2015-12-13

寒色の刺繍


ホムスのワーイル地区にいるBから、「イブラ・ワ・ハイト」で一緒に刺繍をやりたいと初めて連絡があったのは、今から1年以上も前になるかもしれない。

ホムスは、シリアでの紛争の中で、最初に生贄となった街の一つである。激しい抵抗を続けていたオールド・ホムスの反政府勢力は、昨年政府軍にそこをに明け渡したが、近郊のワーイル地区では反政府勢力は抵抗を続けていた。そのために、この地区では、政府軍側からの攻撃が止まなかった。そして、先日、この地区からも反政府勢力は撤退を始めたとのニュースが流れている。

その地区から、Bはポツリポツリとメッセージを送ってきていた。彼女は友人Aの知り合いで、地区に住む女性たちと生活をつなぐための術を、あてもなく模索していた。

ホムスに関しては、当初はそれなりに状況が報じられていたが、その後、特に昨年の政府軍の「市の奪還」以降、報道の表舞台に出て来なくなった。だが、その裏で町の人々は日に日に疲弊している。

ネット状況も悪い。Bは何度も私と交信を試みるが、メッセージが2往復もすれば回線が切れてしまうような塩梅だ。仕方なくメッセージを残しても、Bの返事が1ヶ月も遅れて届いたりする。

彼女は多くは語らない。だけど、短いメッセージの中に「私たちはシリアの国内にいても、活動に参加できるはずでしょ?」と、訴えるような彼女の目を痛いほど感じる。

そんな心もとない通信を続けていた今年の8月、ようやく話が動き出した。彼女は、刺繍がもしできれば、それをワーイル地区から外に出してくれるつてを探し出し、我々からの送金を受け取る信頼できる人も見つけた。

それを受けて、9月の初頭にはようやく材料費の送金を行った。通常、送金は第三国に送り、着金を現地に知らせて、現地で現金を持っている人に同額を立て替えてもらう。だから、送金から現地の受け取りまでにはそれほど時間がかからない。

しかし、今回は違った。第三国にいる彼女の知人からの着金確認後、彼女から現地でお金を受け取ったとの知らせが来たのは、その一ヶ月後だった。このわずかばかりのお金は、誰かが「手持ち」で渡してくれたようなのだ。

こんなに時間のかかるやり方でも、彼女は「大丈夫。こうして、受け取れるのだから、私達はそれに応えられるように、いい作品を作りたい。」と健気に伝えてきた。

「とにかく私達は、何かをしたいの。生活はもちろん大変だけど、とにかくトライしていいですか?」

その後しばらくして、やはりポツリ、ポツリと試作品の写真が届き始めた。だが、写真から察するに彼女らは刺繍をほとんど知らないようである。しかも、最初の試作品は、寒色系の糸のみが3色ばかり使われているだけだった。

「どうしてもう少し明るい色を使わないの?」と聞くと、「赤い糸がマーケットにないんです」という。また、モチーフ例の写真を送ったが、それをプリントアウトすることもできずにいるらしい。

このような状況の中、その後も何度か試作品の写真が、途切れ途切れではあるが送られて来ている。正直言って、まだまだ「作品」というには程遠いものだ。だが彼女達は、一緒に集まり、手を動かし、それなりに楽しんでいるらしい。

昨日のメッセージでB は改めて伝えてきた。「この数日、また街への爆撃が激しくなっているのですが、この一瞬だけは、みんな辛いことを忘れることができるんです。みんな、誰の刺繍が一番いいか、なんて競いあったりしてるんですよ。」

「メッセージ中」の緑の点がついたり消えたりしている。その合間を縫って彼女は、独り言のようにメッセージを書き送ってくる。その独り言は、受け止めてくれる誰かを求めている。

「今度は、もっと上手に作りますね」とのメッセージのあと、緑の点が消えた。爆撃の音が遠くに響くワーイルの夜を、私も過ごしたような気がした。













2015-07-26

誘拐


非常に親しい友人であるウサマが、アレッポ周辺で何者かに誘拐された。スペイン人ジャーナリストの取材に同行していた際の出来事である。もう、2週間がたとうとしている。

ウサマは学校の先生である。仲間と共に、教育の場が戦乱で失われた子供たちのために、複数の学校を立ち上げ、そこで教えたり、学校の運営などにも関わったりしていた。

もう2年以上前に、このブログで「死の通過点」と名付けられている一画がアレッポにあることを書いた。ここの通りを横切るものは、スナイパーに常に狙われる。ここでは、辻から辻に移動するだけのことが、生死の境となる。彼の学校はこの場所からほど遠からぬ所にある。

