ダマスカスでの化学兵器攻撃の後、消息を断っていたダマスカスの刺繍工房の女性たちの何人かと連絡がとれるようになった、とSから数日前にメッセージが入った。
ダマスカスで刺繍作成グループのコーディネートをしてくれている仲間から、ようやく連絡が来たのだ、と伝えるそのメッセージは、しかし、悲しい内容も含んでいた。
刺繍工房に参加していた2家族が、爆撃の犠牲になったのだ。
詳しいことが聞きたいと、Sに問い合わせた。ダマスカスでは化学兵器事件の前後は電話もネットも通じず、何より、現場に近づく事すら出来ない状況が数週間続いたが、このところ少し動き回れるようになったようなのだ。
現地の我々の刺繍プロジェクトのコーディネーターたちは、通常は人道支援活動をしている。彼らは、極めて難しい状況の中で、刺繍製作をしていた女性たち家々を回り、必死で消息を確認してくれた。
亡くなったのは、夫を失った後、子供を連れてホムスからダマスカスに「疎開」して来ていた2人の女性たちと彼女らの子供たちである。一人は4人、もう一人は5人の子供を連れての「疎開」だった。ダマスカスのバルゼ地区にいたという。子供は、何人かは助かったということだが、それを「幸い」と表現するにはあまりに残酷な現実である。
化学兵器攻撃で亡くなったの?と聞く私に、Sは、「いや、化学兵器のせいじゃないよ、だけど、あの後、『普通』の爆撃がやたら激しくなった。みんな化学兵器のことばかり声高に言うけど、実際あの直後の爆撃で亡くなったり、家を壊されたりした者が激増した。実際はあの(化学兵器)後がさらに地獄だったんだ。」と憤りを隠さない。
せめて遺作の刺繍はないものだろうか、という私の「淡い」期待は、Sの言葉で遮られた。「彼女らの家は、めちゃめちゃに壊れたんだ。刺繍もなにもありゃしない」
「刺繍のプロジェクトが始まったとき、彼女らはすごく喜んでいた。少なくとも、手を動かすことで、ちょっとでもお金がはいる。それでなんとか食べて行けるようになるかもしれないって、希望を持ち始めた矢先じゃないか。そんなささやかな望みを、なんでぶち壊すんだ。」
Sの声が、少し途切れた。会話を続ける言葉が見つからなかった。
「でも、先生」しばらく間をおいて、Sが口を開いた。
「他の女性たちで消息の分かったものも結構いる。しかも、なんと刺繍も一部、集めてくれている。100枚以上できてたうちの26枚だけだけどね。特注の大型の壁掛けもその中に入ってる。もうベイルートに運んでるはずだ。彼女らも、まだ、あきらめてないよ。だから、また注文してくれるでしょ?」
そう。刺繍は残っている。彼女らは、続けようとしてくれている。我々の武器は針と糸。
ベイルートからの便が無事に着きますように。