2013-10-19

犠牲祭(イード・アル=アドハー)



 イスラムの犠牲祭の数日前の1010日、ベルギーのSからメッセージが来た。それにはダマスカスの刺繍チームの一員である女性からの、ダマスカスのマーダミーエト・シャーム地区の惨状を訴える文が貼付けてあった。



この地区はもとから頻繁に爆撃に曝されて、町の色々な機能が麻痺している。しかし最近ではそれに加えて、食料事情が極端に悪くなりだした。理由は様々だが、爆撃や封鎖で食料補給路が断たれ、人々はなんとか保存食で食いつないでいるものの、最近は飢えで毎日のように子供が亡くなっているという。



確かに最近、報道でもガリガリに痩せた子供の写真が多く見られるようになり、またある地区では、猫の肉を食べてもよいとするファトワー(イスラム教の見解)が出されたという記事なども読んでいたところだ。



こんな中で、犠牲祭がやって来る。



上記のメッセージには、ヨーロッパに在住する彼女の友人に対して一人あたり10ユーロずつを集める事ができるか、との問いが投げかけられていた。それで約1500ドルほど集まれば、牛が一頭買える。その牛を買って犠牲祭の生け贄とし、肉を同地区になんとか搬入し、分配するという計画だ。



私がシリアで過ごした23年間には考えられなかったことだ。シリアで、子供が「飢え」で死んで行くような事態が起ころうとは。理由はどうであれ、それが現実であり、私の前にはその現場からのメッセージがある。



すぐさま、我々の支援グループのSさんに相談した。彼女は、「あの化学兵器の前後の破滅的な状況の中でさえ、我々と刺繍の仕事を続けたいと言ってくれた人たちですし、実際仕事も継続してくれています。お金は必要な時に使う物ですが、今がまさしくその必要な時だと思います。今なら10万円分送れます。大丈夫です。それでも私たちの活動はなんとか回せますよ。」と言ってくれた。



その答えを受け取るや否や、私はスカイプでスタンバイしてくれていたベルギーのSにその旨を告げた。スカイプの向こうで、Sは驚喜している。今なら犠牲祭に間に合う。



早速、送金の手続きをした。夜中の1時をまわっていた。



その数日後、イスラム世界では犠牲祭が始まった。祭りの祝辞がネット上でもかわされている。しかしそんなお祝い事とはほぼ無縁なように、ホムスの友人は、包囲されているワーアル地区には犠牲獣を地区内に入れる事すら禁止されていると伝えて来た。



ダマスカスの彼女らは、どうなったんだろう?



昨夕(17)、やはり支援の相談で東京の中心部に行った帰り道、駅近くの人ごみ中でFBメッセージの着信音が聞こえた。ベルギーのSからだ。立ち止まってメッセージを開けた。ダマスカスからのお礼のメッセージを転送してくれたものだった。



「今回の件に賛同して下さった方々に神のご加護がありますように。・・・このお心付けのおかげで(現地の)人たちがどんなに幸せに感じたか、計り知れないほどです。本当に有り難うございました。」



東京の雑踏の中で、シリアの想いを運んで来てくれた小さな画面上の文字に、胸が熱くなった。






2013-10-04

刺繍再び



ダマスカスでの化学兵器攻撃の後、消息を断っていたダマスカスの刺繍工房の女性たちの何人かと連絡がとれるようになった、とSから数日前にメッセージが入った。

ダマスカスで刺繍作成グループのコーディネートをしてくれている仲間から、ようやく連絡が来たのだ、と伝えるそのメッセージは、しかし、悲しい内容も含んでいた。

刺繍工房に参加していた2家族が、爆撃の犠牲になったのだ。

詳しいことが聞きたいと、Sに問い合わせた。ダマスカスでは化学兵器事件の前後は電話もネットも通じず、何より、現場に近づく事すら出来ない状況が数週間続いたが、このところ少し動き回れるようになったようなのだ。

現地の我々の刺繍プロジェクトのコーディネーターたちは、通常は人道支援活動をしている。彼らは、極めて難しい状況の中で、刺繍製作をしていた女性たち家々を回り、必死で消息を確認してくれた。

亡くなったのは、夫を失った後、子供を連れてホムスからダマスカスに「疎開」して来ていた2人の女性たちと彼女らの子供たちである。一人は4人、もう一人は5人の子供を連れての「疎開」だった。ダマスカスのバルゼ地区にいたという。子供は、何人かは助かったということだが、それを「幸い」と表現するにはあまりに残酷な現実である。

化学兵器攻撃で亡くなったの?と聞く私に、Sは、「いや、化学兵器のせいじゃないよ、だけど、あの後、『普通』の爆撃がやたら激しくなった。みんな化学兵器のことばかり声高に言うけど、実際あの直後の爆撃で亡くなったり、家を壊されたりした者が激増した。実際はあの(化学兵器)後がさらに地獄だったんだ。」と憤りを隠さない。

せめて遺作の刺繍はないものだろうか、という私の「淡い」期待は、Sの言葉で遮られた。「彼女らの家は、めちゃめちゃに壊れたんだ。刺繍もなにもありゃしない」

「刺繍のプロジェクトが始まったとき、彼女らはすごく喜んでいた。少なくとも、手を動かすことで、ちょっとでもお金がはいる。それでなんとか食べて行けるようになるかもしれないって、希望を持ち始めた矢先じゃないか。そんなささやかな望みを、なんでぶち壊すんだ。」

Sの声が、少し途切れた。会話を続ける言葉が見つからなかった。

「でも、先生」しばらく間をおいて、Sが口を開いた。

「他の女性たちで消息の分かったものも結構いる。しかも、なんと刺繍も一部、集めてくれている。100枚以上できてたうちの26枚だけだけどね。特注の大型の壁掛けもその中に入ってる。もうベイルートに運んでるはずだ。彼女らも、まだ、あきらめてないよ。だから、また注文してくれるでしょ?」

そう。刺繍は残っている。彼女らは、続けようとしてくれている。我々の武器は針と糸。

ベイルートからの便が無事に着きますように。