爆撃などを避けるために、教室は地下に設置され、有志の先生たちが授業を行っていた。当初から、いろいろなものが不足していた。それでも知人などから寄付を募り、集められるだけの学用品を集めていた。また、子供たちが勉強に興味を失わないように、授業だけではなく、ちょっとしたリクリエーションなどもやっていたようだ。

今年の冬には、寒い中、子供たちが学校に通う時に着るジャケットがないと言っていた。そこで、私たちイブラ・ワ・ハイトの収益から、ジャケット分のお金を送ったが、その後、子供たちの「シュクラン(ありがとう)、イブラ・ワ・ハイト!」という元気なお礼のビデオメッセージを録画し、送って来てくれた。

停電の続くアレッポでは、地下の教室は暗い。学用品や、衣服などの他に、発電機がいるということで、これにも若干のお金を送ったことがある。

学校にはもう一つ、問題があった。先生たちの給料である。

学用品などは、比較的援助を仰ぎやすい。しかし、先生たちの給料の支援をしてくれというのは、なかなか彼らには言いづらいことだった。平時ならば当然のことが言い出せず、個々の生活のために最終的に辞めて行かざるを得ない先生もいたようだ。だが、彼らを責めることはできない。

そんな中でウサマは、なんとかして学校を続けて行かなければならないと、強い決意を持って動いていた。そして、自分なりの解決策として、外国人ジャーナリストたちの取材同行の仕事を請け負い、若干の現金収入を得ることにした。幸い、彼にはいろいろなネットワークがあり、今まで何度かジャーナリストの取材同行に成功していた。

彼がこのような仕事を請け負っていたのは、単にお金のためだけではない。アレッポの状況を、そして彼や子供たちを取り巻く現状を外の世界に知らしめるために、ジャーナリストは大切な役割を果たしてくれる。そういった思いが彼をこの仕事に駆り立てていたことも確かである。

いずれにせよ、この仕事を彼は飄々とこなしていた。ただ、今回はいつもよりも弱気だったような気がする。ジャーナリストを迎えに行く前の日、彼は「無事に仕事が完了するように神様に祈っていて」、というメッセージを送って来た。このメッセージに、彼の一抹の不安を見たような気がした。

その数日後、彼はジャーナリストたちと一緒に撮った写真をフェースブックに投稿した。まるでピクニックのような感じを受ける写真に、案ずることはない、首尾は上々じゃないの、と楽観したのを覚えている。

しかし、私の楽観はまさしく楽観でしかなかった。誘拐の報を聞いて、トルコに住む彼の兄に連絡をとったが、彼のもとにもなんの情報も入っていない。地元のネットニュースなどにある程度の情報は流れたが、詳細は不明のままである。

今年の5月には彼の関係している学校の一つに樽爆弾が落とされ、生徒が数人亡くなった。潰された教室の瓦礫の中には、生徒たちに配布するはずだったシャツが、まだ袋に入ったまま挟まっていた、とウサマは言っていた。

「瓦礫からシャツを引っ張りだした。でも、これを着るはずの子供は、もう死んでしまった」。

不条理が続いている。そして今度は、この不条理と戦って来たウサマまでが、その渦の中にまさしく巻き込まれている。

(参照)
Human Rights News Daily
http://www.humanrightsnewsdaily.com















2015-06-19

ウム・イマーンへ


ウム・イマーン、あなたがシリアに戻ってから、もう2ヶ月近くがたちますね。
トルコの生活が厳しく、特に毎月の家賃がどの避難民の方にも重くのしかかっているということは、Mさんからいつも聞いていました。

シリアならば、とりあえず家がある。まだ親戚や知り合いもいる。そう思って、少なくとも命の危険だけはないトルコから、祖国のシリアに帰る決断をしたことは、今の状況では致し方のないことだと思います。

あなたがトルコを出る際、Mさんがあなたに刺繍道具一式を託したということを聞いていました。

そしてあなたがイドリブの自宅に戻って、予想よりも早く150個ものくるみボタン用の刺繍を仕上げ、さらにそれをMさんの所に送って来てくれたことを聞いたときは、本当に嬉しかった。

