今回のトルコ滞在中に、シリア国内の避難民キャンプを訪れる機会を得た。予期しなかった訪問である。
トルコのレイハンル(リーハニーヤ)の町はずれから歩いて国境を越え、シリア側で待ち受けてくれていた車でアトメ・キャンプに向かった。アトメ・キャンプは、シリア・トルコ国境添いにある、「キャンプの体裁をとる」7つのキャンプの内の一つで、その中では最も大規模なものである。ちなみにこの地域はいわゆる反政府側の「解放区」となっている。
車が「シリア」の中を走る。オリーブの畑。赤い土。刈入れが半分ほど済んだ麦畑。ひなびたモスク。1年以上離れていた感覚は不思議になかった。見慣れた風景が、自然に私の前に流れていた。
案内してくれる医師をアトメの村でピックアップするために、一旦車が止まった。「車を戸口に止めないでよ」と、家の中からおかみさんが出て来たが、私たちを見つけた途端に笑顔になり、「アハラン・ワ・サハラン(ようこそ)」と言って家の中に入って行った。しばらくして、彼女は水と、ビワ、キュウリ、さらにはクッキーまで持って出て来てくれた。キュウリの青臭い香りが、とてつもなく懐かしい。
彼女に村の状況はどう?と聞くと、アトメ村自体は近頃落ち着いているが、周辺の村では、まだ空爆もあること、彼女の親戚も沢山亡くなったという事を淡々と語ってくれた。
アトメ・キャンプは、周壁や門などがいっさいない。アトメの村をすぎて2〜3分進むと、小高い丘の上にテントが密集しているのが見えた。あそこに行き着くにはまだもう少しかかるかな、と思ったあたりで、道の両側にテントがぽつぽつ見え始めた。おや、というような私の顔を見て、案内をしてくれた医師が「もうキャンプの中に入っていますよ。」と伝えてくれた。
ヨルダンのザアタリ・キャンプの厳重な門構えを知っていたので、この唐突なキャンプの始まりは、意外であった。
UNHCRのテントもあるが、ほとんどがもっと小型の無地のテントで、中にはビニールシートを木に簡単に結わえただけのようなものもある。さらに行くと、キャンプ内のメインストリートに出た。両側にテントがあるが、その並び方は、ザアタリのように整然としたものではなく、丘に向かって不規則に密集している。テント間には、地面を掘っただけの浅い排水溝が無造作に這っている。
医師の案内で、このキャンプ唯一の医療診療所に行った。粗末なプレハブの建物で、数人の子供が診察や治療を受けていた。この中の、間口一間半ほどのスペースが薬局だが、背面にしつらえられた棚にまばらに並ぶ薬品がこのキャンプにいる35000人(5月22日現在の概数)のための薬の全てであるという。
他のキャンプと同様半数以上が子どもで、キャンプ内の衛生状態が悪いため下痢症状を訴える子どもが多く、皮膚病(リーシュマニア)も蔓延している。また婦人では、クラミジア感染症なども目立つ病気のようである。「厳しい冬をやっと越えたんですが、今度は夏が来る。この衛生状態のなかで、夏はどうなるのか。」案内の医師は途方にくれたように言う
重症者や、ひどいケガなどの場合は、以前はトルコに運ばれていたが、今はそれが難しく、アトメの村にある病院にとりあえず収容されるらしい。
「キャンプの運営資金は主に、在外のシリア人有志や、内外の慈善団体の寄付に頼っています。ヨーロッパからの支援は全くありません。国際機関とやらの援助は極めて限られている。」と、医師は吐き捨てるように言った。
キャンプに入る前に会った別の医師は、さらに辛辣に語ってくれた。「この地域は解放区だが、国際的に宙ぶらりんの状態と考えられている。その故なのか、国際社会は援助を本気で考えていない。国際機関は『人道支援』を謳っているけど、『人道支援』はどんな状況でもあるべきじゃないのか?我々にしてみたら彼らは、利害関係だけで動いているように見える。もっと率直に言えば、この状況を彼らはビジネスのネタにしているだけだ。医療に関して言えば、唯一『国境なき医師団』が実質的に、しかも無私の姿勢でやってくれている」
キャンプのとある一角では、テントとテントの間の隙間の地面に直にマットレスをしいて男の子が寝ていた。「この子は下痢が続いていて、ずっと体がだるいんだ。」と寄って来た子どもが教えてくれた。すぐ横には、木の枝にロープを巻き付けただけのブランコがあり、妹を遊ばせてやっている子どもがいる。
ブランコが揺れるたびに、木の葉の間から見える青い空が揺れる。子どもの笑い声は屈託ないように聞こえる。しかし彼らの空は今、この切り取られたような空間にしかない。
*アトメは Qatma قطمة ですが、方言の音を当てています。
*アトメは Qatma قطمة ですが、方言の音を当てています。