2013-05-26

アトメ(シリア国内避難民キャンプ)



 今回のトルコ滞在中に、シリア国内の避難民キャンプを訪れる機会を得た。予期しなかった訪問である。



トルコのレイハンル(リーハニーヤ)の町はずれから歩いて国境を越え、シリア側で待ち受けてくれていた車でアトメ・キャンプに向かった。アトメ・キャンプは、シリア・トルコ国境添いにある、「キャンプの体裁をとる」7つのキャンプの内の一つで、その中では最も大規模なものである。ちなみにこの地域はいわゆる反政府側の「解放区」となっている。



車が「シリア」の中を走る。オリーブの畑。赤い土。刈入れが半分ほど済んだ麦畑。ひなびたモスク。1年以上離れていた感覚は不思議になかった。見慣れた風景が、自然に私の前に流れていた。



案内してくれる医師をアトメの村でピックアップするために、一旦車が止まった。「車を戸口に止めないでよ」と、家の中からおかみさんが出て来たが、私たちを見つけた途端に笑顔になり、「アハラン・ワ・サハラン(ようこそ)」と言って家の中に入って行った。しばらくして、彼女は水と、ビワ、キュウリ、さらにはクッキーまで持って出て来てくれた。キュウリの青臭い香りが、とてつもなく懐かしい。



彼女に村の状況はどう?と聞くと、アトメ村自体は近頃落ち着いているが、周辺の村では、まだ空爆もあること、彼女の親戚も沢山亡くなったという事を淡々と語ってくれた。





アトメ・キャンプは、周壁や門などがいっさいない。アトメの村をすぎて2〜3分進むと、小高い丘の上にテントが密集しているのが見えた。あそこに行き着くにはまだもう少しかかるかな、と思ったあたりで、道の両側にテントがぽつぽつ見え始めた。おや、というような私の顔を見て、案内をしてくれた医師が「もうキャンプの中に入っていますよ。」と伝えてくれた。



ヨルダンのザアタリ・キャンプの厳重な門構えを知っていたので、この唐突なキャンプの始まりは、意外であった。



UNHCRのテントもあるが、ほとんどがもっと小型の無地のテントで、中にはビニールシートを木に簡単に結わえただけのようなものもある。さらに行くと、キャンプ内のメインストリートに出た。両側にテントがあるが、その並び方は、ザアタリのように整然としたものではなく、丘に向かって不規則に密集している。テント間には、地面を掘っただけの浅い排水溝が無造作に這っている。





医師の案内で、このキャンプ唯一の医療診療所に行った。粗末なプレハブの建物で、数人の子供が診察や治療を受けていた。この中の、間口一間半ほどのスペースが薬局だが、背面にしつらえられた棚にまばらに並ぶ薬品がこのキャンプにいる35000人(5月22日現在の概数)のための薬の全てであるという。



他のキャンプと同様半数以上が子どもで、キャンプ内の衛生状態が悪いため下痢症状を訴える子どもが多く、皮膚病(リーシュマニア)も蔓延している。また婦人では、クラミジア感染症なども目立つ病気のようである。「厳しい冬をやっと越えたんですが、今度は夏が来る。この衛生状態のなかで、夏はどうなるのか。」案内の医師は途方にくれたように言う



重症者や、ひどいケガなどの場合は、以前はトルコに運ばれていたが、今はそれが難しく、アトメの村にある病院にとりあえず収容されるらしい。



「キャンプの運営資金は主に、在外のシリア人有志や、内外の慈善団体の寄付に頼っています。ヨーロッパからの支援は全くありません。国際機関とやらの援助は極めて限られている。」と、医師は吐き捨てるように言った。



キャンプに入る前に会った別の医師は、さらに辛辣に語ってくれた。「この地域は解放区だが、国際的に宙ぶらりんの状態と考えられている。その故なのか、国際社会は援助を本気で考えていない。国際機関は『人道支援』を謳っているけど、『人道支援』はどんな状況でもあるべきじゃないのか?我々にしてみたら彼らは、利害関係だけで動いているように見える。もっと率直に言えば、この状況を彼らはビジネスのネタにしているだけだ。医療に関して言えば、唯一『国境なき医師団』が実質的に、しかも無私の姿勢でやってくれている」



キャンプのとある一角では、テントとテントの間の隙間の地面に直にマットレスをしいて男の子が寝ていた。「この子は下痢が続いていて、ずっと体がだるいんだ。」と寄って来た子どもが教えてくれた。すぐ横には、木の枝にロープを巻き付けただけのブランコがあり、妹を遊ばせてやっている子どもがいる。



ブランコが揺れるたびに、木の葉の間から見える青い空が揺れる。子どもの笑い声は屈託ないように聞こえる。しかし彼らの空は今、この切り取られたような空間にしかない。


*アトメは Qatma قطمة ですが、方言の音を当てています。









2013-05-19

針と糸




亡くなった夫は、たまに熱に浮かされたように何かに夢中になる事があった。シリア刺繍の収集もその一つである。あるとき、ラッカという町に住む友人Tが、素朴な刺繍の施されたクッションカバーの数々を夫に見せてくれた。この友人がユーフラテス川沿いの村々から集めたもので、ここ50年来の作品だと言う事だった。



刺繍は、一つ一つのモチーフが奇抜であったり、とりとめがなかったりで、重厚な「伝統工芸」のイメージからはほど遠い。しかも、粗末な木綿地に、有り合わせの糸で刺し込まれているだけである。しかし、そのユーモラスで、どこか暖かいその文様は、物々しい「伝統工芸」としてではなく、シリアの片田舎のあっけらかんとしたデザイン感覚を素直に表現している。



