2013-04-17

モノトーン



このブログで書くべきか、どうかと迷う出来事が何度もある。昨日、届いた知らせもその一つである。

しかし、シリアの内戦を写し続ける写真家Nino Fezza の「語られなければ、ストーリーは存在しない A story doesn`t exist unless it is told」との言葉をうけ、私の受け止めたものを、やはり書かずにはいられない。

考古学科卒で、兵役にとられ、政府軍に入った若者の死を、昨日教え子の一人が伝えてきた。彼女の説明で、彼の死は、極めて奇妙な形で判明したことが分かった。

先日、自由シリア軍の者であると名乗る人物から、この若者の携帯を使って、彼の父親のもとに電話がかかってきた。この人物は、この携帯の持ち主を殺し、埋葬したと父親に告げた。父親は、どこに息子を埋めたのかと聞いたが、この人物は知らない、と答えたそうだ。

これが教え子の知る一部始終であり、それ以上のことは分からない。

若者は、政府軍にいた。そして彼を殺した人物は自由シリア軍にいた。戦闘中ではなかったようだ。だが、殺戮は行なわれた。そして、どこかに彼を埋めたあと、人物の手元に残った彼の携帯を通して、その事実が家族に伝えられたのだ。

彼女の書き送ってくれた一連のいきさつは、画面上の無機的な文字の羅列であった。文字のみを見れば悲しいまでにモノトーンなそれであった。しかし、そこには2人の生身の人間がおり、一人は、かつて私の授業を受けていた。そして、生き残った人物も、自分の手元に残された、主を失った携帯に何かを感じた。だからこそ、この人物はその事実を家族に伝えようと思ったのだ。

状況は否応なく2人を殺す者と、殺される者に分けた。それが、戦争なのだと、友人たちは言う。日本もかつて戦争を経験した。風化しつつあると言われながらも、私の世代は戦争を生身で経験した親に育てられ、未だに戦死した叔父の墓参りをする。

しかし、今、シリアでの死が、進行形の現実であるにもかかわらず、風化しかけているように感じるのは、私だけなのか。

テレビでは、ボストンマラソンの爆破事件が伝えられていた。