2017-10-29

泥レンガの壁


アレッポ大学考古学科講師時代の学生たちのうち、何人かはこの紛争の中、ヨーロッパにあるいは近隣諸国になんとか逃れ、勉強を続けている。

最近、そのうちの一人A はイタリアのローマ大学でPh. Dをとった。9月のある日、何気なくFBを見ていると、満面の笑顔で花束を持ち、友人達と写真におさまっているAを見つけた。初めて見る背広姿のAだった。

「おめでとう!」とその写真にコメントしたとたん、スカイプが鳴り始めた。いつも少しはにかんだように話す彼だが、今回も「なんとかなったみたいです。」とこの一大事を恥ずかしげに報告してくれた。

Aはアレッポ大学で考古学を学んだのち、同大学院でセム語を専攻していたが、紛争が激しくなった2013年の後半に命からがらシリアを出た。慣れない異国の地で、当初は文字通り空腹を抱えての生活を送っていた彼。今回のPh. D取得は、まさしく苦学の末の学位である。

彼の研究対象はシリアのエブラ遺跡から出た古代文書である。イタリア隊の発掘により1970年代に楔形文字で書かれた文書が大量に出土し、一躍有名になったこの遺跡は、彼の出身地イドリブ県にある。亡くなった夫はこのイタリア隊の研究者たちと懇意であったため、Aをはじめ何人かの学生をこの遺跡の発掘に送り込んだこともある。

その時、私も夫も至極単純に期待した。将来彼はこの遺跡で、シリア側の研究者として調査をすることになるだろう、と。自分たちの国の歴史を外国人研究者に任せておくことはない。夏の抜けるような青い空を背景に、明るい褐色の壁の遺構が浮かび上がる。泥レンガで造られた建物は、その背景となった歴史を誰かに語しむべく発掘されたはずだった。

しかしシリアでの争いは、エブラ遺跡さえも餌食にした。他の遺跡と同様、ここも盗掘の対象となり、激しい侵害を受けている。イドリブ博物館の収蔵されていた粘土板文書コレクションも、現在どうなっているのか不明である。

久しぶりにゆっくり話すことのできたAに今後のことを聞いた。学術的な方面でイタリアに残る術はないのかと思ったのだが、彼の答えは、あまり芳しいものではなかった。イタリアは経済的にもそれほど余裕がない、彼のように学位をとった学生はうようよいる。また学術機関ではなく、何か別の仕事を探すにしても、あまり期待はできない。可能性として、1年ほど前にベルギーに出て難民認定を受けた家族に合流して、自分も難民申請することも考えていると。

歴史を語る術を身につけたことと、彼の人生の選択肢は別物である。

私たちがあの夏の日に見た夢は、まだあのくずおれた壁の中に残っているのだろうか。








2017-10-19

ラッカとタハ・タハさん

昨日来、ラッカからISが駆逐されたというニュースが日本のテレビでも伝えられている。ISが首都とみなした町。様々な「蛮行」が行われたとされる町の中心部が、日本のテレビニュースの一コマとなって映し出される。

私としてはラッカが話題となるたびに妙な感覚を覚える。

私がシリアに住んでいた頃は、ラッカがこんなに世界中に「名の知れた」町になるとは予想だにしなかった。

ラッカはユーフラテス川沿いの田舎町。シリア人はユーフラテス川沿岸に住む人たちを総称して、俗語で「シャワーヤ」と呼ぶことがある。「シャワーヤ」とは、遊牧民から定住民になった人々を、都市民が若干冷やかし気味に呼ぶ際に使う呼び名だが、私はその「シャワーヤ」の地域で発掘などをしていたせいで、この地域に友人が多かった。

都市の人たちは彼らをこんな呼び名でからかうこともあるけれど、彼らはアラブの寛容さ、もてなしの心を最も自然に生活の中に持っている人々だ。そして出身部族が未だに自分たちの本来的な帰属であると考える、誇り高き人々でもある。だけど、私が知っている彼らは、誇りよりもなによりも、快活で、楽天的。

件のラッカには、忘れることのできない、得難い友人がいた。彼の名はタハ・タハ。

彼はある意味で変わり者。何でもかんでも「集める」のが趣味で、大好き。彼の家は、彼の収集した物で溢れかえっていた。その中には遺跡に行って表面採集してきた石器や土器片、民俗資料、骨董品などの「逸品」もあったが、新聞の切り抜き、上手下手を問わない絵画、骨董なのか何なのかわからないガラクタも含まれていた。彼の家はいわゆる「ベイト・アラビー」、すなわち中庭の四方が数室で囲まれた形の家で、それなりのスペースがあったが、家族の居所はその中の二部屋しかなかった。