夫は、それからTの所に行く度に、しつこいほど収集を薦め、時には彼の集めたものを借り受けてきた。しまいに、Tはそんなに気に行ったのなら、いくらでももって行けばいいと、コレクションをかなり譲ってくれた。



夫は大喜びで、アレッポ郊外のジャバル・ハス(ハス山)という地区にある村の農家にそれらを飾った。この農家は、コッバというドーム状の屋根をもつ、日乾し煉瓦で出来たシリア北西部特有のつくりで、半壊していたのを夫が「復元」し、借り受けていたものだ。



刺繍コレクションをここに「展示」してから、夫は友人や客人が来る度にこの家に連れて行き、忘れられつつある「シリアの民間の伝統文化」を熱っぽく語るのだった。



「民間の伝統文化」というものがあるとすれば、それは薄暗い博物館の奥に鎮座するものではなく、自分たちがこうやって手にとって見て、製作を続けていくことができるはずのものなんだ。そんなことが夫は言いたかったのだろう。



そんなこんなを刺繍で飾られたコッバに座って友人と語り合ったのは、まだわずか3年前のことだ。なのに今は、あの刺繍のコレクションがどうなっているのかさえ分からない。暑い時期にはコッバに開けられた小さな窓から涼しい風が吹き込んできて、無造作に壁に止められていた刺繍の布を揺らしていたっけ。



そんな光景が眼間に蘇る度、あの刺繍のことがずっと気がかりだった。



そんな折、シリア刺繍に興味をもってくれる日本人の女性YSさんに出会った。彼女は積極的にシリア刺繍の活用のために動き回り、ついに彼女のおかげで、シリア人女性に刺繍を通じて収入の道を開く活動グループを立ち上げることが出来た。また教え子のSのシリア現地でのネットワークを使い、写真に残っていた夫の刺繍コレクションからモチーフを選び、試作品も作る運びともなった。



「グループの名前は『イブラ・ワ・ハイト』(アラビア語で、「針と糸」という意味)って、どうですか。家をなくしても、難しい道具がなくても、針と糸があれば、何かができる、そんな希望を託して」とYSさんは提案してくれた。私たちの想いにぴったりのこの素朴なネーミングは、シリア人の友人たちからも、至極受けがいい。



ロシアは新たな武器をシリア政府軍に供与し、アメリカは反体制派への武器援助をほのめかす。戦闘は、仮面舞踏会のように、相手が何者かも分からぬまま続けさせられている。



しかし一方で、人々の生活への渇望を誰も止められはしない。



「針と糸」をそのための武器にしたい。手仕事の実際をシリア人の友人と調整するため、今私はトルコに向かっている。



*イブラ・ワ・ハイトに関しては
https://www.facebook.com/Iburawahaito
 



















2013-05-06

死の通過点





10日ほど前、「死の通過点」と題するビデオを友人がfbにアップしていた。http://www.youtube.com/watch?v=VNyJwVHuyCQ&feature=youtu.be



今、アレッポの町の辻々にはスナイパーが配置されており、町のブロックからブロックへと移動する時、人々はひた走って道を渡る。若者も、女性も、子供も、老人も。



最初は、人々が避難をしているところだと思った。しかし、よく見てみると、人々はナイロン袋をもったり、荷運びの車を押したりで、シリアで普通に見かけた日々の動きがそこにある。ただ、違うのは間近に響く銃声。



ある者は、「早く早く」と連れに呼びかけ、子供は荷車をほっぽり出して、安全な方向に飛び込んで行く。ある者は撃たれ、周囲は彼を建物の陰に引きずり込む。撃たれた人の様子を見ようと駆け寄り、さらに撃たれる人。弾にあたったか、道に座り込む人。



このビデオを見た次の日に、トルコの国境の町に数日前に逃れて来た友人と話す機会があった。彼はビデオに写っている地区に住んでいた。ビデオのことを話すと、彼は平然として言った。「ああ、あれ?毎日だよ。用があって町に出るときはいつもあんな感じで通りに出る。」



彼は半年以上前からパスポートを申請していた。しかし発行は遅れに遅れ、さらに旅券事務所への道は命がけだった。アレッポ大学の日本センターで日本語を勉強していたが、この数ヶ月は、何カ所かの「通過点」はクリアできるものの、大学までは「到達する」ことが出来ず、「授業はほとんどサボっちゃったよ」と笑う。



数日前、ようやく発行されたパスポートを手にしてのトルコへの入国は、かなりスムーズに行ったらしい。とにかく無事でよかったねと伝えようとしたとたん、なんと「また明日アレッポに戻るんだ」と言う。



あまりにも意外で、冗談かと思った。しかし、「向こうで家庭教師をして子供たちに英語を教えてやってたんだけど、まだ全部予定が終わってないんだ。最後まで見てやんないと」と続ける。
 

また、あの「通過点」に戻って行くのか。なぜ?



彼と彼の家族は、昨年、アレッポの中でも安全な場所を求めて移動をし続けた。しかしながら、最後に行き着いた場所は、もとの彼らの家であった。もとの彼らの地区であった。彼の家族も一旦トルコに出たが、またアレッポに戻った。



「トルコにもまた来るさ。だけど、あそこが僕たちの町なんだ。家も幸いなことに、半分潰れたけど、まだ残ってる。」



次の日、彼はアレッポに戻って行った。またあの「通過点」にさしかかり、「生」の側へ渡ることを試みているのだろう。