長年の友人であり、アレッポ博物館の館長であるK氏が3週間ほど前から、家族を連れて日本に来ている。
今日、機会あって、彼とその家族に会うことが出来た。昨年の2月以来である。
挨拶もそこそこに、アレッポ博物館や遺跡の被害状況の話となった。彼は3月の来日早々、日本の西アジア考古学関係者を交えて、このテーマでプレゼンテーションを行なったが、私はあいにくパレスチナ出張中であったため、彼の発表を聞き逃した。
「博物館の現状写真はいっぱいあるから、今見ればいい」と、彼は、パソコンをたち上げてくれた。
昨年秋、郵便局前の広場(サーダッラー・ジャーブリー広場)とアミール・パレスホテルで4台の自動車爆弾が爆発して、大きな被害が出たことがある。この二つの地区に挟まれた博物館では、この時爆風で窓ガラスが壊れたり、天井がめくり上がったりと、建物に大きな被害が出た。幸いなことに、主な展示品や遺物は、昨年春の段階でさる場所に移動・保管されており、大事には至らなかったのが不幸中の幸いである。
パソコンに、遺物のとり去られた空っぽの展示ケースが映しだされる。遺物がなくても、どこにおいてあった展示ケースかは覚えている。周囲一帯、ケースや窓のガラスの破片が飛び散っている。壁のタイルもはげ落ち、窓のブラインドはめくれ上がる。
移動できなかった石像やレプリカ像がこれらの残骸の中に見える。周囲を土嚢で囲んで保護してあるが、忘れ去られた残兵のごとく、それでも何か言いたげに佇んでいる。
私の20年間の想い出は、ここにあったはずだ。まだ3歳だった娘の奈々子を連れて、毎日通った。この移動出来ずに残っている大きな壷は、当時の奈々子の背丈ほどもあったっけ。写真を見ながら、そんなことが幻影のように浮かんでは消える。
古代オリエント第二室の突き当たりにある、巨大なアッシリアのエセルハッドン記念碑のところでは、すぐ脇に砲弾が飛んできたという。幸いなことに、直撃は免れたよ、とK氏は淡々と話す。
そんな一連の写真の中に、中庭を写したものがあった。中庭には土嚢で囲まれた玄武岩製の立像が写っていたが、そのよこに、ちらと緑が見えた。
ケイパーの木である。そういえば、いつも何気なくこの木はここにあった。入り口の所にある、数点のレリーフ石の向こうに、この木はいつも見えていた。しかし、入場者はこの木の存在など気に止めることもなく、展示されている数々の「重要」な遺物を見、そして去って行った。
そして、今。文字通り荒れ果ててしまった博物館の中で、この頼りなげな木だけが、丸っぽい葉の間にうす紫の小さな花を咲かせ、青々とその存在感を示している。