これこそ、私たちの望んでいることだったのです。針と糸さえあれば、どんな所でも出来る。私たちは、出来たものを受け取り、刺繍に縫い込まれた「シリア」を皆に届ける。

そのあなたの刺繍が、先日私たちの手元に届きました。

包みを開けると、可愛らしい色とりどりの刺繍の中に、いくつかの新しいモチーフも混じっていました。こんな状況の中でさえ、あなたは創造力を発揮している。

いつも、製作者のメッセージとして好きな言葉を添えてもらっていますが、今回、「أحبك(I love you.)」という言葉が綴られた刺繍が、なぜか気になりました。このI love youという言葉を、あなたはきっと陳腐な言葉として綴ったのではないはずです

あなたがこの言葉を刺繍したとき、誰を思って針を運んだのでしょうか?亡くなった旦那様なのか、拘束されたきりまだ帰ってこない息子さんなのか。それとも破壊された祖国の町なのか。

あなたがイドリブの町にあった自宅から、さらに空爆を避けて、郊外の村に移ったことも伝え聞いています。シリアに帰っても転々としなければならないであろうことは、予想はしていました。

こんな不安定な中で、私たちに送ってくれた刺繍、そしてI love you という言葉。雨音を聞きながら、今、これに込められた様々な意味と、痛みを感じています。

ラマダン月を、心安らかに過ごすことができますように。







2015-06-01

パルミラ・・そして、その後


パルミラは、世界でも最も美しい遺跡の一つであることに間違いはない。そして歴史的に、考古学的に如何に重要であるか、ということは私が改めて言う必要はない。世界遺産というブランドすら、パルミラには不要。パルミラそのものがあまりにも素晴らしい。

ダマスカスから2時間半ほど、砂漠の中の街道を車に揺られたあと、遥か彼方にナツメヤシの林と暖かな風合いの石灰岩の列柱が見え始める。時間の枠を自然にすり抜けたような感覚に襲われる瞬間。

パルミラには、説明のつかない至福感をもたらしてくれる何かがあった。

今回、ISがパルミラの町を制圧し、さらに遺跡をも制圧したというニュースは、世界中の危機感をかき立てた。イラクでの遺跡の大規模な破壊を受け、この危惧は極めて当然だろう。

私も、ISがパルミラに接近しているというニュースが流れた段階で、非常に動転した。あらゆるメディアで、パルミラ遺跡の危機が叫ばれた。ただ奇妙なことに、人々の殺戮に関しては、遺跡の次に報じられていたような感がある。

もし遺跡の問題がなければ、パルミラ周辺の戦闘は、他の地方での戦闘と同様に、今シリアで行われている多くの戦闘の一つとしてしか報じられなかったのだろうか?

現在、ISのパルミラ制圧のニュースの陰で、シリアでは、アレッポやイドリブをはじめとする各地で、樽爆弾や塩素爆弾などの攻撃が続いている。

一昨日は、アレッポ市内及びその近郊への空爆で、1日で150人とも言われる市民が亡くなった。その地区のうちの一つは、ファルドゥースという地区だ。この地区には、イスラム教にまつわる歴史的な参拝祠などがそこここにある。

90年代末、ここにあるオスマン朝時代のファルドゥース・モスクの修復に若干関わったことがあり、この地区を何週間かに渡って訪れたことがある。この歴史的なモスクは、貧しげな町並みの中にあるが、人々の生活に溶け込んだ存在だった。中での作業中、外では子供たちのはしゃいだ、明るい声がいつも聞こえていた。

あのとき、修復作業で埃まみれになった私たちの顔を洗うのに、近所の少年が水差しとタオルを持ってきてくれたっけ。

ここは、世界遺産に指定されたり、世界中から観光客がくる史跡でもない。だけど、街角の人々の暖かな敬愛の対象だった。「文化財」は、仰々しいお宝ではなく、人々の日々のなかに静かに、しかし確かな存在感をもってあった。

このモスクだけではない。この地区には、そこここに町の「文化財」が転がっていた。そして、普通の人々が、頓着なく「文化財」と共に暮らしていた。

空爆は、文化財というモノと、そこで共存していた人々の生活と、その両者を繋いでいた柔らかな日差しを奪い去った。

ビデオには、瓦礫の中から埃まみれ、血まみれになって助け出される子供が写しだされる。私は、かつてあの子たちがしてくれたように、その顔を拭ってあげることも出来ずにいる。

https://www.facebook.com/ShehabAgency.MainPage/videos/1077523188956767/?pnref=story