2月1日。エジプトからの招客を広島にエスコートする。
シリア入国ビザのことを娘に頼んで、羽田から飛行機に乗る。娘も予定していたオーストラリア行きを直前にキャンセルして、私と一緒にシリアに行くことになった。
広島でも雪が舞っていた。昼食を済ませ、平和記念資料館を見学し、被爆者の方の話を聞く。14歳のときに被爆したKさんは、淡々と経験を話してくれた。エジプト人のK氏は、いかにして苦しみに打ち勝ったかという質問をした。「悲しむヒマがなかったですからね。父は被爆の2年後に亡くなり、母も寝たきりで、3人の弟を文字通り『食べさせ』ないといけんかったですから。」K氏はさらに、世界へのメッセージは?と尋ねた。Kさんは「戦争はとにかくやめてください。」と静かに答えた。
講話室を出たときK氏は、つぶやいた。「復讐という言葉はないんだ。」惨状を資料館で見たあとでの、Kさんの静かな、しかしなにものより強いメッセージは、K氏のなかでは、まだ整理できていないようだった。戦後、平和への願いをこめて、この場所は「平和記念公園」と名づけられた。「原爆公園」ではなく。この命名をK氏はどう思っただろうか?
その後、K氏のかねてからの希望で、原爆犠牲者に献花を行った。花を献花台に挿し、平和の火と見ていると、シリアでの現在の「内戦」を否が応でも思い浮かべてしまう。「平和」と言うならば、シリアは私のいた22年間は、極めて平和だった。私が最初にシリアに行ったときは、まだモノがそれほど豊富ではなかったが、その後、徐々に、生活が「豊か」になっていくような気がした。中流でも車が買えるようになり、携帯が普及し、町ではレストランで食事を楽しむ層も増えた。人々の服装も垢抜けしてきた。
あの「平和」はしかし、見せ掛けだったのか。最終的に自由な表現には制限があった。車に乗って、携帯で話して、少ししゃれた服を着ることができるようになっても、欠けているモノがある。この「平和」を超えて、さらに求めるものがある。
平和を願う気持ちと、自由を願う気持ち。この二つが相反する事象になって進行している。