れていた青年の姿とずっと重なっていた。
この地域は、今、いわゆる「イスラーム国」の制圧下。あのキラキラの金糸を施した上着も、今では禁止されているはずだ。ヘンナの色の髪の毛や、入れ墨などにふと目をやるような瞬間も公衆の面前ではありえないに違いない。
そして、この地域での戦闘のニュースは、私の中で、セルビスの横で倒れていたあの青年の姿を再び呼び起こす。あの事故は、何の変哲もないある日に突然起こった災難であった。しかし、今はあの「ドン」という鈍い衝撃以上のものが日常茶飯事となり、生死の境目は、死の方へ大きく傾いている。