もう一人の学生の話。
アレッポでの戦闘が激しくなってきていた2013年、アレッポ旧市街の一角に、文化財を自分たちの手で守ろうとしていた市民グループがあった。
このブログでも当時、少しだけ触れたと記憶している。
このグループには大学で建築を専攻していた者や歴史を勉強していた者だけではなく、地域住民有志なども参加していたが、その中には考古学科卒業生のYもいた。
彼らの活動の場所は、アレッポ旧市街の中心部である。戦闘も行われていた。実際、かなり危険な場所であった。そのようなところで、色白の気弱なYが、グループの主要メンバーとして働いていたのは驚きだったが、その頃の彼との通信を見直してみると、彼は実に果敢に、危険を顧みずに動いていたことがわかる。
歴史的建造物の前に土嚢を築いたり、ウマイヤドモスクにある美しい装飾の施されたミンバル(説教壇)を安全な場所に移したりと、彼らにできるだけのことを行っていた。
また当時から、アレッポ旧市街だけではなく、市郊外の遺跡でも激しい侵害が進行していたが、彼らはその現状に対して、少なくとも記録を残そうと試みていた。混乱が収まった時に、この資料が必要になるはずだ。Yはそう言っていた。
彼らは反政府側のグループとみなされていた。武装集団でもなんでもないのだが、常にマークをされていた。活動にたいしては、有志からのカンパもあったようだが、かなりの部分が手弁当であったようだ。
彼らは反政府側のグループとみなされていた。武装集団でもなんでもないのだが、常にマークをされていた。活動にたいしては、有志からのカンパもあったようだが、かなりの部分が手弁当であったようだ。
その頃、治安は悪化する一方だった。アレッポ旧市街での戦闘は止む様子もなく、ますますエスカレートしていた。
グループの活動も、危険にさらされ、停止せざるを得なくなった。メンバーのあるものは国を離れた。Yには妻子がいた。子供はまだ小さい。結果、彼もトルコへと逃れる道を選んだ。
彼らが去ったのち、アレッポ旧市街は、無慈悲な破壊行為を受け続けた。
昨年末の政府軍による制圧以降、空爆や戦闘のおさまったアレッポでは、ウマイヤドモスク修復の計画も持ち上がっていると聞いた。知り合いのTが、そのためにアレッポに戻っているというニュースも耳に挟んだ。いまだに他地域では激しい人道侵害が続いている中で、「修復事業」がどのようなコンセプトで行われるのか、違和感を禁じ得ないが、少なくとも戦闘のおさまったアレッポでは、そのような動きもでてくるのは当然といえば当然かもしれない。
そんな時、ずっと連絡が途絶えていたYから、FBに「ちょっと質問があるんですけど」と、メッセージが飛び込んできた。Yは、国をでたあと、トルコで大学院に入るチャンスを得たようで、イスラム期の建築史を学んでいた。質問に答えながら近況を聞くと、その後大学での研究は順調に進み、もうすぐ博士号が取れるはずだ、という。
そこで、先のウマイヤドモスク修復計画の話を知っているかと聞いてみた。もし、「修復」というのがまともに行われるのであれば、彼こそ、まさしくこの計画の一部に入るべきだ。そう思った。アレッポでの旧市街の修復や復興は、地元の人なしではあり得ない。
彼は言った。「ああ、そんな話があるの、聞いています。でも僕は戻れない。だって、僕はあの頃の、アレッポで文化財を守ろうとしていた活動のおかげで、『犯罪者』ってことになってしまっている」
あのミンバルを守ったのは、君なのに。