久しぶりにブログを再開。
最後の更新が昨年の11月10日。
1年近く、思うところが書けなかった。
特に、昨年12月のアレッポ東部の政権側による制圧ののち、私は言葉をほぼ完全に失ったような気がした。アレッポ東部の「奪取」は、私にとって最終的な表現の「奪取」を意味するように思われた。
その後、崩れた旧市街の写真が盛んにSNSに投稿され、「惨状」が今更のように確認されていた。しかしそれは廃墟の写真でしかなく、そこで亡くなった人々の嘆きを伝えるものではなかった。空虚な、無機的な瓦礫の山。アレッポ城でなにやらチェックしていると思われるロシア兵の写真もあったが、彼らの赤い帽子がやたら不自然に見えた。
市内への空爆はその後おさまったが、すでに崩れるべきは崩れ、最後まで残っていた知り合いの幾人かも、シリアを出た。
アレッポ西部、あるいはイドリブのトルコ国境に近い地域に移った人々もいる。移ったというより強制移住である。今年の初めであったか、アレッポから出ることになった、「移住者たち」もしくは「避難民」のための急ごしらえのキャンプをアル=ジャジーラが報道していた。現地ではその日、雪が降りしきっていた。ここに彼らは来る。来るしかないのだ。
その後、この地域で学校支援をしている友人Mから何度か連絡があった。彼はアレッポ「陥落」以前に、この郊外に家族と移り住んでソーシャル・ワークなどをしていたが、大量の避難民の移入とともに、小学校の運営にも関わるようになり、献身的に動き回っているようだった。
政府軍によるアレッポ「奪還」以来、アレッポ市内では空爆はなくなり、小競り合いもほぼ収まったようだったが、彼らのいる周辺部、村落部は依然として危険な状態であり、また空爆は、シリア北部ではイドリブ県に場所を変えて行われている。
3週間ほどまえに、パリに移住している友人の夫がアレッポに戻った。パリに出てから4年近くなるが、彼は危険な状態の時でさえ、事あるごとにアレッポに帰りたがっていた。今年にはいって、空爆が止んだことを受け、彼の友人の何人かがアレッポに戻って行った。彼らから少しずつ現地の情報が入ってきていた。
彼はとりあえず帰る決心をした。私が今夏、彼の娘さんの結婚式でパリを訪れた時、そんな話をしていた。本当に帰るのか、私は半信半疑だったが、彼は実行した。
レバノンとシリアの国境では、国境の係官たちに嫌がらせを受けたようだが、その後は案外スムーズにアレッポにはいったようだ。家はアレッポ西部で、激しい空爆にあった地区ではなく、一部が軽く破損してはいるが、住むには全く問題がない。
彼は妻に、初日のことを報告した。
家に帰りはしたが、水も電気もなにもなく、どうしたものかと思った。とにかく家を見回っていたら、同じ建物の昔からの隣人が水を持ってきてくれ、電気も自分の家から、一時しのぎではあるが繋げてくれた。ネットも自分のWIFIを使えと、提供してくれた。
家の片付けを始めると、ドアをノックするものがいる。誰かと思ったら、件の隣人で、小さな鍋に『マハシー』(野菜の中に米を詰めた料理)を持ってきてくれた。今までに食べた中で、一番美味しい『マハシー』だった。・・そして思ったんだ。まだ、アレッポには「人間」がいるじゃないか、と。
その後、彼は街に出て、街の様子を見た。
ホテルは帰って来ているシリア人で満杯状態、今まで辻々にあった検問は、彼の歩き回った範囲では取り払われ、自由に行き来できる。
彼は旧市街の一角にも行ったようだ。もっとも戦闘の激しかった地区だ。彼は出かける前に妻に言った。今日は旧市街に行く。後で写真を送ってあげるよ、と。
しかし、彼はその後、妻にメッセージを送った。「何と言っていいかわからない。なんと形容していいかわからない。僕はポケットにスマホを持っていて、それを取り出そうとした。だけど手が震えて、ポケットから手が出なかった。ポケットに何が入っているかも感じられなくなった。これが、あの場所なのか。僕の思考は止まった。写真を撮るのは、僕には不可能だった。」
アレッポの街中は「平穏」を取り戻した。アレッポを一旦離れた人々の中には、様子見ではあれ、街に戻るものも出てきている。しかし街を一歩でると、やはりそこには検問があり、戦闘があり、空爆がある。
アレッポは、シリアという偽りの海に浮かぶ島。その影が私の中で、蜃気楼のようにゆらゆら揺れている。