ついにハムドーがシリアを出た。ヨーロッパに出て、そこで難民申請をするらしい。
1週間程前にトルコにやっとの思いで出て来た。メルシンに行き、そこで悪名高い密航業者の内の一人に会ったという。「彼はイタリア行きの船に乗るのに、一人頭6500ドル(70万円程度)を要求してきた。」とハムドーは言う。私もこのくらいか、あるいはそれより高いくらいが相場だと聞いていた。
6500ドルは、法外に高い。しかも、彼らのところに来るようなシリア人は、シリアで生活が出来なくなり、やむなく外国に逃げようとしている人たちなのだ。しかし、なんとか新天地を見出したいシリア人の多くが、全財産をかき集めて、このような船に乗る。
しかし、こういった密航業者はヨーロッパ行きの船にシリア人を「乗せる」手配をしてはいるが、無事に目的地に着くかどうかは、彼らの知った事ではない。
定員の10倍もの人々を乗せた船が転覆したりするニュースが時折報じられる。命の保障はどこにもない。しかし、他に選択の余地のない人々が、運を天に任せて、この悪魔の船の船賃を払う。
「勿論べらぼうに高いし、中にはイタリア行きとか言っておきながら、シリアのタルトゥースに連れ戻すような罠にかけられる場合もあるらしい。しかも、奴ら差配人の風体は、いかにも胡散臭かった。心底やばいって感じた。だから、あの船はやめた。」とハムドーは、言った。
ハムドーはちゃんとパスポートも持っている。ただ、ヨーロッパに正式に入るためのビザをとる様々な要件に欠ける。最終的にアルジェリアまで空路で行き、そこから陸路モロッコに抜け、そしてスペインに渡るルートをとる事にしたようだ。しかし、モロッコからスペインは、やはり海路だ。危険は、やはり最後まで付いて回る。しかし、もうそれしかない、と彼はハラをくくっているようだ。
父母と妹たちを、アレッポ近郊のカファル・ハムラ村に残してまで、ハムドーがここでどうしてもシリアを出ようと思ったのには、訳がある。
彼は反政府集団のメンバーの多いビレーラームーン村の出身だが、この村の出身者が近頃ことあるごとに、無差別に政府側の治安関係機関に拘束されているという。拘束されたら、ほとんどが帰ってこない。
また、彼は修士論文でアレッポ近郊にあるローマ時代の水路に関してとりあげたが、その水路の位置情報を治安情報部がほしがっていると、博物館の職員に言われたという。
「なんでも、こういった古代の水路に武装集団が潜んでいるってことだ。治安関係機関は水路を突き止めて、吹き飛ばしたいらしい。」
「僕は僕の論文がそんな事に使われたくないけど、もし無視したら絶対捕まる。捕まったら、絶対帰って来れない。近頃は、前にも増して、聞き込みも讒言の類いも多くなっているが、聞き込み無視をしたら、そいつはテロリストの一派だということになるらしい。テロリストというのは便利な呼び名だよ。この言葉さえ唱えたら誰も何も言えない。」
「家を出る時、お袋が、もう帰って来ないのか、と聞いた。何と答えていいのか、わからなかった」
事の経緯を淡々と話していたハムドーの声が、受話器の向こうで、かすれた。