タハ・タハさんは、自分の家を、「博物館」と呼んでいた。お客を呼ぶのが好きで、彼はコレクションを見せるために、外国の発掘隊のメンバー、地元の自称「文化人」などをよく招待していた。私も主人も彼の「賓客」として何度も呼ばれた。

子沢山で、このガラクタの山、暇があれば、「収集」と称してどこかに行く。彼は郵便局の職員で、月給など雀の涙程しかない。彼は金銭的にはいつも「貧し」かった。前歯が抜けたことがあったが、それを治療するよりは「収集」することになけなしのお金をつぎ込んだ。

ある日主人と彼の家に行った時、主人は彼の奥さんに尋ねた。こんなクレージーな旦那と一緒にいて平気なのかと。彼女は笑いながら答えた。「彼のクレージーを感じなくするために、わたしもクレージーになったわ。これほどいい解決法はないでしょ?」

彼は毎年9月に彼の「博物館」で「祭典」を開いた。地元、外国を問わず大勢の「文化人」をよび、その中の音楽家に音楽を奏でてもらい、詩人に詩を朗読してもらう。私たち考古学をしていたものは「考古学功労賞」を彼から授けられた。

彼と知り合ってから数年後に、彼は借金をして実際に「博物館」の建物を作り始めた。最初の年は、地下のみ完成。その年の9月の「祭典」の「式典」は、コンクリート打ちっ放しの屋根のない一階で行われ、「特別展」はとりあえず完成している地下を使っていた。

その後も一階以上が完成しないまま、彼の祭典は時にラッカ市のホールを借りたり、ユーフラテス河畔のレストランを使ったりして行われた。

彼の活動は、ローカル色満載すぎるきらいがあったが、シリア国内でも結構知られていた。あまりにも雑多なコレクションであり、彼の呼ぶ「芸術家」もそれほど評価されていない者が多かったため、一部の「洗練された」芸術関係者からは評価を受けていなかったが。

しかし、彼の存在はシリアでは極めて稀で、非常に貴重だった。「普通」の市民が私財を投げ打って「文化」を試す。我々は「文化財」に対して知らず知らずに、スマートな「スタンダード」を求めているが、彼の手当たり次第のコレクションは、他に例のない、この時期の、シリアの、この地域を表していた。

何を隠そう、私たちが今「イブラ・ワ・ハイト」で使用している刺繍のオリジナルは彼のコレクションの一部なのである。このブログでも以前触れたが、タハ・タハコレクションの刺繍に主人が惚れ込み、彼から無理を言って譲り受けたものなのである。

ISがラッカを制圧したとき、私が一番に思ったのは、タハ・タハさんはどうしているのだろうということだった。彼の消息はずっと不明のままだった。

2ヶ月前。偶然、私のFBの投稿に見覚えのある名前で「いいね」をした人がいた。タハ・タハさんの息子の名前だ。びっくりしたが、試しにメッセージを送ると、やはり彼の息子だった。その後、この息子経由でタハ・タハさんにもつながった。タハ・タハさん一家は今トルコのウルファにいるらしい。

彼によると、ISはラッカを制圧したのち、彼のコレクションにも目をつけた。ある日突然彼らはやってきて、「博物館」を全て、背教の印として破壊してしまったという。

私の中では、未だにラッカはタハ・タハさんの「博物館」と結びついている。だから、この数年のIS制圧下のラッカでの出来事は、虚構のように感じることがあった。しかし、ISは確かにあの町にいたのだ。そして、タハ・タハさんの「博物館」も、コレクションも現実に破壊した。

「博物館は全部なくなった。みんなこっぴどく破壊されたよ。何にも残っていない。綺麗さっぱりね。まあ、でも家族はみんな無事で、僕たちは、結局ここ(ウルファ)に2年前に出て来ることができた。ラッカにはもう何も残っていないけど、僕はここ(ウルファ)の文化関係の人と今友達となって、いろいろ町の文化財を見て回っている。明日も約束があるんだ。また珍しいものがあったら教えてあげるよ。」

彼はまさしくタハ・タハさんだ。

まだ、ガラクタを集め回ることを止めていない。ビデオトークの画面には、かなり老けてしまったが、私の知っている人懐こい顔が映っている。「ウルファに来たら、穴場につれてってあげるよ」と言って笑った彼の口には、まだ前歯は入っていない。







