2000年のバッシャール・アサド政権の成立後、周囲に何となく「自由」な雰囲気をにおわせる動きが出てきた。ある同人はドマリ」という週間新聞を刊行し始め、紙上ではそれなりの市民の意見が採り上げられた。
あるときこの新聞の記者から、夫も投稿を依頼された。夫は主に考古学関係の問題を取り上げ、好評であったことから、その後連載のような形で記事を書いていた。
その中では、どの国でも問題となる、開発と考古遺跡保存の間の問題を何回か取り上げ、考古総局を批判したこともあった。
何回目かの投稿のあと、夫は無期の拘束を意味する首相命の令状を受け取った。2002年の9月、植林事業で危ぶまれているという遺跡の現状を見に行き、家に帰ってきたところを拘束され、問答無用で、アレッポの拘置所に拘留された。
その日夫は、アレッポ大学の日本センター主催の講演会で発表することになっていた。この集まりには、在ダマスカス日本大使も列席されていたが、夫の不在とその理由に場内は一時騒然としたようだった。
その後、各方面からの助力で、夫は2日間拘束されただけで釈放された。釈放後、当時のシリア首相であったムスタファ・ミロの所に行くようにとのお達しがあったらしく、夫は首相のもとへと出向いた。
ムスタファ・ミロ首相は、アレッポの観光開発のための協議のために当時アレッポに何度も足を運んでおり、地元の考古学関係者とも何回か会合を持っていた。夫は当時すでに考古総局を離れてはいたが、在野の考古学者として意見を求められ、会合の度に声高に物申していた。そのため、首相も彼のことをよく知っており、「釈放」された夫をにこやかに迎えたという。
「なんで、あんたはいつもそんなに声高なんだ。そうかっかすることはない。考古行政は考古総局に任せておけばいいんだ。いっぱい職員がいる。そうじゃないか、考古学のザイーム(重鎮)さんよ。」と、そのとき首相は言った。
夫はそれに、若干皮肉を交えて答えた。「私は、礼拝(サラー)は宗教省だけのものじゃなく、我々市民、一人一人のものだと思ってましたけどね。」
考古学に限らず、それぞれの分野に属するものには、それぞれの「祈り」「礼拝」がある。それぞれが、その「祈り」を口に出すことが出来るはずだ。それは、当然の権利であり、義務であり、政府のみに独占されるものではない。そのことを、夫は上のような、単純なたとえで訴えた。
首相は、声を出して笑った。そして「わかったよ。精進を期待しているよ。また会おう」と言い、戸口まで連れ立って送り出してくれたらしい。
その後、シリアで、それぞれの「祈り」は自由に口に出せるようになったか?
シリアで革命が起こったとき、各方面が、デモ参加者の言う「自由」の意味理解をいぶかった。しかし、それはそんなに複雑なものではなく、ある意味で、夫の単純なたとえのなかに表現されているように思う。それは、普通の市民の共有していた単純な疑問でもあった。
また、3月15日がやってきた。革命勃発から2年たった今、「祈り」は銃声の中でかき消されている。