2012-02-24

シリア、第二の祖国

シリアとかかわり出して23年、うち22年間はかの地で過ごした。安全な国であった。しかしシリアはその代償を払ってもいたのだ。

2週間前に、シリア人の夫を亡くした。

昨年、事情があり日本に戻っていた私が、シリアに帰りたいというたびに、アレッポに在住する主人は、今は危ないから日本にもうしばらくいたほうがいい、と答えていた。

なすすべもなく徐々に悪化するシリア情勢を、日本で不安を持って見守っていたが129日、突然の夫の危篤の報に、全ての躊躇は拭い去られた。飛行機を予約し、友人にその旨を告げると、「ほんとに危険を冒す気なのか」というメールが来た。医師であるこの友人は、「危篤」の意味を知っている。にもかかわらず、「危険」と言う言葉を使った。重い言葉であった。

昨年の315日に始まった民衆の反政府運動が日を追う毎に泥沼化しているのはニュースで報道されているが、市民生活の中で、塵のように、気付かぬうちに積もる不安は、当初はそれほど目に見えなかった。スカイプ通話を通して23日おきに夫と話していても、最初は変革への期待のほうを強く感じた。他の友人との会話でもそうであった。

特にアレッポは、騒乱が激化する他の地方都市とは違い、表向きにはおおきな動きがあるわけではない様に見えた。だから、私もつい、「今少しだけ行ったらダメかしら」などと言ったりしていたのである。夏ごろまでは、それでも、日本人の友人がシリアに入国していたし、それもあって、「今は来ないほうがいい」というのは夫のオーバーリアクションなのではないのかしら、などと思ってもいたのである。

11月にはいり、欧米のシリアに対する制裁が本格化したころから、事態は闇に向かい始めた。それは電話での夫の声の調子からもわかる。大晦日の夜、普通の年ならば、レストランなどに繰り出して、カウントダウンをする人も多いアレッポでも、今年は、ほとんどが家で過ごしたようである。それは、増え続ける犠牲者への追悼の表現でもある。

年が明ける。停電の影響で、スカイプ通話も停電の合間を縫って行う。「ネット環境」は昔から悪かった。停電も、もっと長時間の停電を普通に経験した。しかし、このような不安の「おまけ」はなかった。

そして危篤の報。こんな気持ちでシリア行きの飛行機に乗ることになろうとは。