2017-10-17

蜃気楼


久しぶりにブログを再開。

最後の更新が昨年の1110日。
1年近く、思うところが書けなかった。
特に、昨年12月のアレッポ東部の政権側による制圧ののち、私は言葉をほぼ完全に失ったような気がした。アレッポ東部の「奪取」は、私にとって最終的な表現の「奪取」を意味するように思われた。

その後、崩れた旧市街の写真が盛んにSNSに投稿され、「惨状」が今更のように確認されていた。しかしそれは廃墟の写真でしかなく、そこで亡くなった人々の嘆きを伝えるものではなかった。空虚な、無機的な瓦礫の山。アレッポ城でなにやらチェックしていると思われるロシア兵の写真もあったが、彼らの赤い帽子がやたら不自然に見えた。

市内への空爆はその後おさまったが、すでに崩れるべきは崩れ、最後まで残っていた知り合いの幾人かも、シリアを出た。

アレッポ西部、あるいはイドリブのトルコ国境に近い地域に移った人々もいる。移ったというより強制移住である。今年の初めであったか、アレッポから出ることになった、「移住者たち」もしくは「避難民」のための急ごしらえのキャンプをアル=ジャジーラが報道していた。現地ではその日、雪が降りしきっていた。ここに彼らは来る。来るしかないのだ。

その後、この地域で学校支援をしている友人Mから何度か連絡があった。彼はアレッポ「陥落」以前に、この郊外に家族と移り住んでソーシャル・ワークなどをしていたが、大量の避難民の移入とともに、小学校の運営にも関わるようになり、献身的に動き回っているようだった。

政府軍によるアレッポ「奪還」以来、アレッポ市内では空爆はなくなり、小競り合いもほぼ収まったようだったが、彼らのいる周辺部、村落部は依然として危険な状態であり、また空爆は、シリア北部ではイドリブ県に場所を変えて行われている。

3週間ほどまえに、パリに移住している友人の夫がアレッポに戻った。パリに出てから4年近くなるが、彼は危険な状態の時でさえ、事あるごとにアレッポに帰りたがっていた。今年にはいって、空爆が止んだことを受け、彼の友人の何人かがアレッポに戻って行った。彼らから少しずつ現地の情報が入ってきていた。

彼はとりあえず帰る決心をした。私が今夏、彼の娘さんの結婚式でパリを訪れた時、そんな話をしていた。本当に帰るのか、私は半信半疑だったが、彼は実行した。

レバノンとシリアの国境では、国境の係官たちに嫌がらせを受けたようだが、その後は案外スムーズにアレッポにはいったようだ。家はアレッポ西部で、激しい空爆にあった地区ではなく、一部が軽く破損してはいるが、住むには全く問題がない。

彼は妻に、初日のことを報告した。

家に帰りはしたが、水も電気もなにもなく、どうしたものかと思った。とにかく家を見回っていたら、同じ建物の昔からの隣人が水を持ってきてくれ、電気も自分の家から、一時しのぎではあるが繋げてくれた。ネットも自分のWIFIを使えと、提供してくれた。

家の片付けを始めると、ドアをノックするものがいる。誰かと思ったら、件の隣人で、小さな鍋に『マハシー』(野菜の中に米を詰めた料理)を持ってきてくれた。今までに食べた中で、一番美味しい『マハシー』だった。・・そして思ったんだ。まだ、アレッポには「人間」がいるじゃないか、と。

その後、彼は街に出て、街の様子を見た。
ホテルは帰って来ているシリア人で満杯状態、今まで辻々にあった検問は、彼の歩き回った範囲では取り払われ、自由に行き来できる。

彼は旧市街の一角にも行ったようだ。もっとも戦闘の激しかった地区だ。彼は出かける前に妻に言った。今日は旧市街に行く。後で写真を送ってあげるよ、と。

しかし、彼はその後、妻にメッセージを送った。「何と言っていいかわからない。なんと形容していいかわからない。僕はポケットにスマホを持っていて、それを取り出そうとした。だけど手が震えて、ポケットから手が出なかった。ポケットに何が入っているかも感じられなくなった。これが、あの場所なのか。僕の思考は止まった。写真を撮るのは、僕には不可能だった。」

アレッポの街中は「平穏」を取り戻した。アレッポを一旦離れた人々の中には、様子見ではあれ、街に戻るものも出てきている。しかし街を一歩でると、やはりそこには検問があり、戦闘があり、空爆がある。

アレッポは、シリアという偽りの海に浮かぶ島。その影が私の中で、蜃気楼のようにゆらゆら揺れている。