2012-06-14

シリアの6月


私が初めてシリアに降り立ったのは1989年の6月16日の夕方だった。飛行機から出た瞬間、「暑い国」という先入観に反して、心地よい涼しい風を感じ、えらく驚いたのを今でもはっきり覚えている。

その後、かなり厳しい昼間の気温を実感することにはなったが、夕方にはたいてい涼しい風が吹き、昼間の暑さを忘れさせてくれた。シリアの6月は、一年の中で私の一番好きな月である。

シリアの6月は何と言ってもさくらんぼ。甘酸っぱいさくらんぼをキロ単位で買い、天水で育てた太短い、味の濃いきゅうりと一緒に大きな皿に山いっぱい盛る。6月も中旬を過ぎるとそれに杏が加わるが、これもナマで食べてよし、ジャムにしてもよし。

杏ジャムは、シリアでは天日で作る。6月も末になると、そこらじゅうの家のベランダに、杏の入った、ガーゼで覆いをした大きな盥が「展開」する。10日から2週間くらい、たまに混ぜながらジャムとして熟成するのを待つのである。

果物だけではなく、6月にはいろいろ素敵な出会いもたくさんあった。たとえば、この時期には、例年、フランスのウガリト文書解読チームがアレッポ博物館に2週間ばかり滞在し、博物館所蔵の粘土板文書を研究する。

チーム代表のデニス・パールディーと夫が親しかったことから、よくチームを家に招き、食事をしたり、研究の成果などを聞いたりしたものだった。6月生まれの奈々子の誕生日を彼らと一緒に祝ったこともある。最高の誕生日だった。

彼らはアレッポでの研究が終わると、ウガリト遺跡の発掘に参加するために、地中海沿岸の町、ラタキアへと向かう。勿論彼らだけではない。シリア人の中でも、期末試験の終わる6月から、子どもたちをつれてラタキアへ向かう家族は少なくない。港町特有の解放感もあることから、夏のラタキアは人気スポットであった。

しかし、今、他の発掘隊と同様、ウガリト発掘隊も現地調査を昨年来停止している。アレッポ博物館での研究も中断されたままだ。

ラタキアでの開放感はもう今では遠い昔のようだ、とラタキアにいる友人が先日メッセージを送ってきた。街での治安取締りの厳しさは増しているらしい。そして、なんだか、近々、物騒なことになりそうなんだ、と言う。そしてその予感は、不幸にも当たってしまった。

メッセージを受け取った次の日のニュースで、ラタキアにほど近いハッフェの街が包囲されているということを知った。日本時間の昼前、シリア時間ではまだ夜の明けていない時間にその友人がオンラインにいて、私がPCをあけた瞬間にメッセージを送ってきた。

何か凄まじいことがハッフェで起こっているが、地元のものにも詳細はわからない。友人と同姓同名の人物が死亡したといううわさを聞き、人違いとわかったものの気が気ではなく、一睡も出来ず、こんな時間にPCの前に座ってるんだ、という。

古代には、エジプトとヒッタイトにはさまれながら、これらの二大強国をしたたかに「いなす」という知恵をもち、繁栄を保ったウガリト王国。そのウガリトを擁したシリアが、それから3000年以上を経た今、内部の抗争への解決手段を見出せないでいるのだ。